『探偵<スルース>』 アンソニー・シェーファー原作・脚本/ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ監督 : アンチミステリーとしての『探偵スルース』
映画評:アンソニー・シェーファー原作・脚本/J・L・マンキーウィッツ監督『探偵<スルース>』(1972年/アメリカ・イギリス合作映画)
昔なら「ミステリ読みなら誰でも知ってる」と形容したところだが、今はそうでもないのかもしれない。
このレビューを書こうとして映画紹介サイトを検索していたところ、いつもリンクを張らせてもらう「映画.com」のレビューが、たったの2本しかなかったので、我が目を疑うと同時に、ムラムラと義憤の怒りが湧いてきた。
「こんな名作を見ないでいて、つまらない新作のレビューばかり書いて批評家ごっこをしている素人評論家は、間違いなくクズだ!」
一一と、そう思ったのである。
無論、冷静になって言うなら、若い人なら本作を見ていなくても仕方ない。
悪いのは、こんな名作をきちんと紹介していないプロの映画評論家の方である。
変に話題になるカルト映画ではなく、真の意味での「マニアック」な傑作である本作のレビューなど、今さら書いても銭にはならないからなのだろう。
だが、プロといえども、金儲けだけが映画評論家の仕事ではあるまい。そんな心がけだから、まともな映画評論が書かれなくなってしまうのだ。
一一と、またちょっと激したところで、これくらいしておこう。
所詮、プロのクズ評論家になど、何を期待しても無駄だからである。どうせ碌なものなんか書けないんだし。
そんなわけで、レビューを書いている年配の映画マニアならば、必ずや論評したことのあるだろう名作たる本作を、あらためて私が、率先して論評・紹介したいと思う。
まず、最初に断言しておくと、本作『探偵<スルース>』は、ミステリー映画の「オールタイムベスト3」級の作品である。
ミステリー映画の歴史的傑作なのだ。

わかりやすく言えば、本作は「どんでん返し」の連続で観客を驚かせる作品だ。
一一と、一応はそのように説明できるし、そのような点で楽しめる作品でもあるから、これまで本作を紹介した文章の大半は、そのように紹介したものが、99%だったはずだ。
しかしながら、そのレベルでの理解でしか本作が見られないとしたら、いまや本作の「どんでん返しの連続」は、「今の観客」たちをさほど驚かせることはないだろう。
と言うのも、本作の後に、本作の「多重どんでん返し」を真似たミステリー映画が、いくつも作られているはずだからだ。
「はず」だという言い方はいささか曖昧だが、それは私が、映画マニアではなく、むしろミステリ小説のマニアに近い人間だからだ。
したがって、本作『探偵<スルース>』以降の「多重どんでん返し」を仕掛けた作品と言っても、私が即座に思い出せるのは、せいぜい『ソウ』(ジェームズ・ワン監督/2004年)くらいのものだ。
しかし、この作品の場合は、たしかに「多重どんでん返し」が仕掛けられてはいるものの、ホラー色の強い作品であるせいか、その「騙し」は、もっぱら観客を驚かせることを重視したもので、いわゆる「論理性」や「フェアプレイ精神」といった「知的な魅力」には欠けている。
「伏線」がほとんど張られておらず、いささか「びっくり箱」的な驚きに近いものの連続でしかないのだ。

だから、本作『探偵<スルース>』の「連続どんでん返し」における正統的後継映画というのは、私にはすぐには思い浮かばない。だから、案外少ないのかもしれない。
ただし、いまや小説の方でなら、「多重どんでん返し」に近いかたちの「多重解決ミステリ」が毎年のように書かれて、ミステリ読者を楽しませている。
作中の「探偵」役と思しき人物が、なぞを論理的に解き明かして真相を解明したと思いきや、実はさらにその奥に真相が隠されており、それを別の探偵役が解いたと思ったら‥‥‥というパターンの作品である。
つまり、近年よくある「多重解決ミステリ」を読んでいるミステリファンだと、本作『探偵<スルース>』における、数回のどんでん返しくらいでは、なかなか驚けない。
「上映時間からして、もう一、二度、物語がひっくり返ると思ってたよ」などと思われてしまうのだ。

ミステリ作品の弱点は、どんなに斬新な「トリック」や「仕掛け」を考案したところで、それを発表した際には驚きを持って歓迎されるものの、すぐに変奏的な模倣をする作品がいくつも出てきて、観客の方もやがてそのパターンに馴れてしまい、最初のような驚きが無くなってしまう、という点なのである。
したがって、1972年と、もはや半世紀も前の作品である本作『探偵<スルース>』が提示した「斬新さ」は、すでに賞味期限が切れかけていると言っても、あながち過言ではない。
本作の仕掛けに、純粋に感動できるのは、あまり、本格的なミステリ小説を読まない、映画ファンだけなのかも知れないのだ。
だが、だからといって、本作を「今となっては古典的価値しかない作品」と考えて良いのか言えば、そんなことはない。
なぜなら、本作は「単なる本格ミステリ映画」ではないからである。
では何なのかと言えば、本作『探偵<スルース>』は、「アンチ・ミステリー」なのだ。
「アンチ・ミステリー」「アンチ・ミステリ」「アンチミステリー」「アンチミステリ」と日本語表記も定まっていない、およそミステリマニアの間でしか使われない言葉であり、たまに商業ベースて使われても、ろくに言葉の意味も理解していない、不適切な使用例ばかりの目立つような、そんなマニアックな専門用語なのである。
(※ ちなみに本稿では、これらの用語の統一はせず、ニュアンスを変えながら、適宜自由に使用することとする)
そんなわけで、ここで「アンチ・ミステリー」の詳しい説明はしないので、ある程度、正確に知りたいという方は、下のレビューを読んでいただきたい。
上のレビューは、ずいぶん昔、「アンチ・ミステリー」という言葉の誤用や濫用があまりにも多いので、それに苛立って書いたものだ。
そのため、この言葉の使用範囲を厳しく限定しているが、そのかわり、この言葉がどのあたりから出てきたものかといった点については紹介している。
一方、下のレビューは「アンチ・ミステリー」と呼んでも間違いではないだろう作品のおおよその特徴を、『殺人の追憶』(ポン・ジュノ監督・2003年)を紹介しつつ示しており、いわば「広義のアンチ・ミステリー」について語ったものである。
一一だが、とは言えここでまったく説明しないのも、あとの説明がしにくいから、ごく大雑把な特徴を紹介するところから、本論に入っていこう。
「アンチ・ミステリー」とは、文字どおり「反ミステリー小説」である。
では「反ミステリー小説」とは、いかなるものなのか?
例えば、ミステリー小説が嫌いな作家が書いた「純文学」「SF小説」「歴史小説」等は、「反ミステリー小説」だろうか?
もちろん違う。
それらは、単なる「純文学」「SF小説」「歴史小説」等でしかない。
では、「反ミステリー小説」であるための、最低必要条件とは、いかなるものか?
それは「ミステリー小説」の中でも、その「原型」的な形式である「本格ミステリ」(謎解きミステリ、パズラー)の本質をしっかりと理解して、それを踏まえた上で、本格ミステリに内在する本質的な難点を批判する内容を持つ小説、ということになる。
つまり「反ミステリー小説」であるためには、「(本格)ミステリー小説」の本質を深く理解した上で、その本質を批判するもの「でなくてはならない」のだ。
だからそれを、小説の形式で書こうとすれば、その作品はおのずと「ミステリー小説」の形式を採ることにもなるのである。
つまり「反ミステリー小説」というのは、一見したところ「よく出来た本格ミステリー小説」なのだ。
そうでないと、それをもって「本格ミステリー小説」を批判しても、意味がない。

例えば「お前の顔は歪んでいる」と言いたい場合に、わざと相手の顔を歪めて描いた似顔絵を示して「これがお前の顔だ」と言っても、あまり意味がない。
なぜならその「似顔絵」は、恣意的な歪みが加えられているのだからで、それでは相手の顔の歪みを示したことにはならないからである。
したがって、相手の顔が歪んでいる言いたいのであれば、まずは相手を顔を正確にトレースしなければならないし、その顔が、世間一般では「イケメン」だと評価されているのなら、その特徴もそのまま描き込まなくてはならない。
その「似顔絵」に描かれた顔は、一般的には「イケメン」を描いた肖像画になっていなければならないのだ。
「反ミステリー小説」もこれと同じで、「ミステリー小説」を批判したいのであれば、まず「よく書けた本格ミステリー小説」を「模倣・擬態」しなければならない。
その上で、そこに隠された、一般には気づかれていない、難点や弱点を指摘しなければならないのだ。
したがって、「反ミステリー小説」というのは、当たり前に「ミステリー小説」を書くよりも難しく、高度な技巧が要求される。
普通に書いても、「ミステリー小説」として高く評価される作品なのに、そこにあえて「一捻り」を加える。
しかも、この「一捻り」は、単なる「ミステリー小説」的な「一捻り」であってはならない。それでは、単に「凝った本格ミステリー小説」になるだけだからだ。
したがって、「反ミステリー小説」であるための、最後の「一捻り」とは、「ミステリー小説」としての「(内在的な)一捻り」ではなく、「ミステリー小説」の形式から逸脱して、「ミステリー小説」という文学形式における「嘘」や「誤魔化し」や「弱点」を鋭く突き、批判するような「一捻り」でなくてはならない。
だからこそ、「反ミステリー小説=アンチ・ミステリ」は、しばしば「メタ・ミステリ」(メタミステリ)と呼ばれることにもなる。
なぜなら、「反ミステリー小説=アンチ・ミステリ」は、当たり前の、「ミステリー小説」の形式に呑み込まれることなく、外在的に内在してに「ミステリー小説」を「客体化」するものだからである。
したがって、「反ミステリー小説=アンチ・ミステリ」とは、単なる「ミステリー小説」ではなく「ミステリー小説を語るミステリー小説」であり、より正確に言うならば「ミステリー小説を批判的に語るミステリー小説」だということになる。
さらに言い換えれば、「反ミステリー小説=アンチ・ミステリ」とは、普通の「ミステリー小説」のメタレベルに立って、普通の「ミステリー小説」を「批判的に論評するミステリ小説」なのだ。
たぶん、多くの読者にとっては、この議論すら難解に聞こえるはずだ。
なぜなら、ミステリマニアを自認する人でさえ、しばしば「アンチ・ミステリ」のことがよく理解できず、「ハッキリした結末のつかない作品=リドルストーリーの一種」くらいの理解しかない人が多いのだから、マニアでもない人が理解できなくても、それは当然のことなのである。

では、「アンチ・ミステリ」をよく理解できていないミステリマニアは、どうして「アンチ・ミステリ」のことを「ハッキリとした結末のつかない作品」だなどと思うのだろうか?
それは「アンチ・ミステリ」のなかには、そうした形式を採る作品が、多いからだ。
だが、そのパターンの作品が多いということと、それがそれそのものであることは、当然「同じ」ではない。
そのパターンにはあたらない「アンチ・ミステリ」もある以上、「アンチ・ミステリ」の本質は、別のところにあるのである。
「アンチ・ミステリ」の本質とは、すでに書いたように「ミステリー小説を批判する」という部分にあるのであって、「オチをつけない」というところにはない。それは結果の一種でしかないのだ。
ではなぜ、「アンチ・ミステリ」には「オチのつかない作品」が多いのかと言えば、それは、批判対象である「本格ミステリー小説」というのは、基本的に「謎解き」小説であり、「謎が解かれること(=オチがつくこと)を前提とした小説」だからだ。
つまり、「本格ミステリー小説(本格ミステリ)」というのは「不可解な謎を、探偵役が論理的に解き明かす小説」なのだが、しかしこの「謎解き」というものが、一見したところ「論理的」であるかのように書かれていても、その本質は「やらせ」なのだと、そう批判する「アンチ・ミステリ」作品が多い。
その点こそが、「本格ミステリー小説の急所」だと考える者が多いからこそ、そこを突いて批判する「アンチ・ミステリ」も多いのである。
「当然のことながら、本格ミステリー小説における謎は、作者によって恣意的に設えられたものである。だからこそ、読者には解きがたい謎でも、作者から真相を耳打ちされる作中の名探偵は、的を外すことなく、謎の本質に迫ることができるのだ」一一といった批判を込めた「アンチ・ミステリ」が多く、そうした作品は、おのずと「探偵に耳打ちしない(特別扱いにしない)」から「謎が解けない」という「皮肉な結末」を描くことになるのだ。
「完全に、フェアかつ合理的にやれば、謎なんて、そう簡単には解けません。名探偵の名推理とは、作者の耳打ちという、特権的な〈幸運〉があってこそ可能だったのです。そして私たち読者は、その真相を、作者のレトリックによって、巧妙に誤魔化され続けてきました。だから、この作品では、厳密に論理的であるならば謎は解けないという、本格ミステリにおける、隠されていた真相を描いたのです」
一一こうした「告発」込めた「アンチ・ミステリ」が多いかった。
ステファーノ・ターニの、その著書『やぶれさる探偵 推理小説のポストモダン』(邦訳1990年)での議論は、こうした筋からのものだったと記憶する。

そんなわけで、「アンチ・ミステリ」のそうした野心的な「意図」までは理解できなかったミステリファンの多くは、単に「外形的な特徴」だけを見て、「アンチ・ミステリーって、オチのつかないミステリのことでしょう?」などと言うようになったのだ。
だが、「アンチ・ミステリ」の告発する「本格ミステリー小説」の「欺瞞」とは、何も前述のような「論理的な謎解きという嘘」を告発することだけに、限定されてはいない。
他のことを批判したって良いのであり、本作『探偵<スルース>』の「アンチ・ミステリ」性というのも、「論理的な謎解きという嘘」の告発とは、別のところにあった。
ではなぜ『探偵<スルース>』は、「本格ミステリにおける論理的な謎解きという嘘」という「アンチ・ミステリ」における「最重要ポイント」を押さえていないのかと言えば、それは『探偵<スルース>』が「アンチ・ミステリ」の初期作品であり、ほぼ間違いなく、「アンチ・ミステリ」であるという自覚もないまま「アンチ・ミステリ」をやった、「アンチ・ミステリ」となった作品だったからである。
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では、本作の「アンチ・ミステリ」としての批評的な告発性とは、奈辺にあるのか?
それはもう明らかなことだろう。
なぜなら、本作の中で、そうとハッキリと語られているからである。
本作『探偵<スルース>』が、正面切って告発したのは、「本格ミステリー小説=探偵小説」の「鼻持ちならなさ」なのだ。
作中に登場するミステリ作家アンドリュー・ワイク(ローレンス・オリヴィエ)がわかりやすく体現しているように、「本格ミステリー小説=探偵小説」というのは、その昔「知識階級の読み物」だとされていた。日頃から頭を使っている知識階級が、その優れた知性を用いつつ気楽に楽しめる、大人の娯楽小説。一一それが「探偵小説=本格ミステリ」だと考えられていたのだ。
だから、初期の探偵小説では、上流社会を描くことが多かった。
なぜ多かったのかというと、教育もあって賢い人は、上流階級に多くて、無知な庶民のなかにはほとんどいない、と考えられていたからだ。

本格ミステリの登場人物たちは、基本的に「知的」でなくてはならない。
知的な彼らがいくら頭を捻っても解けない謎を、名探偵がスッキリと解いてしまうからこそ「さすがだ」ということにもなるのであって、登場人物たちが知的ではなく、ただヒステリックな大騒ぎをした後に、名探偵が謎を解いても、ありがたみが薄いのである。
つまり「とうてい解けそうにない謎」として、あらかじめ描かれているからこそ、名探偵の謎解きは、神の如き叡智によるものだと感じられて、ありがたい。
そのため、登場人物の大半は知識階級に属する上流社会の人間でなければならなかったのである。
本作『探偵<スルース>』の中で、ミステリマニアにはお馴染みの「ヴァン・ダインの二十則」というものへの言及がある。それは、次のようなものだ。
ヴァン・ダインの二十則
(01)事件の謎を解く手がかりは、全て明白に記述されていなくてはならない。
(02)作中の人物が仕掛けるトリック以外に、作者が読者をペテンにかけるような記述をしてはいけない。
(03)不必要なラブロマンスを付け加えて知的な物語の展開を混乱させてはいけない。ミステリーの課題は、あくまで犯人を正義の庭に引き出す事であり、恋に悩む男女を結婚の祭壇に導くことではない。
(04)探偵自身、あるいは捜査員の一人が突然犯人に急変してはいけない。これは恥知らずのペテンである。
(05)論理的な推理によって犯人を決定しなければならない。偶然や暗合、動機のない自供によって事件を解決してはいけない。
(06)探偵小説には、必ず探偵役が登場して、その人物の捜査と一貫した推理によって事件を解決しなければならない。
(07)長編小説には死体が絶対に必要である。殺人より軽い犯罪では読者の興味を持続できない。
(08)占いや心霊術、読心術などで犯罪の真相を告げてはならない。
(09)探偵役は一人が望ましい。ひとつの事件に複数の探偵が協力し合って解決するのは推理の脈絡を分断するばかりでなく、読者に対して公平を欠く。それはまるで読者をリレーチームと競争させるようなものである。
(10)犯人は物語の中で重要な役を演ずる人物でなくてはならない。最後の章でひょっこり登場した人物に罪を着せるのは、その作者の無能を告白するようなものである。
(11)端役の使用人等を犯人にするのは安易な解決策である。その程度の人物が犯す犯罪ならわざわざ本に書くほどの事はない。
(12)いくつ殺人事件があっても、真の犯人は一人でなければならない。但し端役の共犯者がいてもよい。
(13)冒険小説やスパイ小説なら構わないが、探偵小説では秘密結社やマフィアなどの組織に属する人物を犯人にしてはいけない。彼らは非合法な組織の保護を受けられるのでアンフェアである。
(14)殺人の方法と、それを探偵する手段は合理的で、しかも科学的であること。空想科学的であってはいけない。例えば毒殺の場合なら、未知の毒物を使ってはいけない。
(15)事件の真相を説く手がかりは、最後の章で探偵が犯人を指摘する前に、作者がスポーツマンシップと誠実さをもって、全て読者に提示しておかなければならない。
(16)余計な情景描写や、脇道に逸れた文学的な饒舌は省くべきである。
(17)プロの犯罪者を犯人にするのは避けること。それらは警察が日ごろ取り扱う仕事である。真に魅力ある犯罪はアマチュアによって行われる。
(18)事件の真相を事故死や自殺で片付けてはいけない。こんな竜頭蛇尾は読者をペテンにかけるものだ。
(19)犯罪の動機は個人的なものが良い。国際的な陰謀や政治的な動機はスパイ小説に属する。
(20)自尊心(プライド)のある作家なら、次のような手法は避けるべきである。これらは既に使い古された陳腐なものである。(※ 以下に示されたの具体例は略す)
(Wikipedia「ヴァン・ダインの二十則」)
これを詳細までご理解いただく必要はない。
この「ヴァン・ダインの二十則」は、英米における黄金期の「本格ミステリ」界を代表する作家の一人、『グリーン家殺人事件』や『僧正殺人事件』などの「名探偵ファイロ・ヴァンスもの」で知られる、S・S・ヴァン・ダインの提唱した「本格ミステリは斯くあるべきだ」ということ(理想)を語った、ひとつの指針である。

つまり、ミステリ作家なら誰でも「守らなければならないルール」ではなかったが、このルールを守って書かれた作品こそが「本格ミステリの理想型」だと、ヴァン・ダインはそう考えたのである。
ざっと見てもらえばお分かりのとおり、「ヴァン・ダインの二十則」は、今となっては「何なんだ、この妙なこだわりは?」と言いたくなるほど、あれもこれもダメだと、実に細かく徹底している。
例えば、(03)の「不必要なラブロマンスを付け加えて知的な物語の展開を混乱させてはいけない。」などは、今も昔もたいがいのミステリ作家は守っていない。
なぜなら、ラブロマンスを絡ませた方が、小説としては面白くなるからだ。
言い換えれば、ヴァン・ダインがこの「二十則」で目指したのは、「面白い小説」を書くことではなく「理想的な謎解き探偵小説の形式」を示すことだったのであり、ヴァン・ダインとっての「理想」の中心概念とは「論理ゲームとしての探偵小説」ということだったのだ。
その理想のためなら、「不純な要素」はすべて排除されるべきだと、彼は考えた。その理想のためなら、登場人物が「血の通わないロボットみたいな人間」になってもかまわないとさえ考えたのだ。
いや、その方が望ましいとまで考えたから、探偵の頭が鈍るような「ラブロマンス」なんてものを否定したのである。
だが、こうした「狷介な理想主義」の背後には、「知的でないものには興味がない」という差別意識が隠されてもいた。
「ラブロマンスの要素が無いと読めないような、知的レベルの低い読者になど読んでもらわなくても結構」という意識が、やはり確かにあったのだ。
これは、『探偵<スルース>』に登場するミステリ作家ワイクの口からも、幾度となく語られる意識である。
曰く「私の作品は、多くの知識階級に読まれている。もちろん、庶民にもね」といった具合にだ。
ワイクが自分の小説のテレビ化作品を「認めない」と言っていたのも、同じ理由だ。
テレビ化作品は、大衆ウケするように、くだくだしい謎解きのところを端折って、そこに原作にはなかった「通俗的ドラマ性」をつけ加えたりする。例えば、ラブロマンスなどだ。
当然「貴族主義者」であるワイクは、それに不満なのだが、平等が当たり前になった今の社会では、貴族の名誉称号だけでは食ってはいけないので、やむなくテレビの商業主義とも妥協しているのだが、本音は決して納得しておらず、自分の作品が汚されたくらいに感じている。
しかし、それならテレビ化を断れば良いではないかということになるが、そこは食っていくためには妥協せざるを得ないから妥協する。
つまり、ワイクの「貴族主義(趣味)」とは、最初から首尾一貫してはおらず、きわめて自己欺瞞的に「ご都合主義的」なものなのだ。自己「欺瞞」と他者への「誤魔化し」によって成立しているものでしかないのである。

で、そんなワイクの性格は、「本格ミステリー小説」というものの、「自己欺瞞性」や「読者への誤魔化し」という性格を象徴するものとして、本作『探偵<スルース>』では、見るからに嫌らしく描かれ、批判されているのである。
当然、ワイクが、もう一人の主人公で、自分の妻の愛人となった、若くて美男だが金持ちではない移民の子であるマイロ・ティンドル(マイケル・ケイン)を、馬鹿にして見下すというのは、ヴァン・ダインが「ラブロマンス」を排除するしようとしたことに対応するものだとも言えよう。

だが、ここで混同してはならないのは、美学者ヴァン・ダインの場合は「理想」に走りすぎて、金儲けに失敗する体の「純粋さ」を持っていたけれども、ワイクが体現するのは、俗と妥協する「不純さ」だったという点だ。
つまり、ワイクの「貴族主義」は偽物だから醜いのであり、言い換えれば「本物の貴族主義」であれば、それは否定されなければならないものではない、ということにもなるのである。
例えば、「貴族」が問題となるのは、不平等で不合理な「特権」を与えられ、それを当たり前のように享受するから、それが「差別」として批判否定されるのであって、仮にここに「精神の貴族主義者」がいたとしたら、その貴族主義は否定される必要はないどころが、むしろ歓迎され称揚されすらもするだろう。
具体的にいえば、「精神の貴族主義」とは、与えられる「特権を求めない」し、「選ばれた者(エリート)であるがゆえに、多くの責任を進んで担う」といった態度(ノブレス・オブリージュ)である。
普通の人が「自分の欲望」を満たすために、いささか「無原則」に生きるのに対して、「精神の貴族主義者」は、そういう生き方を自らに「是認しない」。
自分だけは、そんなふうな安易な生き方はしないという「プライド」の高さとしての「貴族主義」というものもあり得るのだ。
だが、少なくともワイクの貴族主義は、そういった高尚なものではなく、見かけばかりで、その中身は俗物的な欲に塗れた「エセ貴族主義」でしかない(じじつ彼は、ゲスい性力自慢をしたりする)。
一一だからこそ、それは批判されなければならない。
つまり、本作『探偵<スルース>』は、「本格ミステリー小説」を批判しているようでありながら、実は批判してはいない。
むしろ「ニセモノ」を批判することによって、本物の「本格ミステリ」を擁護し、それを保守しようとしているのだ。
だからこそ本作は、昔から本格ミステリマニアの間で、絶大な支持を受けた名作でもあり得たのである。
つまり、本作『探偵<スルース>』が、「本格ミステリ」にありがちな「欺瞞」や「誤魔化し」を、嘲笑的に批判している作品だとしても、しかしそれは「本格ミステリ」の本質そのものを批判しているのではなく、むしろそれを守るために、「見せかけの部分」の欺瞞性を批判的に嘲笑しているだけなのである。
例えば、ミステリー作家ワイクの屋敷の庭には、植え込みによる「巨大迷路」がある。屋敷の中には、たくさんの「自動人形」のコレクションが飾られている。地下室には、自分の小説の名シーンをミニチュア化した作品が多数飾られている。他に、ピエロのそれを含む芝居用の衣装も取り揃えられている。

一一こうした、いかにも「探偵小説趣味」的な小道具が、これでもかとばかりに、思わせぶりに揃えられているのだが、しかしこれは所詮、これ見よがしなワイクの「悪趣味」でしかない。
それは、「本格ミステリ」の本質部分ではなく、装飾の部分なのである。
だからこそ、本作ではそれが、ことさらに「悪趣味」なものとして描写されている。「本格ミステリ」の本質は「論理性とフェアプレイ精神」という、別のところにあるからなのだ。
一一と、いかにもそれらしい推理を展開したが、ここでもう一捻りが加わる。
本作『探偵<スルース>』は、果たしてワイク的な「悪趣味」を否定しているだろうか?
私は否定していないと思う。むしろ、その「悪趣味」を楽しんでいるはずだ。
事実、本作は、そうした「悪趣味」で楽しませている部分が濃厚なのだ。その舞台演劇的に誇張された演技と演出も含めてである。
では、これをどう理解すれば良いのだろうか?
私が思うに、本作が最終的に語っている「本格ミステリー小説」観とは、「本格ミステリー小説とは、貴族性と卑俗性(悪趣味)の混交物である」というものなのだ。
つまり、ヴァン・ダイン的な「純粋指向」ではなく、ラブロマンスだって何だって、面白ければ何でもありだ、という立場である。
ただし、この「何でもあり」は、それ一辺倒を是認するものではない。
なぜなら「本格ミステリー小説」は「貴族性と卑俗性(悪趣味)の混交物」なのだから、どちらか一方だけではダメだからである。
つまり、「貴族性」に凝り固まれば枯れてしまうし、「卑俗性」に落ちれば本質を見失って、別のものになってしまう。
だから、両者の魅力を併せ持ちつつ、バランスを保つところに「本格ミステリー小説」を生かし続ける道があると、本作はそう語っているのではないだろうか。

だから、本作『探偵<スルース>』のラストは、意外なことに、この「二人芝居」の片側が殺されてしまうというものであり、これが意味するのは、
「片側を殺しちゃったら、そこでこの、本格ミステリというゲームは終わっちゃうよ」
と、そういうことなのではないだろうか?
だがまた、本作の強かな「傑作性」とは、やろうと思えば、ラストで死んだかのような描かれた人物も、実は死んでいなくて、これも騙しのひとつだったという「どんでん返し」の追加が、如何様にも「可能」だという事実である。
つまりこの物語は、実際のところ、原理的にはいくらでも物語を反転させることが可能であり、言い換えるならばそれは、原理的には「オチのつかない(決着のつかない)物語」だということなのである。
本作の二人の主人公ワイクとディンドルは、正反対の性格を与えられているようでいて、実は、左右が反転しただけの「合わせ鏡の中の同一人物」にすぎない。


だから彼らの「合わせ鏡の迷宮」は、無限の広がりを持って、およそ終わりのないものなのである。
そして、本作『探偵<スルース>』が、「メタ・ミステリ」であり「アンチ・ミステリ」だというのは、そういう意味なのだ。
「本格ミステリ」のいかがわしさを憎みつつ、その「いかがわしさ」を愛してもいる。
そのアンビバレントな絶妙のバランスにおいて、『探偵<スルース>』は「ミステリー映画」として、いまだその孤高を保ち得ている、稀有の傑作だと言えるのである。

(2025年11月25日)
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