夏木志朋 『Nの逸脱』 : まるであなたの素顔のよう
著者の夏木志朋については、2019年の「ポプラ社小説新人賞受賞作」である『二木先生』を刊行時に読み、その際に書いたレビューで、高い評価を与えている。
同作の初版単行本刊行時のタイトルは『ニキ』だったのだが、2022年の文庫落ちに際して『二木先生』と改題され、それ以降よく売れたようだ。

本書『Nの逸脱』の帯に、『15万部突破!』と大書されているのをよく見てみると、その前には小さめのフォントで『デビュー作の『二木先生』が』と付いている。
とても良い作品だったのだが、初版単行本刊行時には、期待されたほど売れなかったということなのかも知らない。

ポプラ社といえば「児童文学」で有名な出版社。
その出版社が刊行した『二木先生』は、驚くべきことに、タイトルとなっている男性教師の二木が「ロリコン趣味」を隠している人物という設定である。
もちろん二木は、女生徒に手を出したりはしないし、盗撮したりもしない。つまり「犯罪者」ではない。
しごく真面目な教師なのだが、しかしその「性的指向」は変えようもなく、私生活において、こっそりとその趣味を満たしているだけの、「ごく当たり前」の人物なのだ。
だがまた、そうであるからこそ、「秘密」を抱えての葛藤も生じて、そこがドラマとなっている。
彼がそうした「個人的な趣味」を隠すのは、もちろん、世間がそうした趣味を「許さない」からなのだ。
ひと昔前は「ヘンタイ(変態)」呼ばわりされ、差別の対象であった多くの「性向」が、今や公には認められるようになってきている。
例えば、今の時代に、「同性愛」者を「ヘンタイ」呼ばわりすれば、そう言った方が、世間からの非難を浴びるだろうし、「同性愛」を「非倫理的」だとか「悪徳」だなどと言えば、「いつの時代の人?」と、呆れられのではないだろうか。
このように現在では、他人を害するような性質のものでないかぎりは、「性愛のかたちは自由である(べきだ)」と、広く認識されるようになってきているし、これは大いに結構なことで、喜ばしい変化だと言えるだろう。
一一けれども、こと「ペドフェリア(小児性愛)」に関しては、いまだに世間の目は厳しい。
もちろん「(まだ自身の心身を守る力の無い)子供を(大人が)守らなければならない」というのは当然のことだから、仮に子供の側に「同意」にあったとしても、子供に手を出した大人が罰せられるのは、やむを得ないところではあろう。
人間の「判断能力」を、年齢で線引きすることには無理があるとしてもだ。
ともあれ、そうした「違法行為」には出ずに、ただ、子供を「性的な対象」として「見てしまう」というだけのことで、社会的な迫害・差別の対象にするというのは、明らかに行き過ぎであり、文字通りこれも「差別」の一種だし、「内心の自由」の侵害でもあろう。
だが、世間では、そうした「知的道理」は、なかなか通用しない。世間の反応は、得てして感情的なのである。
しかしながら、そうした「難しい現実」の話は別にして、一一とにかく「児童文学のポプラ社」が、このような内容の作品に賞を与え、その作者を作家デビューさせたのだから、そのこと自体がなかなかの驚きであった。
しかし、言い換えれば、作者の夏木志朋には、出版社をして、それだけの「リスク」を犯してでも受賞デビューさせるだけの価値があった、ということなのである。
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さて、そんな『二木先生』に連なる作品が、本作品集『Nの逸脱』である。
じつのところ『二木先生』の「ポプラ社小説新人賞」応募時のタイトルは、『Bとの邂逅』だったのだ。
したがって、本作品集に収められた3作(中編・短編・中編)は、いずれも「私生活に秘密を持つ人物」を描いているという点で、『二木先生』と共通している。
一見「普通の人」なのだが、じつは「別の面を隠し持っていた」というのが、この3作の基本形となっているのだ。
『第173回直木賞候補作!!
何気なく開けてしまった隣人の扉、「フツウ」の奥に隠されていたものは――
爬虫類のペットショップでアルバイトをする金本篤は、売れ残ったフトアゴヒゲトカゲが処分されそうになるのを見て、店長に譲ってくれと頼む。だが、提示された金額はあまりに高額で手が出ない。「ある男」を強請って金を得ようと一計を案じるのだが、自ら仕掛けた罠が思いがけぬ結末を呼び込んでしまう……(「場違いな客」)。
生徒たちにいたぶられ精神的に追い詰められていた高校数学教師・西智子は、深夜の満員電車で非常識な若い女と遭遇する。冷静になろうとするが高ぶる感情が抑えきれず、駅で降りた見知らぬ若い女を追尾し始めて……(「スタンドプレイ」)。
占い師・坂東イリスのもとに、弟子にして欲しいという若い女性がやってくる。一見、優秀そうにも見える彼女は、やることなすことズレていて、失敗ばかり。クビにしようとしてもしつこく食い下がり、ぜひ自分を占い師にしてくれと訴えるのだが……(「占い師B」)。
追う者と追われる者が入れ替わり、善と悪が反転していく予測不可能な展開――隣の人たちが繰りひろげる3つの物語。』
(Amazonの本書紹介ページより)
「普通に見える人が、じつは変なところを隠し持っている」というのは、現実の世間でも「当たり前」にあることだ。
特に、「二木先生」ではなくとも、「性癖」に関しては、それを日頃からあけすけにしている人など、まずいないからこそ、「性的なスキャンダル」は多くの人の興味を惹くものともなるのである。
しかし、本作品集『Nの逸脱』の場合は、「性癖」的なものではなく、表沙汰にできない「反社会的行為や感情」といったものが扱われている。
「普通の人が、じつは変」というのは、たまたま昨日レビューを書いた、コーエン兄弟による映画『ファーゴ』もそうだったのだが、『ファーゴ』と本作品集『Nの逸脱』との違いは、『ファーゴ』の描いた「変さ(人間の奇妙さ)」が「リアル」だったのに対して、本書『Nの逸脱』所収の作品の方は、そうした「リアルさ」が売りではなく、その「意外性」が面白いという点であろう。
つまり、夏木志朋の作風というのは、「リアリズム」ではなく、その面白さは「サイコ サスペンス」的なものなのだ。
だから、そのあたりを意識せずに読んでいると、「えっ、まさかこの人が」というような、意外なところに落ちるのである。
もちろん「ためにする意外性」にはなっていないから、登場人物の「隠された顔」が明かされても、「意外」ではあれ、「それも十分あり得るな」と納得できる描写になっている。まただからこそ、最後の「どんでん返し」にも納得できるのである。
作者はそれだけの「筆力」がある人で、本作品集は「直木賞」の候補作に挙がったようだが、その当落結果のいかんに関わらず、夏木志朋は直木賞受賞に値する実力派作家だと、ここで断じておいてもいいだろう。
ともあれ、個人的には無論、たぶん一般的に言っても、収録作3作の中では、最後の「占い師B」が抜きん出て面白い。
当たり前の面白い小説を読んでいるつもりでいたら、きっと「えっ!」と驚かされるはずだ。
だが、その「驚き」は、「リアルな人間の隠された顔」に対する驚きではなく、たぶん私たちが、「小説における人間描写」の「慣習」に慣らされ切っているが故のものではないかと思う。それが、裏切られるのだ。
言い換えれば、作者の夏木志朋が言いたいのは「現実の人間って、小説中の人物みたいににわかりやすいものじゃないんだよ。もっと複雑で多面的なんだ」ということなのではないだろうか。
今の世の中が、あまりにも「建前の綺麗事」や「嘘くさい感動話」に溢れているからこそ、夏木志朋はそれに黙ってはいられない人なのであろう。
ともあれ、いわゆる「文学」作品ではないが、「社会批評」性を秘め持ったエンタメ小説として、強くオススメしたい一書である。
(2025年6月15日)
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