総監督・新房昭之 『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』 : 神を愛してしまった少女
映画評:総監督・新房昭之『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』(2013年)
テレビシリーズおよび劇場版オリジナルの『[新編]叛逆の物語』の続編として、まもなく公開予定の新作『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』を前に、これまでの物語を復習しておこうと、先日はテレビシリーズを見て、下のレビューを書いた。
そして一昨日は、テレビシリーズの総集編である、劇場版『魔法少女まどか☆マギカ』二部作「始まりの物語」と「永遠の物語」、さらには、『ワルプルギスの廻天』へと直接繋がる、『[新編]叛逆の物語』も鑑賞した。
そんなわけで、今回論じるのは、『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』である。
無論、この作品も公開時の2013年に劇場で鑑賞している。
そして、その時の感想だが、「あのラスト」を見せられて、
「えっ、これで終わり?」
というのが、偽らざる気持ちであった。
決してハッピーエンドではない。
むしろ、テレビシリーズのラストを台無しにするような、嫌な終わり方だった。
よく理解できない部分もあったが、とにかく「嫌な印象」だけは、確かに残ったのである。

そしてそれから10年あまりの歳月が経過し、続編が公開されることになった。
私としては、当然そうでなくては、作品として「収まりがつかない」し、私個人としても収まりがつかない。
だから、今回の続編『ワルプルギスの廻天』は、もっと早く作られていて然るべき作品だったと思っていたし、作られて当然の続編としては、あまりに遅すぎるとも思った。
前作『[新編]叛逆の物語』から、せいぜい3年くらいまでの間に、制作され公開されるべき作品だったと、そんなふうに考えていたのである。
だが、遅ればせながらも、作られるべき続編が作られたことは、とにかくめでたいことなのだから、続編新作が公開される前に、テレビシリーズからすべて復習しておこうと、そう考えたのだ。
我ながら、なんと良いファンなのであろう!
一一と、そんなわけで、10数年ぶりに『[新編]叛逆の物語』を再鑑賞したわけだが、その感想は、次の2点に集約されるだろう。
(A)二度目の鑑賞とあって、物語の構造が、かなり理解できた。
(B)ラストについては、やはり納得できなかった。
そんなわけで、本稿では、本作を論ずる段取りとして、まず(A)の部分について、可能なかぎり「簡単に説明」した上で、(B)の、私の感じた不満の「理由」を書きたいと思う。
私としては、作り手の「意図・狙い」については、今回の鑑賞で、おおすじ理解できたとは思うのだが、しかし、この物語の結末には納得できない部分が残ったのだ。
端的に言えば、この結末には、結末として「無理がある」。
単に「アンハッピーエンド」だから気に入らないというのではなく、このラストでは、『魔法少女まどか☆マギカ』の世界観として、「完結していない」と感じたのだ。
そして本稿では、そのあたりの問題を中心に論じたいのである。
だが、その前に、まず断っておかなければならないのは、本作『[新編]叛逆の物語』は、私がこれまで考えてきたような「続編を前提として作られながら、その続編が長らく実現しなかった作品」などではなく、『[新編]叛逆の物語』は、完全に「完結した作品」として作られたものであった、ということ。続編は考えられていなかった、という事実である。
結果としては、10年余りを経て続編『ワルプルギスの廻天』が作られることになったが、これは当初から予定されていたものではなかった。
少なくとも新房昭之総監督の意図としては、『[新編]叛逆の物語』は「あれで完結した。付け足すものはない」という認識だったようなのである。
だが、私としては「そうではない」と言いたいのだ。
あれでは、物語の内容として不十分であり「説得力に欠ける」と、そう言いたい。
本稿の眼目は、本作『[新編]叛逆の物語』の「構造を解説する」ところにはなく、あくまでも「『[新編]叛逆の物語』は、(作り手の意図に反して)未完成の作品であった」と、それを論証するところにある。
なお、本作の「結末の是非」を論じる都合上、おのずと結末の内容をバラすことになるので、未見の方はご注意いただきたい。
なお、Wikipediaでは、すでに結末までのストーリーがすべて紹介されているので、ストーリーの詳細を知りたい向きには、そちらをご参照願いたい。
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本作は、大きくわけで、次のような三部構成と考えていいだろう。
(1)ナイトメアの理想的な世界
(2)誰が何のために仕掛けた世界なのか
(3)暁美ほむらの選んだもの
本作の発端である(1)のパートは、次のようにして集まる。
『見滝原中学校に通う、鹿目まどか、美樹さやか、巴マミ、佐倉杏子たちが、人の悪夢が具現化した怪物「ナイトメア」と毎夜戦う中、同じ魔法少女である三つ編み・眼鏡姿の少女、暁美ほむらが転校してきたところから物語は始まる。転校からひと月ほど経ったある日、五人の魔法少女とマミの友達であるベベ、魔法の使者であるキュゥべえと一緒に「ナイトメア」退治に立ち向かう中で、ほむらは違和感を覚え始める。そのことを杏子に打ち明け、調査を行ううちに、二人は見滝原から出ることができないばかりか、自分たちの記憶が巧妙に改竄されていることに気づく。そしてほむらは、ナイトメアとの戦いの舞台であるこの見滝原が「魔女」によって構築された結界の内部である、と確信する。』
(Wikipedia「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ」の「[新編] 叛逆」の物語紹介部分冒頭)
要は、鹿目まどか、美樹さやか、巴マミ、佐倉杏子、そして暁美ほむらの五人の魔法少女たちが協力して、人の悪夢が具現化した怪物「ナイトメア」と戦っている日々が、まず描かれている。

しかし問題なのは、この日常は「怪物との戦いの日々」ではあっても、その一方で当たり前の学生生活を続けつつ、世界の平和のために、仲間と一緒に怪物と戦える「充実した日々」であり、みんなはそれを喜びを持って受け入れている、という点だ。


一一言うなれば、ここで描かれているのは、「プリキュア」シリーズなどと同様の「悪と戦って平和を守る魔法少女たち」の世界、そのままなのだ。
しかしながらそれは、テレビシリーズ『魔法少女まどか☆マギカ』で、そうした世界の「嘘っぽさ」を暴いた、「戦いに明け暮れる、平和な日々」という、矛盾した世界なのである。
だが、そんな、ある意味で「理想的な世界」に対し、ほむらは違和感を覚えるようになる。「私の戦いは、こんなものだっただろうか?」というような。
そしてついに、ほむらは思い出す。
自分が戦っていたの、「ナイトメア」ではなく「魔獣」だったはずではないかと。
テレビシリーズのラスト(および劇場版の「〔後編〕永遠の物語」のラスト)で描かれていたのは、最後は魔女に生まれ変わらなければならない宿命を背負う魔法少女たちを救うために、まどかが自らを犠牲にして「円環の理」となり、そうした宇宙の理(ことわり)自体を変えてしまう、というものだった。
まどかは、魔法少女たちを魔女に変えてしまう、魂の汚れを一身に引き受ける「贖罪の神」となるために、自らの人間としての幸福と引き換えに、「円環の理」という「超魔女」とでも呼ぶべき存在となったのである。
しかし、まどかの犠牲によって「魔女のいない世界」が実現するかわりに、人々の記憶からまどかという存在が失われてしまった。
また、それだけではなく、世界には新たな魔物が誕生した。それが「魔獣」だ。
ほむらは、巴マミ、美樹さやか、佐倉杏子の3人を失い、最後はまどかまで失ってしまった「新しい世界」で、それでもまどかの犠牲を無にしないために、世界と共に生まれ変わったキュゥべえと共に、終わりのない魔獣との戦いの日々を生きるのである。
一一と、そんなラストだったはずなのだ。
それが、いつの間にか、5人で仲良く「ナイトメア」と戦っているというのは、いったいどういうことなのか?
ほむらは考える。
これはきっと、まどかを除く4人のうちの誰かの「理想(夢)」を具現化したものとしての魔女の結界の中で、自分たちは体良く飼い殺しにされているのだ。
だが、こんな場所で安穏としていては、まどかが残した世界を守ることはできない一一と。

さて、以上ここまでは、わりとよくあるパターンである。
理想的な世界に見えたものが、実は誰かによって見せられている、偽物の「世界」だったというものだ。
例えば、大きな設定としては、映画『マトリックス』シリーズがその代表的なもので、自分たちがそれまで見ていた世界は、現実も虚構もすべてひっくるめて、人間を支配する機械が見せていた「夢」だった、というパターンである。
この仕掛けは、作品全体を覆う、言うなれば「叙述トリック」的に使われるだけではなく、ひとつの作品の中にいくつもそれが組み込まれて、どこまでが現実でどこからが夢かがわからなくなるというパターンの作品もある。
例えば、「悪夢」をテーマにしたホラー映画『エルム街の悪夢』シリーズでは、しばしばこのパターンが用いられている。
したがって、最初に示した「三部構成」における(1)のパートは、手がたく面白くはあるものの、ありがちと言えばありがちなパターンの面白さだとも言えよう。
そこで(2)の「誰が何のために仕掛けた世界か」という、「謎」の回答が問題となる。
要は、「夢の罠」を仕掛けた「犯人の正体とその動機」が面白いか否か、の問題だ。
で、この謎の解答は、犯人はキュゥべえことインキュベーターであり、その動機は「円環の理」となったまどかを、自分たちの管理下において利用しようというものだった。

つまり、インキュベーターはほむらに夢を見させ、まどかを求めるほむらを囮にして、「円環の理」となったまどかを誘い出して、これを捕らえて利用しようと考えていたのである。
だが、ほむらの夢の中には、すでに「円環の理」によって救済されていた、美樹さやか、巴マミ、佐倉杏子、あるいは「お菓子の魔女」だったべべなどが存在しており、彼女たちはインキュベーターに囚われて、悪夢を見せられることによって魔女になりかけていたほむらを救うために立ち上がり、最後は「円環の理」であるまどかが、ほむらを迎えに来るという「大団円」を迎える一一はずだった。

ここまでが(2)のパートであり、ここからが(3)のパートとなる。
ところが、まどかによって呼びかけられ、目を覚ましたほむらは、まどかとともに「魔女のいない世界」へと旅立って、その呪われた運命から解放される一一のではなく、むしろ、愛するまどかを捕らえ、二度と手放さない、という選択をする。


まどかがその純粋な心によって「自己犠牲的な贖罪の神」になったのだとしたら、そんなまどかを愛し続けて、何度も時間の旅を繰り返すという苦しみを、まどかを救うためだけに味わってきたほむらは、その「まどかへの愛」であり、「まどかに人間としての幸せになってほしい」という願いから、「円環の理」となったまどかから、その一部としての「人間としてのまどか」をもぎ取り、そのことで、まどかが「円環の理」として書き換えた世界を、自身の「まどか個人への愛情」にしたがって、書き換えてしまうのである。
つまり、「円環の理」そのものを否定するのではなく、その機能を残しつつも、まどかには人間として、当たり前に幸福な日常を自分とともに生きてもらおうと、ほむらは考えた。
そして、そのためなら「自己犠牲的な贖罪の神」をも蹂躙する「悪魔」にもなろうと決意し、「神」の力に対抗しうる「悪魔」となったのだ。
「魔女のいない世界」という「円環の理」の作った世界の外にいる、神と対等の立場に立ちうる悪魔となって、ほむらはまどかを取り戻したのである。
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さて、ここからが、この物語を「どう評価するか」という問題となる。
この『[新編]叛逆の物語』について、新房昭之総監督は、基本的には、これはこれで「ほむらの物語」として完結したものだと、肯定的に捕らえているようである。
本作中でも、(2)のところでほむらを救出に行く美樹さやかが、ほむらについて、
「まどかにためにいちばん頑張ったんだから、それ相応に報われるべきだよね」
みたいな言葉を口にするが、新房総監督には、これに近い感情があったのではないだろうか。
つまり、テレビシリーズ(および劇場版総集編二部作)は、あくまでも「まどかの物語」であり、まどかは自分個人の幸せをすべて捨ててでも、無念と恐怖のうちに魔女にならなければならなかったすべての魔法少女たちを救うために、宇宙の法則を改変する存在になった。魔法少女たちの悲しみや苦しみを、一身に引き受けて立つ、自己犠牲的な神としての「円環の理」になったのである。
それで、『魔法少女まどか☆マギカ』は、自己犠牲の物語として、完全に完結したのだ。
だが、考えてみれば、この物語で、救われなかった者がいる。一一もちろん、ほむらのことだ。
ほむらは「魔女」にならないまま、物語のラストを迎えたのだから、まどかに直接に救われたわけではない。
いずれそうなる運命をまどかに解除してもらったとは言え、結局ほむらがやってきたのは、愛するまどかを助けたい、まどかが自己犠牲的に「人間以上のもの」とならなければならない運命を解除するために、彼女は何度ども時間の旅を繰り返して、まどかが幸せになれる結末を探し求める、ということだった。
だが、そんなほむらの願いは叶わなかった。
まどかはほむらに、自分が宇宙の法則を変えてしまうような「超越的な存在」になることを「悲しまないで」と言う。「人間でなくなること」を「悲しまないでほしい」と言うのである。
なぜなら、それが、何もできずに、みんなの役に立てなかった自分が初めて見つけた、自分にしかできない仕事だったからだと、まどかは言うのだ。
自分は、この苦しみを伴う仕事を、しかし喜びを持って引き受けるのだから、親友であるほむらちゃんにも喜んでほしいと、そう言うのである。
そして、そんなまどかの決意を、ほむらは止めることが出来なかったのだ。

つまり、実際には「永遠の苦しみを受ける」に等しい運命なのに、しかしそれと引き換えに「すべての魔法少女たちが救われるのなら、こんなにうれしい使命はない」と、まどかは言う。
確かにそれはそうなのだろうけれど、しかし、ほむらの感情としては、まどかには、そんな「苦痛を伴う崇高な喜び」などではなく、普通の少女としての喜びを、自分と一緒に味わって欲しかったという思いが捨てられなかった。
彼女が、まどかが去った後の世界で、それでも一人で「魔獣」と戦い続けたのは、まどかの犠牲を無にしないためであって、世界の平和のためでもなければ、無論、自分自身のためでもなかった。
結局のところ、ほむらの行動とは、徹頭徹尾「まどかのため」だったのである。
だが、この「まどかのため」という強い思いはどこから生まれたものなのかと言えば、それは無論「まどかへの個人的な愛情(愛着)」である。
平たく言えば「まどかが好きで好きでたまらない」という「愛情」であり「愛着」であり、さらに言うなら、「欲望」だったのだ。
つまり、まどかという「人間」に対する「恋着」という欲望が根底にあったからこそ、ほむらの欲望は、「人間を超えたものとしての、まどかの選んだ使命(円環の理)」には、結局のところ「共感」することはできなかった、ということなのではないだろうか。
「円環の理」となったまどかが、魔女となった自分を迎えにきてくれ、そのまどかと一緒に旅立つというのは、自分がその「円環の理」の中に解消されて、もはや「まどかを愛するほむら」という「個人としての愛情」も解消されてしまう。
自分も、まどかが作った新しい宇宙の一部となって、人間的な喜びや悲しみを超越した、まどかの宇宙の一部となってしまうのだ。
だが、ほむらは、そんなものにはなりたくなかったのだろう。
あくまでもほむらは、暁美ほむらという「個人」として、同じ個人としての鹿目まどかを愛したのであって、決して「円環の理」を愛したわけではない。
だから、ほむらにとっての「円環の理」とは、ある意味では、自分から愛する鹿目まどかを奪い去った「超越的な存在(正義)」だと感じられていたのではないか。
だから、そんな自分の気持ちを徹底した先に、ほむらがした決断とは、「円環の理」にも対抗できる存在としての(魔女を超えた)「悪魔」とでも呼ぶべき存在になり、そうなってでも、人間としてのまどかを取り戻して、そのまどかに、奪われた「人間としての喜びや幸福」を与える、というようなことだったのではないだろうか。
つまり、本作『[新編]叛逆の物語』は、「ほむらの物語」であり、それは、ほむらが「その想いを成就する物語」だということだ。

「まどかが望んだことだから、その選択を支持しなければならない。まどかを愛しているのなら、まどかの理想を応援しなければならない」という「建前」では、もはや、ほむらの「愛情という欲望」を誤魔化し切ることはできなくなったのだ。
したがって、本作『[新編]叛逆の物語』は、ほむらの行動原理を、純粋に徹底して貫いた結果としての物語であり、たしかにそのために「まどかの理想」を台無しにはしてしまったけれど、これはこれで「ほむらの愛のかたち」を偽りなく(誤魔化しなく)描いた結果の物語なのである。
だから、この物語は、「ほむらの物語」として「これで完結している」ということになったのであろう。
一一だが、私としては、この物語は、明らかな無理を孕んでおり、どう考えたって、これで終わることはない、つまり、完結していないと、そう考える。
そして、その証拠としては、「円環の理」からもぎ取られた、部分としての「人間としてもまどか」が、それでも、まどかであるという事実にある。
この点は、本作中では、次のようなシーンとして描かれている。
『やがて、見滝原中学で在学生として過ごすほむらのクラスに、アメリカからの帰国子女としてまどかが転入して来る。ほむらがまどかに校内を案内しているとき、何か大切なことを忘れている気がする、と訝るまどかは、自分が「円環の理」として存在するべきであることを思い出しかけるが、ほむらにより止められた。そしてほむらは、いずれ敵対することになるのかもしれないがそれでも構わない、と言いつつ、かつての世界で受け取った赤いリボンを返し、「やっぱり、あなたの方が似合うわね」と涙を浮かべる。』
(Wikipedia「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ」の「[新編] 叛逆」の物語紹介部分)
つまり、部分としてのまどかは、しかし「円環の理となったまどか」とは、別人ではあり得ないのだ。
まどかがまどかであるかぎり、決して、自分個人の幸福だけを願ったりすることはできないし、ほむらに庇護されて幸福な世界に生きることには、満足できないだろう。
ほむらの作った世界の中で、仮に魔法少女としての仕事を引き受けたとしても、しかし「円環の理」となったまどかは、もともと魔法少女になるという選択を最後まで躊躇した挙句、最後は「自分を犠牲にしてでも引き受けられる運命」として、「円環の理」にもなったのだから、そのまどかが、ほむらの手の中での、魔法少女であることに満足し、納得し続けることは、たぶん出来ない。
それこそ、本作『[新編]叛逆の物語』の(1)の部分で、ほむら自身が「この世界は、どこかおかしい」と気づき、やがてその世界から抜け出そうとしたように、まどかもいずれは、ほむらの作った世界から出て行って、その外に存在する「不幸」を背負おうとするだろう。
そしてほむらも、いずれそうなるだろうことがわかってもいるから、
「そう、、、ならいずれあなたは、私の敵になるかもね。でも構わない。それでも、私はあなたが幸せになれる世界を望むから」
と、そういうのである。
そして、ここでいう「あなた」とは、たぶん、先の(ひとつ目の)「あなた」は、「円環の理」となる運命を引き受けようとするまどかであり、後の(二つ目の)「あなた」は、ほむらが愛した「優しくて気弱な女の子としてのまどか」なのではないだろうか。
つまり、自身の「欲望」を成就するために「悪魔」にもなったほむらから見れば、「円環の理としてのまどか」は、もはや「私のまどか」を奪いに来る「敵」、という認識なのである。
だから、その「敵」と戦ってでも「私のまどかは、私が守る」ということなのだろう。


一一それで理屈は通っているのだ。
しかしながら、この戦いは、はたしてほむらに勝ち目などあるのだろうか?
私は、無いと思う。
なぜなら、ほむらが愛した「まどか」とは、まどかそのものではなく、ほむらの欲望が投影されたまどかでしかないからだ。
あえて言い切ってしまえば、そんなまどかは「存在しない」。
したがって、「円環の理」からほむらがもぎ取った「人間としてのまどか」も、決して、ほむらの考えるような「人間としてのまどか」などではなく、なるべくして「円環の理」となったまどかその人の一部でしかない。
だから、その「まどかの一部」は、まどかの心を持ち、本来いるべき場所に帰って、果たすべき使命を果たそうとするだろう。
そもそも「神」という存在には、「全体と部分(一部)」なる概念は、無いのではないか。
たしかに、全体は全体だけれども、その部分の中には全体と同じものが同じだけ孕まれている。
つまり、全体と部分は入れ子構造的に相互に含み含まれていて、その構造は「全個一如(ぜんこいちにょ)」とか「三位一体」といった概念に近いものなのではないだろうか。後者のキリスト教的な比喩で言えば「イエスは、父なる神の御子にして、主(たる神そのもの)である」といったようなことだ。
だから、その一部を奪われた「円環の理」もまた、「人間の人格部分」を失った、単なる「機能」などではなく、やはり、一部を失いながらも「全きまどか」として、ほむらに奪われた自分の「半身」と呼応して、その使命を全うしようとするだろう。
そうなった時に、個人としての欲望に縛られている、所詮は「小さな存在」たるほむらに勝ち目はないと、私はそう考えるのだ。

当然、「円環の理」としてのまどかと、その邪魔立てをする「悪魔」としてのほむらとの戦いは、当たり前の意味での戦いではないだろう。
あり得るのは、ただ「まどかがほむらを、その愛欲の地獄から救済する」というかたちでの勝利しかないと、私は考える。
それは、ほむらの「まどかへの愛という人間的な欲望」を昇華させて、「まどかの喜びが、ほむらの喜びでもある」といった「愛のかたち」しかないのではないだろうか。
つまりこれは、「悪魔」という存在が、所詮は「神」の掌の中にある存在だということでもある。
「悪魔」とは、「人間的な欲望の故に、神に叛逆した天使」なのだが、もしも神が神と呼ぶに値する存在なのならば、それは「悪魔」の存在をも、その究極の救済のために、存在せしめるような存在なのではないだろうか。

そうした「不完全なもの」を、最初から存在せしめないのではなく、不完全なものの存在をも認め、それを受け止めた上で、最終的には、そうしたものの「すべて」を救おうとするものなのではないだろうか。
「円環の理」となった、鹿目まどかの「愛」とは、「最も苦しんだ者を救おうとするもの」だったのではなかったか。
だとすれば、本作『[新編]叛逆の物語』で描かれた、ほむらの「叛逆の物語」も、結局のところは、彼女を救おうとするまどかの「計画」の一部でしかないのではないだろうか。
ほむらを苦しめる「人間的な愛欲」というものを、無かったこととして消してしまうのではなく、それをその極点において、より大きな「愛」へと転換させるために、この「叛逆の物語」は、必要な「一過程」だったのではないか。
まどかを愛したほむらが、まどかの愛を理解しようとしないはずがない。
たとえそれが、自身の「人間的な欲望」に反していようと、まどかは最初からまどかであり、「円環の理」になっても、まどかはまどかなのである。
だから、ほむらはいずれ、まどかの「愛」のかたちを理解しないではいられなくなるだろうし、そんなまどかと一体化することに喜びを感じられるようになるだろう。
まどかの喜びを自らの喜びとし、まどかの愛を自らの愛とする、そんなほむらとなった時、ほむらは真の愛を得て、まどかの一体化するのではないだろうか。
テレビシリーズのオープニングに描かれた「二人のまどか」のように。

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以上のように考えるからこそ、私は本作『[新編]叛逆の物語』は、完結してはいないと考えるのだ。
この物語は、ほむらがまどかの愛によって、完全に救われるための、その必要な一過程を描いた物語だと、そう考える。
まもなく公開される続編『ワルプルギスの廻天』が、どのような物語になるのか、無論、今の私は知らない。
だが、本稿で示したものが、この『魔法少女まどか☆マギカ』という壮大な物語(神話)を締めくくるためのかたちとして大きく外してはいないと、今はそう確信している。
(2026年1月15日)
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