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ジョン・カーペンター監督 『遊星からの物体X』 : 暗い予感に満ちた心理劇

映画評:ジョン・カーペンター監督『遊星からの物体X1982年/アメリカ映画)

ひさしぶりに見たが、やはり傑作である
若い頃にテレビで二度ほど見ている作品で、その頃に刻まれた印象は「とにかく特撮(SFX)がすごい」というものだった。だから、近年に本作に言及したレビューの中で私が強調したのも、その部分だった。

当時のSF映画のクリーチャー(怪物)といえば、とにかく「着ぐるみ」か「全身像を見せない思わせぶりな演出で誤魔化す、ちゃちな怪物」が、ほぼすべてであった。

3DCGが発達した今では、どんな形態の怪物でも自由自在に動かせるが、それまでは、実際には「死物」である「作り物の怪物」を、人間や他の動物と同様に動かすことは、きわめて困難なことであった。
だから、人間が中に入る「着ぐるみ」か、「全体像を見せない」ことで「観客の想像力に訴える」か、しかなかったのである。

ところが本作は、優れた技巧と並々ならぬ熱意によってその桎梏を乗り越え、「着ぐるみ」ではない、「動くクリーチャー」をハッキリと見せてくれた。
すべての登場シーンでというわけではないけれど、いくつかのシーンでそれを実現してみせたことで、私が長らくモンスター映画の特撮に覚えていた不満を、初めて払拭してくれたのである。

だから、そんな私が本作『遊星からの物体X』に言及する場合に強調したのは、その特撮シーンの素晴らしさであり、CGにはない「実在物としての存在感」ということだった。

CGは、たしかに「現実と見まちがうばかりにリアル」ではあったけれど、それが現実に近づけば近づくほど、どこか「現実にはあり得ない」という、矛盾した感覚も付きまとう。
「CGなら何でもやれる」というのが、かえって感興を削いでしまうのだ。

喩えて言えば、人間が幅跳びでその運動能力の限界に挑んで競っていたところに、いきなりスーパーマンが参加したような事態だ。
当然、いくらスーパーマンが記録を伸ばそうと、それは面白くもおかしくもない。
たしかに、スーパーマンの能力自体は素晴らしいものなのだけれど、それはもう「別次元」のものであって、「人間がその能力の限界へ挑む」ことによって生み出す感興や感動がそこには存在せず、ある種「しらけた気分」さえ与えてしまうのである。

まあ、上はあくまでも「喩え」なのだが、実際問題として、なぜCGは、どんなにリアルに見えても、リアルが与える感動を、見る者に与えられないのだろうか?

この疑問に私の出した解答とは、「CGとは、いくら良く出来ていても所詮は二次元の絵であって、質料を持つ物体(三次元の物)ではない」ということだった。

やはり私たちは、その「二次元映像」を「二次元映像」として見ているのではなく、「二次元映像」を通して「物の実在性(三次元的なリアル)」を求めていた、ということだったのではないか?

だから、所詮は、どこまでも絵(三次元に見える、二次元の騙し絵)でしかないCGには、よく出来た絵(二次元)としての感動しかなく、よく出来てはいても、リアル(三次元)とはどこかが違うと、そう感じられたのではないだろうか。

さて、そんな議論をここ最近展開してきた私だが、実際に本作を見たのはずいぶん昔のことなので、「いま見たら、どう感じるだろう?」という、一抹の不安はあった。
だが、だからこそ、それを確認しないでは済まされず、今回、数十年ぶりに本作を再々鑑賞することにしたのである。

一一で、その結果はどうであったか?

やっぱり素晴らしかった
特に、私がレビューの中で毎度例に挙げた「スパイダーヘッド」のシークエンスは、その「物(三次元)」としての存在感において、CGでは決して真似のできないものだと、改めて感動させられたのだ。

一一だが、今回の再鑑賞で気づかされたのは、そうした特撮シーンの素晴らしさ以外の、「人間ドラマ」としての素晴らしさであった。
本作が「歴史的名作」であり続けるのは、単に「特撮がすごい」からではなく、やはり「映画としてすごい」からなのだという事実に、初めて気づかされたのである。

だから本稿では、そのあたりに絞って論じたいと思う。

 ○ ○ ○

本作『遊星からの物体X』の「ストーリー」は、次のとおりである。

『約10万年前、宇宙から飛来した円盤が地球に引き寄せられ、大気圏で炎に包まれながら南極へと落下した。

1982年、冬の南極大陸。ノルウェー観測隊のヘリが雪原を駆ける1匹のハスキー犬を追って、全12名の隊員がいるアメリカ南極観測隊第4基地へ現れた。銃や焼夷手榴弾を使い執拗に犬を狙うが失敗し、手違いからヘリは爆発。一人生き残ったノルウェー隊員はなおも逃げる犬を殺そうと銃撃を続ける。その際に基地の隊員が一人負傷したため、隊長のギャリーが拳銃でそのノルウェー隊員を射殺した。

ノルウェー隊に一体何があったのか真相を究明するべく、ノルウェー隊の観測基地へ向かったヘリ操縦士のマクレディらが見つけたものは、焼け落ちた建物、自らの喉を切り裂いた隊員の死体、何かを取り出したと思しき氷塊、そして異様に変形し固まったおぞましい焼死体だった。一行は調査のため、残されていた記録フィルムと焼死体を持ち帰る。

生き延びた犬は基地内を徘徊していたため、夜になると犬小屋に入れられた。その途端犬は変形し、グロテスクな姿の「生きもの」となり、他の犬たちを襲い始めたが、鳴き声を聞いて駆けつけたマクレディらにより火炎放射器で焼かれ撃退される。

ノルウェー隊の記録フィルムに映し出されたのは、雪原の巨大なクレーターと、約10万年前のものと推測される氷の層にある巨大な構造物を調査している場面だった。やがて持ち帰った焼死体が動きだし、蘇った「生きもの」が隊員の一人を襲ってその姿に成り代わった。結局その「生きもの」は、隊員たちの手で他の「生きもの」の死骸と共に外で焼却処分された。

調査の結果、「生きもの」は取り込んだ生物に同化・擬態して更に増殖することが可能で、コンピュータの試算により、もし人類の文明社会にそれが辿り着くと、およそ2万7000時間、約3年で全人類が同化されることが判明する。それを知った主任生物学者のブレアが誰も基地の外へ出られないようにするため無線機やヘリ等を破壊、残った犬も殺してしまい、基地は完全に孤立する。その状況下で隊員たちは誰が「生きもの」に同化されているか判断出来なくなり、疑心暗鬼に陥っていく。』

(Wikipedia「遊星からの物体X」

平たくいえば、本作の「基本的な作り(構造)」は、アガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』などの「本格ミステリ」と、同様のものなのだ。

「雪の山荘」「嵐の山荘」「交通の途絶した孤島」といった場所に閉じ込められた「7〜10人」ほどの限定された登場人物の中(クローズド・サークル)で「連続殺人」が発生する。
犯人は、生き残った者の中にいるというのは確実で、登場人物たちは個人的に、あるいは結束して、その犯人をつき止めようとする。だが、その努力も虚しく、一人また一人と殺されてゆくのだ。

そして、最後に残ったのは、その連続殺人犯なのか。あるいは、犯人をつきとめて倒した「探偵」役の人物なのか。
あるいはまた、そのどちらでもなく、犯人不明のまま『そして誰もいなくなった』といった、不可解な結末を迎えるのか?

一一これが、「本格ミステリ」における、いわゆる「嵐の山荘もの」のパターンであり、そのキモは、最後の「意外な真相」にある

本作『遊星からの物体X』の場合は、この「連続殺人鬼」が「物体X (Thing)」ということになり、「殺される」のではなく「取り込まれ、なり代わられる」ことになる。
「誰が殺人鬼か?」ではなく「誰がそいつ(Thing)なのか?」という、極限状況におけるサスペンスを描いた、言うなれば「心理劇」なのだ。

そして、この「極限状況におかれた人間の心理」に、並々ならぬリアリティを持たせているのが、あの「リアルな特撮による怪物(クリーチャー)」なのだ。

登場人物たちは、単に「死にたくない」だけではなく、「あんなふう(グロテスクな姿)にはなりたくない」という、常識を超えた恐怖と嫌悪感を持ち、またそのことによって、並々ならぬ切迫感が生み出されている。

どうせ殺されるのなら、毒を盛られるとか射殺されるとかした方が、まだしもマシだ。
「死んでまで、あんな醜態を晒すのは我慢ならない。死んだ後まで自分の体を弄ばれるのはゴメンだ」。
一一そいつに取り込まれ、グロテスクに変貌した仲間たちの哀れな姿を見せつけられれば、そう思わないではいられないという、そんな説得力が本作にはある。

そしてそこが、「連続殺人もののミステリ作品(映画)」などとは、明らかに違ったところであり、本作特有の「過剰性」なのだ。
「死にたくない」ではなく、「ああはなりたくない」という、死さえも超えた、自分が自分でなくなる「変身の恐怖と嫌悪」が、そこには存在しているのである。

実際、本作の登場人物たちは、『そして誰もいなくなった』のような「ミステリー作品」のそれとは違って、わかりやすく「類型化された人物」にはなっておらず、その意味で、とても「リアル」だ。

「ミステリー作品」の場合、例えば「探偵役に協力を申し出る正義漢」とか「いかにも胡散臭い人物」とか「極端に怯える人物」とか「変人」とかいった、キャラクターの「類型化」がなされる(他に「覆面の人物」や「一卵性双生児」等)。

(映画『そして誰もいなくなった』(1945年)。一人殺されるたびにインディアン人形が減っていく)

なぜ、そうした「わかりやすい個性化」がなされるのかというと、それはそうした「キャラクター性」が、「推理のための客観情報」となるためなのだ。
映画を見ている観客は、「こいつは正義漢ぶっているけど、かえって怪しい」とか「このひ弱そうな女性が実は、というパターンじゃないか」などと、その「属性」を考慮して、自分なりに「犯人」をつきとめようとする。

だから、登場人物は「リアルに平凡」であってはならず、「記号的な個性」を持っていなければならない。一一と言うよりは、「本格ミステリ」作品における人物は、人間的にブレるリアルな存在ではなく、「記号的に一貫した存在」でなければならない。そうでないと「論理的な推理」が不可能になるからなのだ。

だが、本作『遊星からの物体X』の場合、たしかに、物語の展開過程では「誰がそいつか?」という探り合いが中心にはなるけれども、なにしろ「そいつ」は、次々と「乗り移っていく」のだから、誰か特定の人物が「真犯人」だということにはならない
「真犯人」は、最初からわかっているのだが、それが「犯人ではない登場人物に、次々となり変わっていくだけ」なのである。

そのため、登場人物たちの、個々の「キャラクター性(キャラ立ち)」は、問題にはならない。
どんな個性を持った人物であろうと、公平に「そいつ」に狙われ、「そいつ」に乗っとられて、なり代わられてしまう

だから「ミステリー作品」のような「記号化した個性」は必要なく、それぞれの登場人物が、当たり前に「リアルな人間」で「リアルに怯えた」方が、作品としても効果的であり、リアルなものにもなるのである。

その意味で本作は、「怪物」こそ登場するものの、「ミステリー映画」などに比べれば、人間の描き方が数段「リアル」なのだ。
「犯人当てゲームの駒」などではなく、「自分が自分でなくなってしまう恐怖に慄く人間」の姿が、そこでは極めてリアルに描かれている。

最初は当たり前に、なんとか「そいつ」を仕留めて生き延びようとする主人公マクレディカート・ラッセル)たちも、最後はそれを諦め、自分たちが犠牲になって全滅してでも「そいつ」を抹殺し、なんとか人類全体に類の及ばないようにしようと覚悟する。自分たちの南極基地を焼き払うことで「そいつ」を抹殺しようとするのだ。
たとえそれで、自分たちが凍死することになろうともである。

だが、最後に残ったマクレディともう一人の黒人隊員は、それでも「そいつ」を倒せないであろうことを理解している

なにしろ「そいつ」は、細胞ひとつだけで、独立した生命体として生き残るのだから、どこにその細胞がどれだけ残っているかは定かではない。しかもそいつは、「寒さ」では死なず、ただ「冬眠」するだけなのである。

だから、いつの日か、この惨劇に気づいた人たちが焼け落ちた基地跡に訪れた際には、そいつは再び目を覚まし、そうした人たちに取り付くことで、世界へと出ていってしまうだろうというのは、ほぼ間違いないことなのである。

だから、本作のラストは、限りなく暗い
映画の結末時、「まだ死んでいない二人」には、しかし「勝利感」は無い。
自分たちの命を賭した戦いは、結局のところ「徒労」に終わるだろうと、彼らは否応なく予感しているのである。
一一そしてそうした意味でも、本作は「リアル」な映画なのだ。

人間は、その叡智において「自然」を克服するのではなく、最後はその「脅威」の前に、いずれ膝を屈するしかないという、暗い諦観を湛えて、本作は幕を閉じる。

これはもう、エンタメではなく、「人類の限界」を描いた、ある種の予言的な「社会派」作品なのかもしれない。


(2025年6月27日)


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