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ヴィム・ヴェンダース監督 『ベルリン・天使の詩』 : 喜びも悲しみも、生きていればこそ。

映画評:ヴィム・ヴェンダース監督『ベルリン・天使の詩』(1987年/フランス・西ドイツ合作)

本作を評して「哲学的」と呼ぶこともあるようだが、それはたぶんに、間違いだ。

映画や小説などのフィクション作品を評するのに、「感動した」「面白い」と評するのは、ほとんど何も言っていないのに等しいのと同様で、単純に「感動した」「面白い」とは評し得ないような、それでいて「独特の魅力」を持つ作品を評する場合に、「難解だ」とか「哲学的」だなどと評するのは、要はその魅力を「言語化できない」ということを意味するものでしかないのである。

無論、単なる「享受者=消費者」であるだけなら、それでもかまわない。
しかし人が、その作品について何かを語ろうとする際、そこには必ず、その評者なりの何らかの「理解があることを、人に伝えたい」という気持ちがある。

で、あるならば、その「理解」を語らないでいて、「理解しているぞ」とアピールするだけでは、意味がない。

「〝晦渋〟という言葉の意味くらいは知っている。なかなか難しい言葉だが」などと言っても意味がない。
意味を知っているのなら、それを語るべきだというのと、同じことなのだ。

つまり、「感動した」と言うのなら、その「感動の中身」を語るべきだし、「面白かった」と言うのなら、その「面白さの中身」を語るべきだろう。
「このシーンが」面白かったとか感動的であったなどというのは、無論「中身の説明」ではない。

同様に「難解だ」と言うのならば、どこがどのように難解なのか、何がどのように解し難いのかを語る必要があるし、「哲学的」と言うのなら、そもそもその人が、何を「哲学」と考えているのか、そこが問題となろう。

単に「よくわからなかった」というのを「哲学的な作品だった」とか「難解な作品だった」と言い換えるだけでは意味がない。
その場合は、素直に「私には、よくわからなかった」と、そう言うべきなのだ。それが「言葉の正しい使い方(用法)」だからである。

自分が「理解できない(できなかった)という現実」を誤魔化し続けるかぎり、その人の理解能力は決して伸びない。
言葉で煙幕を張って誤魔化してばかりいては、それも当然の結果なのである。

さて、そんなわけで、本作『ベルリン・天使の詩』は、「哲学的」だと評されることになる。

その一方で、本作「難解」だと評されないのは、本作の場合、ストーリー自体はいたってシンプルな「恋愛譚」であり、それが理解できない人などいないからだ。

つまり、あまりにもシンプルな物語なので、それだけで本作を「理解」したつもりになってもよいのだろうかという躊躇が生まれ、「きっとこの物語には、そのストーリー以上の〝深い意味〟があるのだろう。だが、それがようわからない」と、そう考えることになる。

ところが、「よくわからなかった」とは決して言いたくない見栄っ張りは、本作を「哲学的な作品だった」と言うのである。そう言っておけば、その理解内容を追求される怖れもないからだ。
「哲学的な作品だから、ひと言では説明できない」と、そう言い逃れすることも可能だからである。

つまり「哲学的だ」とか「難解だ」とかいうのは、ほとんど逃げ口上であって、その実態は「よくわからなかった」ということにすぎない。

(ベルリンに実在する、戦勝記念塔の頂上に立つ「勝利の女神ヴィクトリア」像の肩で羽根を休める天使ダミエル)

では、本作がなぜ、「難解」だとは言われず、しかし「哲学的」だと言われるのかというと、それは本作が、「天使が人間に恋をして、人間になるお話」、つまり「人間が人間に恋する話」ではないからなのだ。

「人間が人間に恋する話」なら、理解できないわけではない。
無論、理解不能な恋、例えば、昔なら「変態的」と呼ばれたような「例外的」なパターンの恋なら、普通の人には理解しにくいだろう。

例えば、異性愛者には同性愛者の「感情」は、理解し難い。
だからこそ、昔はそれを「変態(変わった態様のもの)」と呼んだのだし、人は「理解できないもの」に、本能的な「脅威」を感じるからこそ、それを「間違ったこと=悪いもの」だと決めつけることで、排除して遠ざけようとしたのだ。

だが今では、そういう態度が間違ったものだということが、多少は理解されるようになってきたから、「自分が理解できないもの」だからといって、否定してはならないというのも、徐々に常識となってきた。

自分が理解できなくても、その人にとってはそれが「当たり前」なのだから、自分の「当たり前」を尊重して欲しいのなら、他人の「当たり前」も尊重すべきであると、大筋をそのように考えられるようになったのである。それが、「差別はいけない」ということの意味なのだ。

しかしながら、差別がいけないことだと理解していることと、「他者」つまり「自分とは違った存在=完全には理解し難い存在」を理解していることとは、まったくの別の話だ。

異性愛者が同性愛者を理解できないのと同様に、同性愛者には異性愛者の感覚が理解できない。
ただ、異性愛者の方が「多数派」だという事実を理解しているだけで、異性愛者が異性に惹かれる時の「感覚」を理解しているわけではない。
それが理解できるのなら、その人は同性愛者ではないのである(無論、ここの議論では、両性愛者は考慮から外して、原理的な話をしている)。

つまり、例えば「同性愛者を、差別をしてはいけない」と言う人がいても、その人自身が同性愛者でないかぎりは、その人は同性愛者の同性愛者たる感覚を理解しているわけではない。
単に「異なった愛着関係を持っている人も、認めるべきだ。なぜなら、人間にもいろいろなパターンがあって、多数派と少数派はあっても、どちらが正しいという問題ではないからである」と、そう言っているだけなのである。

だが、「差別はいけない」と言っている人の中には、少なからず、自分が多数派に所属していながら、少数派のことを「よく理解できている」と、勘違いしている人がいる。

「差別してはいけない」と言う以上は、その対象を「理解しているはずだ」という、勘違いをしているのだ。

差別問題の要諦は、差別されている対象の属性を、理解できる部分もあるにせよ、理解できない部分(不気味な部分)が残るにせよ、それでも、勇気を持って「その存在と権利を認めよ(認めるべきだ)」ということなのであって、「理解している(できる)から、差別しない」ということとは、まったく別な話なのだ。
基本的には、人間は「理解できているもの」を積極的に恐れたりはないし、拒否したり差別したりはしないものなのだ。

だから、「差別してはいけない」と主張することと、被差別の対象を「理解している」ということとは、まったく別の話なのだが、そのことが理解できない、頭の悪い自称「差別反対者」が、しばしば「私は、彼らを理解している」などと勘違いして、そのように主張したりしてしまう。

「反差別」とは、「理解できるから差別しない」というのではなく、世の中には理解できないものが、現にいろいろ存在しており、それらにはそれらの存在権があるという存在原理を理解しているから「差別してはいけない(その存在権を尊重しなくてはならない)」と主張するのである。

要は、「私が全てを理解しているわけではないし、理解できるわけもない」という現実を認めるところから、「他者」の存在を認めるという「反差別」も可能となるのである。

したがって、「明晰さ」とは「自身の理解力の限界とその輪郭への、自覚の有無」だということになる。
理解できない性愛のかたちがあると認めるからこそ、それを認めることも出来る。

差別者が差別者たり得るのは、「自分は、わかっている」という、頭の悪い自己過信があるからなのだ。
わかっているから、優劣善悪の判断もできるなどと、身の程知らずなことを考えてしまうのである。

(天使ダミエル。服装や髪型がきちんとしているのは、現実(物理的)世界に生きていないので、乱れることの汚れることもないからだ)

これは、作品鑑賞においても同じで、自分にはわからないことがあるという当たり前の事実を認められない小心者ほど、「わからない」とは言えなくて、「難解だ」とか「哲学的だ」などという言葉でお茶を濁して、誤魔化そうとする。

明晰な人ならば、「ここまでは理解できたが、ここが理解不能だった。この部分はどういう意味だったのだろう?」と、そう考え、そう思いもするからこそ、そこから、自分の能力の限界に挑む思考も始まり、そのおかげで、思考能力が徐々に鍛えられ、高まりもするのだ。

「わからないという事実を誤魔化す人は、決して成長しない」とは、そういうことなのである。

さて、ここで話を『ベルリン・天使の詩』に戻すと、本作が「難解」とは言われないものの「哲学的」だと言われるのは、本作で「恋する」のは、人間ではなく「天使」だからである。

そもそも、天使などというものは存在しないのだから、天使が何を考えるのかなど、誰もその「正解」などは知っておらず、「天使とはこういうものだ(このように考える)」というのは、そう言っている人(人間)個人の考え方か、その教派の考え方でしかない。
そもそも、存在しない天使の気持ちなど、誰にも知りようがないのである。

例えば、カトリック神学的に言うならば「天使は(心が無いから)考えない」。
神に祝福された特別な存在として、ただ天使(神の使者)として生きているだけなのだ。

そもそも(ばかりで恐縮だが)人間の祖である泥人形のアダムとイブが、人間になって「エデンの園」を追われたのも、禁断の「知恵の実(リンゴ)」を食べて、あれこれ考えるようになったからである。

「外の世界はどうなっているのか?」とか「こんな、与えられるがままの、主体性のない生き方に意味があるのだろうか?」などと考えることは、絶対者である神に疑義を呈することでもあったから、それなら「自分の力で生きてみよ」というのが「エデン追放」ということなのである(無論、天使の定義についても、楽園追放についても、そもそも存在しないものなのだから、いろいろな意見・解釈が、カトリックの中でさえ存在する)。

そんなわけで、本作『ベルリン・天使の詩』が「哲学的」だとされるのは、「永遠の時を、人間を見守りながら生きてきた天使」が、いきなり、ある特定の女性が好きになって、人間になる、という物語だからである。

一一そんな、一貫性のない天使の気持ちなど「理解不能」であって当然なのだが、しかし、なにしろ「天使の考えることだから」とか「有名な映画監督の作品だから」とか「たくさんの映画賞を受賞した名作だから」といった理由で、多くの人は、本作で描かれる、人間に恋する天使ダミエルの「心理」に、無闇に「深い意味」を見ようとする。

だが、本作を見るかぎり、天使ダミエルが、サーカスのブランコ乗りの女性マリオンに恋するのに、特別な(天使特有の)理由があるわけではない。
そんなものが描かれているわけではない。

(ブランコ乗りの女性マリオン

ただ、普通の(人間の)恋がそうであるように、ただ「好きになってしまった」というだけのことなのだ。

だが、「天使は特別な存在」だとか、「有名な映画監督は特別な存在」だとか、「数々の映画賞を受賞した作品は特別だ」などと考える、物事を「肩書きで判断する」ような俗物たちは、「見つけられないもの」にこそ「特別な意味」を見ようとするものなのだ。

だが、存在しないものが見つけられないのは、当然のことでしかない。

存在しない神や天使をいくら探しても、それそのものは、決して見つからないのだが、それが気に入らない人は、最後は「神とは、愛のことだったんだ!」などという、陳腐な「意味論」に回避して、神の不在から、自らの目を逸らそうとするのである。

したがって、本作をきちんと鑑賞しようとするのなら、本作で描かれているの、「不在の天使」などではなく、「ヴィム・ヴェンダースという人が作り出した天使」だと、そう考えればいいだけである。
つまり、人間の考えたものに過ぎないのだ。

本作の明示的なストーリーは、

「永遠の時間、人間のいとなみに寄り添うようにして見守ってきた天使の一人であるダミエルブルーノ・ガンツ)は、ある時、天使の羽根飾りをつけてブランコ乗りをするサーカスの女性マリオンソルヴェーグ・ドマルタン)に恋をして人間になることを決意し、人間となったダミエルは、無事にめでたくマリオンと結ばれた」

というだけのものである。

つまり、物語としては、決して曲のある話でもなんでもないので、かえってそこが「寓話」的に感じられ、しかし、何の寓話なのかがはっきりしないために、「哲学的」だと感じられてしまうだけなのだ。

しかし、作品に寄り沿って理解するならば、ヴィム・ヴェンダース監督は、

「永遠の傍観者ってのは、やっぱり物足りないし、つまらないものだろうな。いくら嫌なことや辛いことがあっても、やっぱり、生きてその身に喜びやら苦しみを味わうことの方が、豊かなことなのではないだろうか。戦争のような辛い経験でさえ、何も我が身で経験できない疎外感に比べれば、やはり豊かなことだと言えるのではないだろうか」

と、そう考えたから、本来「人間に恋するはずのない天使」に、恋をさせてみただけなのである。

(サーカスの仕事を失うことになり、鏡に向かって自分を励ましているマリオンを見守るダミエル)

本作中には、終戦直後の荒廃したベルリンのドキュメンタリー映像が挟み込まれたりして、何やら意味深である。
けれどもそれは、映画の作中世界的には、長い時間、人間社会を黙って見守ってきた天使の視点にとっては、ある意味では、そうしたことも、つい最近のことだといった「感覚」を再現するためのものだった、といったところなのだろう。
永遠を生きる天使にとっては、数十年、数百年ほどの過去など、つい昨日のようでもあれは、まさに「今」の内だからである。

だが、そんなことを考える必要はない。なにしろ天使は存在しないないのだ。

だからこそ、ヴェンダース監督は、

「永遠の時を生きる天使は、普通、人間に恋したりはしないだろう。だが、私が描きたいのは、恋する感情すら持てないような無機質な存在としての天使ではなく、人間世界の現実に心を痛めながらも、それに直截には関与することのできない、そんな天使の悲しみなのだ。天使も悲しみや喜びを知っていると、そう考えなければ、天使を描く意味などないではないか」

一一と、そんなふうに考えたからこそ、当たり前に「人間的な天使」を描くことにもなったのである。

本作には、『刑事コロンボ』で知られる俳優ピーター・フォークが、当人役で登場するのだが、物語の途中で、彼もまたじつは、人間になった元天使だったことが明かされ、その口からは「そういうやつも結構いるよ」というようなことが語られる。

(人間になった元天使のピーター・フォークが、撮影所の塀越しに、人間になったダミエルと会話するシーン。天使の視点のシーンはモノクロであり、人間の視点のシーンはカラーになる)

これが何を意味するのかと言えば、当然それは「永遠の傍観者である天使でいるよりは、悲しみや苦しみを感じることがあったとしとも、まだそれを我がこととして感じ、直接的に関与できる人間の方がマシだ」ということであろう。

だから、その「現実的な関与」というは、何も「戦争」のような大きなことだけではなく、「ありふれた恋」や「仕事をする(俳優をする)」といったことでもあるのだ。

そうしたことさえも出来ないのなら、生きている(存在している)意味が無いじゃないかというのが、ヴィム・ヴェンダースの率直な実感だったのでおり、それを象徴的に表すために、天使(天使らしからぬの天使)というものを、狂言回しとして使ったのである。

本作が「天使が人間に恋をして、人間になって、めでたく結ばれてハッピーエンド」という、何の曲もない、つまり山も谷もない物語なのは、本作が基本的なところで、

「生きているだけで素晴らしい。たとえ時に耐え難いような苦しみを経験することになったとしても」

という感情に支えられているからである。

(人間になったダミエル。髪型や服装は乱れているが、人間になれた喜びに表情が豊かになっている。右脇に抱えているのは天使時代の鎧で、神が餞別として天から落としてくれたもの。その鎧が頭に当たって怪我をするが、ダミエルはその出血を見て喜んでいる。その後、鎧を売って、新しい服を買うことになする。なお、後ろは「ベルリンの壁」の一部。この映画の翌年に、ソ連邦は崩壊する)

永遠の時を、なに不自由なく過ごすことの出来る天使ではあっても、人間に寄り添っているかぎりにおいては、当然、良いことも悪いことも目にしなければならないわけであり、それに対しては、「不死者の達観」みたいなものはなく、当たり前に心が揺さぶられているように、本作では描かれる。

なぜ、そうなのかと言えば、事の良し悪しに心を動かされないような存在なら、そもそも人間になど寄り添えはしないからなのだ。

人間の苦しみを共苦し、人間の喜びを喜びとできるようでなければ、そもそもダミエルが恋をすることもないだろうし、彼の親しい友人的な天使であるカシエルオットー・ザンダー)が、自殺をはかろうとしている男に寄り添い、思い止まらせようとするも上手くいかず、落ち込んだような表情を見せるというシーンも、あり得ないことだろう。

(自殺しそうな男に寄り添う天使カシエル。だがその思いも虚しく、男は飛び降り自殺してしまう)

結局のところ、本作に描かれる天使たちというのは、ある意味では「傍観地獄」の刑に処せられているも同然の存在なのだ。

「見ることはできても、関与することは許されない」のなら、いっそ見せないでくれと言いたくなるのが「人情のある存在」なのだ。

だから、ヴィム・ヴェンダースは、「人情のない存在としての天使」を描こうなどという気は最初からなく、「天使が人間の寄り添う存在なのであれば、当然、人間に憧れるはずだ」という観点で、天使を描いているはずなのだ。

だとすれば、設定上は「永遠の時を、人間を見守ってきた存在」ということにはなっていても、具体的に描けば「人間的」になるのも当然だし、そうであれば、最終的には人間になるのも、ごく当たり前の結果なのだ。

(ヴィクトリア像の上で、男を助けられなかったことを悲しむカシミル。この後、ここから飛び降りて飛び降り自殺の真似事をしてみるが、とうぜん死ぬことはできない)

本作でヴィム・ヴェンダースが描いたのは、「感情を持たない天使」ではなく「人間に寄り添う天使」というものなのだから、本作の天使ダミエルが、人間の女性に恋をして、人間になって結ばれて、ハッピーエンドという曲のないストーリーななったとしても、それは、「難解」でも「哲学的」なのでもない。

それは単に「傍観者」として生きることは「死んでいるも同然だ」という、ヴィム・ヴェンダースの「生の感覚」を、そのまま伝えるものでしかないのである。

望んだ恋が、ダミエルのように上手くいくとは限らない。
当然、振られることもあるだろうし、恋人になっても、戦争によってその恋人と引き裂かれることもあるだろうし、恋人が絶滅収容所で殺された人もいるだろう。また、自分が殺されることもあるだろう。

だが、それでも、生まれてこなかったよりはマシなはずだというのが、ヴィム・ヴェンダースの率直な感情なのだ。

生まれてこなかったから、なにも感じない。喜びもないかわりに悲しみもない状態というは、「何ものにも心を動かされない。感情はないかわりに、苦痛を受けることもない存在である天使」であるようなものだ。

だが「そんなものはつまらない」というのが、本作の中で語られていた「感情」なのである。


(2025年10月16日)


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