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映画 『デリカテッセン』 : 安全な「ヤバさ」


映画評:
ジャン=ピエール・ジュネマルク・キャロ監督『デリカテッセン』1991年/フランス映画)

ジャン=ピエール・ジュネ監督の作品を見るのは、これが2作目となる。前に見てのは、世界的な大ヒット作となった『アメリ』だ。

正確に言えば、本作『デリカテッセン』は、ジュネの単独監督作品ではなく、メジャーデビュー前からコンビを組んでいたマルク・キャロとの共同監督作品であり、二人は本作で、メジャーデビューを果たしている。

しかしながら、本作『デリカテッセン』『ロスト・チルドレン』を共同監督で成功させ、例によってハリウッドから(『エイリアン4』の監督として)お声がかかり、いったんは二人で渡米したものの、マルク・キャロの方はハリウッドの空気が肌に合わなかったようで、早々にフランスに引き上げてしまい、そこで二人は別々の道を歩むことになったようだ。

私が今回、本作『デリカテッセン』を見たのは、『アメリ』ジャン=ピエール・ジュネ監督の作品だから、という理由からではない。
そうと気づかないまま見始めて、途中から「絵作りが『アメリ』に似てるな」と気づき、検索してみて同じ監督だと初めて知ったのだ。つまり、ジュネ監督の名前すら記憶していなかったのである。

では、どうしてジュネ監督の名前を記憶していなかったのかというと、端的に言って、私は『アメリ』を、さほど面白いとは思わなかったからだ。
世間では「ポップでキュート」みたいな評価だったのだが、私としては「かなり変」という評価であり、その「変」さが、私の好きな「変」さではなかったので、「趣味ではないな」と思い「今後この監督の作品は見なくて良い」と判断したため、監督の名前までは記憶していなかったのだ。

ではなぜ、今回『デリカテッセン』を見ることになったのかというと、どこかで『ロスト・チルドレン』の4Kリストア版の上映が始まるとかいうような宣伝を見かけて、この『ロスト・チルドレン』の方に興味を持ったからだ。
この段階の私は、ジュネ監督の名前を完全に忘れていたから、『ロスト・チルドレン』が私の興味を引いたのも「サーカスの大男と少女」の物語という、どこか『フランケンシュタイン』の一場面を思わせる内容と、サーカスの大男を演じているのが、私の好きなロン・パールマンであることを知ったためだ。
パールマンの出演作は、『薔薇の名前』(1986年/ジャン=ジャック・アノー監督)や『ヘル・ボーイ』二部作(2004年・2008年/ギレルモ・デル・トロ監督)を見ており、その類人猿めいた「変」な容貌の中に「優しさと悲哀」のようなものを感じて、とても好きな俳優なのである。

で、こうくれば、当然『ロスト・チルドレン』を見るはずなのだが、そこは「周辺まで押さえる」のを常とする私だから、「この作品を撮った監督の代表作はなんだろう?」と「Wikipedia」を見たところ、「主な作品」のトップに、本作『デリカテッセン』があって「このタイトルは聞いたことがあるぞ」と、こっちを先に見ることにしたのである。一一ちなみに、その際、『アメリ』のタイトルの方は、完全に見落としていた。たぶん、興味がなかったからだろう。

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さて、では本作『デリカテッセン』はどうだったかと言うと、やはり「個性的であり、悪くはないけれども、趣味ではない」という結果だった。
見るべき「個性」はある認めるけれども、「面白かったか?」と問われれば「まあまあだった」と、個人的にはそう答えるしかないというのが、正直なところだった。

(亡父の声が聞こえると、自殺念慮のある夫婦ものの妻。しかし自殺の試みは必ず失敗)

ただ、本作を見て、何の収穫もなかったのかと言えば、そんなこともない。一一と言うのも、本作を見ることによってジャン=ピエール・ジュネって、やっぱり変(態)だ」と確信できたのである。
言い換えれば、『アメリ』に対する私の評価が正しかったことを、本作を見ることで確認できた。『アメリ』を見て「ポップでキュート」とか言っていた「世間の人々」は、何も見えていなかったというのが、ハッキリと分かったのである。

私は『アメリ』のレビューで、次のように書いていた。

『(※ 2001年の初公開から)時を経て今回(※ 2023年12月)は、この作品を冷静に観ることもできたわけだが、やっぱり(※ アメリ役の)「オドレイ・トトゥの顔」自体は、あまり好きにはなれなかった。
私も「カワイイ」ものが好きだけれど、私の「カワイイ」とは違っていたし、ある人がレビューで「キモカワ」と評していたが、なるほどそれなら納得できると膝を打った。私は「カワイイ」のは好きだし、「キモい」のも、好きではないとしても、徹すれば興味は持てるのだが、両者が混じっている「キモカワ」というのは、あまり好きではない。これは、私が「徹底的なもの」好きであるためなのであろう。「そこそこ」とか「それなりに」とか「まずまず」なんてものに感心することのできない体質なので、今回本作を鑑賞しても、「悪くないな。評判になるだけのことはある」という、いささか冷めた肯定評価になってしまったのであろう。』

ここでのポイントは「キモい」すなわち「気持ち悪い」である。

『デリカテッセン』を見て分かったのは、ジャン=ピエール・ジュネ監督というのは、基本的に「キモい」ものが好きなのであり、それをベースに、そこへ「カワイイ」の要素も加わるから「キモカワ」だとも言えるのだが、あくまでもベースとなるのは、「キモい」なのだ。

(物語冒頭で殺される男。このギョロ目が、本作の特徴を象徴している)

ただ「キモい」だけでは一般ウケしないが、幸いなことの「カワイイ」要素も入ってくるし、その部分が比較的強く出た『アメリ』は、「キモさ」に鈍感な世間一般の人たちにもウケたのである。
一一こう断じると、酷い言い方だと思われるだろうが、しかし「ポップでキュート」とか言われて、それを鵜呑みにして「そうだ、そのとおり」などと信じ込んでいたような人には、これくらい言っておいた方が良いのである。

さて、本作『デリカテッセン』「あらすじ」紹介として、私の見たDVDのケース裏面の紹介文を引用しておこう。

『荒廃した近未来。パリの郊外にある一軒の精肉店にやってきた元芸人ルイゾンドミニク・ピノン)は、店の主人(ジャン=クロード・ドレフェス)に、アパートも兼ねるこの建物の雑用係として雇われる。だが、この主人、実は彼のような流れ者を殺して肉にしてしまう恐ろしい男だった。そんなこともつゆ知らず、住み込み働きはじめたルイゾンは、ある日、階上に住む主人の娘ジュリーマリー=ロール・ドゥーニャ)と出会う。心優しいルイゾンに好意を抱いたジュリーは、なんとか父の魔の手から彼を救おうと、ベジタリアンの地下組織トログロ団と手を結び、ルイゾン救出作戦を決行する。ところが、それに気づいた主人と肉を求める住人たちの反撃に遭い、ルイゾンとジュリーは大ピンチに…!』

見てのとおりで、本作は「人肉食(カニバリズム)」をも「笑い」のネタにしている、ブラックな「ドタバタコメディ」である。

(物語の舞台へやってきた主人公ルイゾン

しかし、「あらすじ」を読むとわかりやすいが、予備知識なしに本作を見ると、その背景(世界設定)がわかりにくい。
黄ばんだ霧(?)に包まれてポツンと建っている4階建て(?)ほどの建物が本作の舞台で、この建物の主が、1階で精肉店を営む壮年の男。上の階をアパートとして貸しており、独居や家族持ちが4、5世帯住んでいる。上階には、肉屋の娘も住んでいるが、父親は下の階の別の部屋で、愛人の女性と同棲しているようだ。

(「肉屋アパート」の左右にあるのは、隣家の残骸であろう)

なお本作では、この「肉屋アパート」以外の建物や町の風景は、いっさい映らない。
登場人物たちの会話で、どうやら市街地は酷い状況になっているようなのだが、その原因もよくわからない。ただ、アパートの人間だけではなく、店に来る客でさえ、そこで売られているのがしばしば人肉であることを知っていながら、平気でそれを買っていくので、どうやらこの世界は相当荒廃しており、食糧事情が悪いようだ。
しかしまた、そのわりには、みんなけっこう呑気そうにマイペースで生きているようなので、全体状況というか背景の世界の設定が、いまひとつよくわからないのだ。

(個性的な住人たち。上から、機械工作で何かを作っている男2人組。部屋に水を溜めてカエルやカタツムリを飼っている男。にぎやかな5人家族。このほかに自殺未遂妻の夫婦もの、肉屋と愛人、肉屋の娘ジュリー、主人公のルイゾンなどが各部屋に居住)

このレビューを書くために、いくつかのサイトの「あらすじ」をチャックしたところ、「Wikipedia」には『核戦争から15年後』とあり、「映画.com」の本作紹介ページでは『核戦争により荒廃した近未来のパリ』と書かれている。それで、そういう設定だったのかと初めて得心がいったのだが、本編を見ているかぎり「核戦争」云々ということは、具体的には語られていなかったと思う。
私が聞き漏らした可能性もないではないが、そこまでは説明されておらず、「Wikipedia」「映画.com」の「核戦争後の」云々というのは、監督らの「作品外での設定紹介」によるものなのではないかと推察された。

DVDに付録の「ジュネ監督のコメンタリー」での説明によれば、本作に「肉屋アパート」しか登場せず、荒廃した市街地はもとより近所の建物さえ映らないのは、「予算が少なかったので、アパートの中だけで物語が完結するようにした」ということだった。

そんなわけで本作は、いわゆる「リアリズム」の作品ではなく、「ブラックな童話」という感じである。
「誇張された世界観の中で、誇張された人物たちが、誇張されたドタバタを演じる」といった作品で、「シニカルな笑い」をとるような作品だと、そう言えるのかもしれない。

だが、私は「シニカル」も「笑い」も、あまり好きではないから、もっぱら「絵作り」の面白さしか評価できなかった。
ひとまず、一目見て、とまでは言わないが、10分ほど見ていれば「『アメリ』の監督ではないか?」と気づけるほどに、かなり個性的な「絵」なのだ。

それは「黒を基調としながらも、個々の場面ではけっこう色鮮やかで、全体に明暗のコントラストが強い」というのと、普通の(顔の)アップではなく、魚眼レンズで撮ったような「パースのきいた顔のアップ」が多用され、「グロテスクな顔のアップ」がしばしば挟み込まれる。
こうした特徴があるからこそ、ジュネ監督の映画は、お話は「コメディ」でも、「キモい=グロテスク」という印象を与えるのであろう。

つまり、「人肉食」とかいった内容が問題なのではないのだ。
絵的に「誇張」された世界であり、およそ、フラットにわかりやすく見せるということをしない、そんなところで、この世界は「普通ではない」印象を与える。

私がアメリの、あの「ドヤ顔」を「カワイイ」とは思えなかったのも、このパース(遠近法)の誇張されたアップに、ある種の暑苦しさ(くどさ)感じたのではないかと思う。

だが、ジュネ監督の場合、単に「キモい」「グロい」「暑苦しい(くどい)」だけではなく、そこに「カワイイ」という要素も入ってくる。それが『アメリ』の場合なら、主人公の「奥手妄想娘」のアメリだし、本作『デリカテッセン』の場合だと「ド近眼の奥手娘」ジュリーの存在だ。

彼女たちは、共通して「奥手」であり、年齢よりは「子供っぽい」
演じている女優は「童顔」気味であり、これがジュネ監督の「好み」なのだろうと、容易に推察できる。もちろん「奥手」というのも、「子供っぽさ」を演出するための重要要素だ。

こう見てくると、どうやらジュネ監督は、「大人の世界」や「リアルな世界」を、どうしても排除して、自分好みの世界に引き籠りたいらしい。

ただ、本作のジュリーとは違い、アメリの場合は、主人公だということもあってか、「妄想癖」という個性が与えられている。これは、より直接的な、監督自身の「引き籠り」傾向の反映ではないだろうか? 「現実そのもの」なんか、興味も無いし、見たくもない、という。

その点、本作『デリカテッセン』の主人公はルイゾン青年で、あくまでもジュリーは、そのルイゾンが好きになって彼を救おうと頑張るという役どころだから、ジュリーは、アメリほど「変」ではない。あくまでも「世間知らずで純粋な、ズッコケ娘」という感じに止まっている。

(なぜか下水道に住んでいる、ベジタリアンの「トログロ団」の面々)

では、主人公のルイゾンはどうかと言うと、彼は、この「世紀末」的設定には全くそぐわない「真面目で純粋な好青年」で、「人間の善性」を信じており、当初は、ジュリーの父が、自分で捌いた人肉を売っており、彼まで狙っているというジュリーの話を信じず、逆にジュリーをたしなめるといった、時代背景にそぐわない「常識人」なのだ。

ただし、「核戦争後の世紀末」という舞台設定にそぐわない「純粋な青年」という設定のルイゾンには、ある特徴が与えられている。
それは、彼が「元サーカスの道化師」だという設定に示されているとおり、彼は「小人(矮人)」体型の人だという点である。

このあたりは、本作の紹介などでは、無難に言及の避けられているところなのだが、ジュネ監督が、ルイゾンを演じたドミニク・ピノン「フリーク(畸形)」を意識していたというのは、その「趣味」からいっても否定しがたいところなのだから、この点をことさらに無視するのは、誤魔化し以外の何物でもない。
たしかに、ドミニク・ピノンは、「小人」体型の人だと言っても、そう極端なものではないけれども、顔(頭のかたち)を見ただけでも、そうした特徴は確認できるのである。

ジュネとマルク・キャロのコンビは、この後『ロスト・チルドレン』を撮るわけだが、そこでもメインの登場人物が「サーカスの大男と少女」であることを考えれば、ジュネとキャロのどちらの「趣味」かは断じられないものの、二人のうちのどちらか、あるいはその両方に、ハッキリと「フリーク(畸形)」趣味があり、それは「大人=不純な存在」嫌悪的な感性において、彼らに好意を寄せるのは「純粋な少女」という、言うなれば「怪物と少女」あるいは、前後を入れ替えての「美女と野獣」の「子供化=純化」されたバージョンとなっているようである。

だが、だからと言って、ジュネあるいはキャロ監督が、単純に「純粋嗜好」だと理解するのは、たぶん間違いだろう。

『アメリ』であれ『デリカテッセン』であれ、そしてたぶん『ロスト・チャイルド』であれ、そこに見られる「純粋さとグロテスク」という対称性は、両者において、最も「コントラストが際立つ」という点が重要なのではないか。
どちらか一方では平板だが、対極的なものを並べることで、両者が引き立てあい、そのコントラストによって、両者がともにその魅力を発揮できるのだ。

(ハッピーエンドのラストシーン。セピア調だか黒が効いている)

だが、私としては、このコントラストは、意外に「収まり良すぎる」ように感じられる。「フランケンシュタインの怪物と少女」の図は、あまりにも「わかりやすく感動的に」絵になりすぎるのだ。
だから、「徹底的なもの」が好きな私でありながら、ジュネ&キャロ監督の「コントラスト」趣味というのは、私の求める「徹底性」とは、方向性が違っているように思える。

思うに、私の求める「徹底性」とは、「グロテスク」であれ「カワイイ」であれ、調和を欠くまでに徹底することであり、それによる破調を怖れない徹底性であって、両者のバランスを取りつつ「コントラストを最大化する」といったようなものとは違うと、そう感じられるのだ。

たしかに、それはそれで「面白い」のかもしれないが、私としては、それは「突き抜けた」ところのない、「収まりの良さ」において、「物足りない」と感じられているのではないだろうか。

この監督の、一見したところの「ヤバさ」は、意外にも安全に囲い込まれた「ヤバさ」のように感じられ、そのあたりが私には、どうにも物足りない。
私としては、「残酷なお伽話」ではなく、やはり「残酷な現実を描くお伽話」にして欲しいのである。


(2025年4月28日)


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