中野美代子 『ゼノンの時計』 : プラス「南半球綺想曲」&「海燕」
本書は1990年に刊行されたもので、現在、新刊で入手することはできないが、古書としては比較的入手しやすい本である。
内容は、こちらも遥か昔に絶版となっているが一度は単行本が刊行されている長編『海燕』(1973年・潮出版社)と中編『南半球綺想曲』(1986年・響文社)、それに単行本未収録だった中編「ゼノンの時計」を加えた一書である。
また、著者と種村季弘との対談が、月報として付録されている。
初出は収録順で、次のとおり。
・ゼノンの時計 「北方文芸」1970年5月号
・南半球綺想曲 「文芸展望」第6号・1974年7月
・海燕 書き下ろし・1973年10月、潮出版社刊
なお、『南半球綺想曲』に「1986年・響文社刊」の記述が無いのは、同社が自費出版系の出版社であったせいかもしれない。
私は、この3作の中では、「南半球綺想曲」のみを、響文社版で1989年に読んでおり、爾来たいへんな好印象を持っている。

○ ○ ○
さて、それでは収録作3作を、順に紹介していこう。
「ゼノンの時計」は、主人公の青年が、北海道奥地の湖畔に建つ、いわくありげな洋館を訪うところから幕を開ける。
本作で、特筆すべきはその「文体」で、戦前の「探偵小説」を思わせる怪しい雰囲気に満ち満ちており、何も起こらないうちから、その雰囲気だけでワクワクさせてくれる。
『 館は、たしかに在った。或いは、農夫の言うように、「お城みたいな変な家」と言ったほうがいいかもしれない。枯れ果てた蔦類を唯一の装飾として纏った煉瓦の壁には、古典的な長方形の窓が穿たれ、三階の中央の窓からは、これまたちたバルコンが張り出している。すでに述べたように、このC湖は、原始林が岸に迫っており、その館も、密生するトドマツのくすんだ緑にかかえられ、湖面にせり出しているかと思われるほど孤立している。ともあれ、その館の周辺は、濃密な森を中に、灰色の空と水とが、他から遮られたかのように縦に連なって、ひどく親密なのである。その感じは湖底にまで及び、たとえば、対岸にそよぐ葦の茂みの蔭には、何とはなしに身を投じた女の屍体が漂っているのではないか、或いはまた、粒子の細かい底の泥沙の中には、数十年を経た白骨の一片が水に馴れつつ埋もれているのではないか、などと正典には思われた。
梁川正典は健康な肉体をめざす青年であったが一一三十四歳になってもアポロン的な筋肉の雕琢を怠らない男は稀有と言わなければならない一一長い旅と、その日の本岐村からの走行の果て、強い風に逆ってのボート漕ぎとで、さすがに疲労を覚えた。そこで、湖心で櫂を休めると、まず煙草に火を点け、次いで、かの館をカメラに収めた。』(P10)
原生林の中の小さな湖畔に佇む洋館。そこへと向かう、アポロン的な肉体美を誇る一人の青年。
「アッシャー家の崩壊」を彷彿とさせる開幕。もうこれだけで何かが起こらないでは済まないというのは明白で、この後、洋館に居住する館主の中年男と、モンゴル系と思しき中年女。それに、しばらくこの館に居候させてもらっているという、小説書きの女とその娘だという美女などが次々と登場して、その妖しさはいや増していく。
一一ただ、残念なことには、本作は、広義の探偵小説とは言えても、ミステリ小説ではない。「連続殺人が起こり、さて犯人は?」というようなお話ではなく、妖しくも美しい男女の織りなす隠微な愛憎劇へと発展してゆき、ついにその破局が訪れた瞬間に、この物語は幕を閉じるのである。
そんなわけで、「恋愛」だの「愛憎劇」だのといったものには、とんと興味のない私としては、いささか期待はずれではあったのだが、しかし、独特の妖しさを湛えるその文体は、終始緊張の糸の張り詰めたまま最後まで続くから、それだけでも一読の価値ある作品だ。
今どきの若い読者には少々読みにくい文体なのかもしれないが、戦前戦後の探偵小説が楽しめたような人には、ぜひ読んでほしい。
それにしたって、これだけの文章を駆使できた探偵小説家など、ほとんどいなかったはずである。
「南半球綺想曲」は、うって変わって「ドタバタ喜劇」である。
だが、単なるドタバタ喜劇ではなく、かの久生十蘭の『ノンシャラン道中記』や『黄金遁走曲』で主役を張った、コン吉タヌ子の凸凹名コンビが、北海道を舞台に、盗まれたコアラとパンダを取り戻すべく大活躍する、愉快痛快な大活劇である。

もちろん、その文体は、先の「ゼノンの時計」とはうって変わったものとなっている。だがまた、久生十蘭の代表作である「母子像」などの短編における研ぎ澄まされた文章というものが、いまいちピンと来ない私では、本作に文体が、『ノンシャラン道中記』や『黄金遁走曲』のそれにどれだけ寄せられているかは、なんとも言えない。十蘭の2作は、どちらもずいぶん昔に読んだままで、すっかり記憶にもなく、むしろ記憶に残っているのは、このパスティーシュである「南半球綺想曲」の方だという始末なのである。
だが、面白ければ、久生十蘭の文体にどの程度似せているのかいないのかなど、どうでもいい。とにかく愉快痛快な作品なのだ。
『 お察しのよい読者にはすでに御想像もつこうが、これなる男女は、コントラ・バスの研究生狐野コン吉と、画学生鼻黒タヌ子の愛国的かつ国際的遊侠カップルなんである。
コン吉及びタヌ子とは、そもいかなるやつかと言うに、この両人は昭和九年、遊学先の仏蘭西を所せましとノンシャラン道中いたし、強きを挫き弱きを援け、第三共和政下のドゥメルグ内閣から懇篤なる表彰を受けたほどであったが、あくる昭和十年楫取丸にて帰国し、神戸に上陸するや否や黄金通走曲に翻弄せられつつも見ン事悪党の征伐に奏功し、そのままエチオピア義勇軍に身を投じ、全軀の熱血を献ずるため再び欧州航路の人となったのであった。
爾来コン吉とタヌ子の消息は杳然として絶え、まして昭和三十二年の十蘭先生急死のあとは、かれらは竟に、その優雅にして騒々しい英姿をわれらの前にあらわすことはなかった! 然るに今、小樽港第二埠頭に横づけされた「うるむるー」丸の舷梯に、そのなつかしい姿を見出すことになったんである。
おお、コン吉とタヌ子! エチオピアに全軀の熱血を献じてから四十年に垂んとする歳月は、この両人に、いかなる冒険、将又いかなる韜晦を与えたのであろうか。いやいや、詮索は御無用。ともあれ御両所は、かつての日と寸分違わぬ形容にて、濠州航路は「うるむるー」丸によってただ今帰国したんだ。
小樽港税関事務所ではすでに件の紳士淑女の調べはおわり、いかつい制服姿の税関吏がただ一人、生ま欠伸をこらえながら石油ストーブにあたっていた。そこへ到来のコン吉とタヌ一一
税関吏に申告書を手交す一方で、つき従うコン吉をかえりみつつタヌは叱咤した。
「なにサ、君。支那鞄をひッ背負ったぐらいでフラフラしてサ、ふんとに意気地がないのねェ。まずボクの絵具箱をお寄越しよ」』(P136〜137)
ああ、伝説のコンビの復活! これがワクワクせずにいられようか。
二人のことを知らなくても、やっぱり愉快な凸凹コンビ。しかも、たぬきヅラで、仮にも美人でもなければ可愛いとも言えないはずのタヌ子が、文章のマジックで、なんとも「おきゃん」で、やっぱり可愛いのである。
十蘭ファンならずとも読んで楽しみ、十蘭ファンには小難しいことを言わずに楽しんでもらえればと思う。
「海燕」。これまた前の2作とはうって変わって、1970年代の純文学小説風。
妾の子ながら、優秀な頭脳と肉体で、大学教授の椅子を座り、親の財産まで相続することにもなった、これ以上になく恵まれた、女たらしの美青年。
その彼が、しかし、そうした身分に飽き足らないものを感じながら、女たちと大学の同窓生である左翼運動家の友人など、一癖ある人たちの間で揺れ動くのだが、後半では、そんな前半を裏切って、一気に「犯罪小説」へと一転する。
しかも、その犯罪というのが、かの「三億円事件」だというのだから、時代を反映した横暴ぶりには呆れてしまう。さらには、主人公と瓜二つの中国人まで登場し、主人公のアリバイ工作のために殺されてしまったり、前半の地味な物語を裏切る後半の急展開は、まさに著者のやりたい放題。著者は、往時のかったるい純文学作品など書く気はなかったのである。

○ ○ ○
さて、付録の「中野美代子・種村季弘対談」だが、そこで語られているのは、本書刊行の1990年当時、まだ健在であった「純文学」に対する悪口・批判である。
要するには、「人間を描く」などっと言って、なんの工夫もなく自分のことをダラダラ書いているような小説こそが、むしろ自堕落であり「猥褻」だという、痛烈な批判だ。
『種村 (※ この頃流行っていた)青春文学っていうのは情念ですからね。自己陶酔しちゃうわけですよね。だから文章なんかに気をくばってなくて、一気呵成にダーッと、オナニーみたいなことをやってるわけですね。だけど作家はもっと冷静じゃないといけないわけでしょう。とち狂ったやつをきちんと書くということをやってもらわないとね。書いてる人が最初にとち狂っちゃったら、読者は興ざめですものね。
中野 そういう自分の情念をベターッと書くというのは、これは私は「猥褻」だと思うんです。私の猥褻観念というのは、そういう情念的なクソリアリズムのことなんです。エロチックなのはいいんですが、しかし、猥褻っていうのは、どうも好きではないんです。猥褻とエロティシズムは違うという観念がきちんと成立していない。だから、エロ作家でないのを妙に誇りにしているような人が、説教じみた人生マニュアル(※ 如何に生くべきか)文学を書く。これは、猥褻というほかないでしょう?
種村 放恣っていうか、垂れ流しみたいなものですからね。そういう情念の放出っていうのは、人間の一種の本能というか、本性の中にあるもんだから、排泄行為と同じですからね、わからないことはないんだけれども、しかし、だからこそ「形式」というのがあるわけだから。その形式があるものが大衆文学になって、形式がないものが純文学になっているというのは、倒錯じゃないんでしょうかね。
中野 おかしいですね、これは。
種村 いまでも、直木賞と芥川賞と二つに分けると、直木賞のほうが、わりに学者タイプの人がなるでしょう。直木賞のほうは最低限、資料をあさって、それを構成しなきゃならないけれど、芥川賞のほうは女房との別れ話とかやってればいいんだから、時間と金がかかってない(笑)。』
この時代の「純文学」がどのようなものであったのか、それがとてもよくわかるやり取りで、今とはまた、ちょっと様子が違っている。しかしまた、だから今の方がマシなのかと言えば、また違った意味で問題があると、そう考えるべきだろう。

なお、中野の小説について、種村は次のように評している。
『種村 だから捏造して、形式でたぶらかしながら、形式のリアリティでもって、うそをほんとに見せといて‥‥‥。それでいて、この中野さんの小説だと、最後に全部こわしますよね(笑)。そこが面白いんだな。つまり形式だけなら、伝統的なものをずっと受け継いでいけばいいわけなんだけれども、「形式美」っていうのをがっちりつくっておいて、ドミノ遊びと似てるんですが、最後に軽く押すとターッといっちゃう、その快感がね。』
そのとおりであろう。中野美代子の小説は、端正でありながら、どこかシャイなのだ。だから、完成を潔しとしないところがあるように見える。
(2025年3月9日)
○ ○ ○
● ● ●
・
・
○ ○ ○
・
○ ○ ○
○ ○ ○
・
・
○ ○ ○
○ ○ ○
