追悼・フランシスコ教皇 : 理想という「神の異名」
いつかこの日が来るとは思っていたし、その日が遠くないということも承知していた。それでもフランシスコの死に、私は個人的な悲しみの情を禁じ得ない。
私は、無神論者であるばかりではなく、積極的な宗教批判者であり、当然、キリスト教批判者でもあれば、カトリックもプロテスタントも批判してきた人間である。
けれども、フランシスコに関しては、その人柄において、敬愛の情を禁じ得なかった。
つまり、彼が、キリスト教信者だとか、ましてやカトリック教会のトップだったとか、そんなことは、まったく関係なかった。
彼は、平和を訴え、差別のない命の尊さを訴え続けた、ごく当たり前のヒューマニスト(人間主義者)だった。
近代における、「人間(中心)主義」とは、通例「神中心主義」に対立するものだと考えられているから、フランシスコのことを「人間主義者」と評することは、まるで彼が「神」を「人間」の風下においているかのように捉えるクリスチャンも少なくないことだろう。
だが、私がここでフランシスコを「人間主義者」だと評した意味は、彼においては「人間主義」と「神中心主義」とは、決して矛盾するものではなかったという意味である。
神が作った人間を、どうして蔑ろにすることなどできよう。神の御前においては、すべての人間は平等であるというのは、論を待たない。
それは、教皇であろうと、いち信者であろうと、無神論者であろうと、アメリカ大統領であろうと、違法移民であろうと、皆おなじことなのである。
だからこそ、フランシスコは、教会内の保守派(伝統主義者)の抵抗にも怯むことなく、カトリック教会の改革を進めてきた。時に厳しいまでの言葉を使って、抵抗勢力を批判しさえした。彼は、それほど真剣だったし、その意味で「人間主義者」だったのだ。
私は「無神論者」だから、当然のことながら「神」に類する「超越的な存在」などというものは「実在しない」と信じているし、確信している。
しかし、「何も信じていないのか?」という言えば、そうではない。私が信じているものとは、「ヒューマニズムの理想」である。
それが何かを具体的に語ることは案外むずかしいのだが、しかし、ひとまずそれは、すべての人間を分け隔てなく尊重しようとする思想だ、とでも言えようか。
無論、そんなことの「実現は不可能」なのだが、不可能であっても、それでもそれを目指そうと思えるところに「ヒューマニズムの理想」があり、人間の「美しい生」があり「尊厳」があるのだと、そう考える。
人間の「美しい生」や「尊厳」というものは、「守られる」ものなのではなく、個々が「行う」ことによって、その時にだけ存在するものなのである。
そして、その範例として挙げられるのが、フランシスコの生であったと言えるだろう。
私は、先般日本でも公開されて好評を博している、エドワード・ベルガー監督による映画『教皇選挙』についてのレビューを書いた。
そしてそこでは、先先代のヨハネ=パウロ2世にまで遡って、フランシスコが教皇であることの重い意味を紹介したし、この映画が語っているのは、間近に予想されている「フランシスコの死」を意識したものだと、次のように語っておいた。
『この作品で描かれているのは「もしもフランシスコが亡くなったら、カトリック教会はまた、反動的に保守化してしまうのだろうか? だが、そうなってほしくはない」という「思い」なのだ。』
次の新教皇が誰になるにせよ、いきなりフランシスコの敷いたリベラルな路線を翻すようなことはないだろう。それは、フランシスコが、前の保守派教皇のベネディクト16世を批判しないどころか、精一杯尊重して見せたのと同じことだ。
教皇になった者は、前教皇を批判したりはしないものなのである。なぜならば、前教皇を選んだのも「神のご意志」なのであれば、自分を教皇に選んだのも、同じ「神のご意志」なのだから、両者にはそれぞれに、人間には計りがたい「神のご意志」が働いているのだと、そう考えるからだ。それが、いかに非論理的なものであろうとも、それが「信仰」であり「神への敬虔」というものなのである。
だが、私たち「非信仰者」は、そのような考え方は採れないし、採るべきでもない。
つまり、フランシスコほどの「人物」が、そう次々と出てくるなどと、期待すべきではない、ということだ。
次の教皇が、フランシスコのことを褒め称え、その死を悼んで見せたとしても、それだけなら「誰にでもできること」なのだ。
信者の姉弟に「性的虐待」を加えていた司祭にだって、その存在を隠して庇いだてしていた前教皇にだって、そうした膿を徹底的に排除しようとしたフランシスコのことを、やはり褒めては見せるだろう。そんな彼らこそが、悪い意味での「人間主義者」であり、世間並みの「政治家」だからである。
だから私たちは、今後もカトリック教会の行く末を見守っていくべきであり、批判すべきは批判すべきなのだ。フランシスコがそうしたように。
そして、そうしたことは、カトリック信者に任せておくわけにはいかないのだ。なぜなら、彼らの多くは「教皇勅書」に逆らえない立場だからである。
カトリックの神学においても、教皇は人間だから「個人として間違えることはある」とされている。
しかし、「教皇の座」から発する言葉は、彼自身の「人間としての言葉」ではなく、「神の代理人」として、神から預けられた言葉、すなわち「預言」であり、要は「神の言葉」なのである。
したがって、その言葉は「絶対無謬」だというのが、カトリックの教義なのだ( ※ )。
カトリックの教義では、いわゆる「聖母マリアの処女懐胎」も「生身のままの昇天」も「事実」であり、それそのままを信じると神の前で誓った者だけが、教会の信者たり得る。
だが、私たち無信仰者は、教皇の言葉が、平時の説教であろうと「勅書」のそれであろうと、それは所詮「人間の言葉」であることを知っているし、「勅書」に反する考えを持てば「地獄に堕ちる」などと恐れなくても良いのだから、そんな「非信者」である私たちが、カトリック教会をしっかりと見守っていくというのは、フランシスコだって望んだことに違いない。
一一無論、そんなことがなくても、「神の意志において、教会が人間のためにある教会」であることを望んではいただろうが、放っておいてうまくいくのなら、フランスシコが教会改革をする必要はなかったはずだし、神が存在する理由だってないのである。
畢竟「神の意志」とは、どこに存するのか?
それは、教皇の中にもカトリック教会の中も在るのだろうが、しかしそれらはすべて、「人間」の役職であり組織でしかない。
つまり「神の意志」とは、すべての「人間」の中にあるはずなのだ。「神」が存在するのであれば、ということである。
フランスシコは、決して「明るい展望の持てる世界」の中で亡くなられたわけではない。彼は、その死の前日まで闘い続けて、そして亡くなられたのである。
ウクライナ戦争もガザの虐殺も止められなかったし、アメリカでは非人道的なドナルド・トランプが大統領に返り咲いた。
当然フランシスコは、こうしたことを決して歓迎してはいなかった。
だが、彼がその力で、世界を大きく動かせなかったから、彼は敗れたのだとか、彼の信仰には力が無かったのだというのは「違う」、と私は思う。
彼を、その最期の瞬間まで、人間に尽くさせた力こそが「信仰の力」であり、それは私たち「非宗教家」にだって持つことのできる、信仰なのだ。
その「信仰」の名とは、「理想」である。
フランシスコも、そのことを否定しはしないだろう。なぜなら「理想」とは、「神の異名」だからである。
(2025年4月22日)
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