藤井太洋 『マン・カインド』 : それでも繰り返される歴史と問い
藤井太洋は、現在の日本SFを代表する、実力派人気作家の一人である。一一と、そう言っても、たぶん間違いではないだろう。
さほどSFを読んでいない私だが、どんな作家や作品が評判になっているかについては、それなりにチェックしており、それで藤井太洋についての高い評価も、しばしば眼にしているから、こう言うのだ。
ただ、私が藤井太洋を読むのは、これが初めて。
なぜこれまで手を出さなかったのかと言えば、その評判から推して、藤井は「ストーリーテラー」としての作家性が強いようなので、その点で私の趣味には合わないかもしれないと考えたことがひとつ。あとひとつは、現在のところの代表作であるらしい『オービタル・クラウド』(2015年、日本SF大賞・星雲賞受賞、「ベストSF2014[国内篇]」第1位)が、試しに読んでみるには向かない、文庫版で上下巻の大冊であったためである。
つまり1巻本の長編作品で、それなりに評判の良い作品で試し読みしたいと思っていたところ、『オービタル・クラウド』以来の長編として昨年刊行された本作が、かなり評判が良かったので、読むことにしたのだ。
ちなみに、購入後に知った結果だが、本作『マン・カインド』は、SF小説本の年間ベスト誌『SFが読みたい!』の「ベストSF 2024[国内篇]」では第5位にランクインしている。
1『一億年のテレスコープ』春暮康一/早川書房……301点
2『コード・ブッダ 機械仏教史縁起』円城塔/文藝春秋……261点
3『奏で手のヌフレツン』酉島伝法/河出書房新社……248点
4『銀河風帆走』宮西建礼/創元日本SF叢書……246点
5『マン・カインド』藤井太洋/早川書房……212点
6『ここはすべての夜明けまえ』間宮改衣/早川書房……155点
7『射手座の香る夏』松樹凛/創元日本SF叢書……85点
8『感傷ファンタスマゴリィ』空木春宵/創元日本SF叢書……74点
9『山手線が転生して加速器になりました。』松崎有理/光文社文庫……69点
10『ビブリオフォリア・ラプソディ あるいは本と本の間の旅』高野史緒/講談社……63点
10『わたしは孤独な星のように』池澤春菜/早川書房……63点
私は、この中では、第2位の『コード・ブッダ 機械仏教史縁起』と、第6位の『ここはすべての夜明けまえ』は、すでに読んでレビューもアップしている。
ちなみに、第3位の『奏で手のヌフレツン』は購入済みだが、いつ読めるかはわからない積読状態。第1位の『一億年のテレスコープ』は未購入だが、購読の予定である。
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さて、『マン・カインド』だが、総体としては「楽しく読めた」と、そう評価できる。本作の良さは、
(1)SF的なアイデアの面白さ
(2)ストーリーテリングのうまさ
といったことになる。
特に(1)については、単なるアイデアの「新奇さ」や「ユニークさ」ではなく、それが現代社会の「時事問題」と強く結びついており、その意味で「社会批評性」を持ったものであった点を高く評価したい。
たしかに、アイデアそのものは、「リアル」というよりも、SF的に「拡張リアル」的なものだとは言え、それが「所詮はフィクションだ」と笑い飛ばすことを許さない「生々しさ」を持ったアイデアなのだ。
私が本作を高く評価する点も、まさにここなのである。
一方、(2)に点については、前述のとおりで私は「ストーリーテリングだけ」で読ませるようなエンタメ小説には興味がなく、その点で退屈してしまいがちなのだが、本作の場合はそれだけではなく、(1)の美点があったため、当たり前に「物語」として最後まで楽しむことができた。まるでよく出来た「SF映画」のように面白かったのである。
だが、それでもあえて無い物ねだりをさせてもらうなら、本作で今一歩もの足りないと感じるのは、「文学性」や「思弁性」というところまでは届いていない点だろうか。
「時事的な社会批評性」についてはとても面白いと思ったのだが、それを超えて「人間の普遍的な問題」に届くような「文学性」や「思弁性」の迫力までは、残念ながら感じられなかったのである。そして、このあたりで本作は年間ベストテンの1位や2位ではなく、第5位に止まったのではないかと感じられた。

本作の「あらすじ」は次のとおりである。
『公正戦闘の概念が世界に浸透した2045年、ジャーナリストの迫田城兵は、国際独立市テラ・アマリナスの(※ 雇われ軍事)指導者チェリー・イグナシオが(※ 公正戦で敵対した)軍事企業〈グッドフェローズ〉の捕虜を銃殺する場面に遭遇する。この不可解な虐殺を世界にレポートしようとする迫田だったが、なぜか事実確認プラットフォーム〈コヴフェ〉により配信を拒否されてしまう。チェリー本人から(※ 謝罪金を渡すための)遺族訪問を依頼された迫田は、〈グッドフェローズ〉唯一の生存者レイチェル・チェンとともに、熾烈な第二内戦を経た北米の自由領邦をめぐる。
やがて2人と合流した〈コヴフェ〉のトーマ・クヌートは、虐殺に関する迫田のレポートが軽視された原因を解析、〈グッドフェローズ〉のメンバーに秘められたある秘密を知る。』
(本書カバー袖の紹介文より)
物語の冒頭で描かれる、この「公正戦闘」による戦争というアイデアが、まず面白い。
どういうものなのかというと、Amazonにカスタマーレビュー「話は薄味」(星2つ)という手厳しい評価を寄せているレビュアー「ああああ」氏の言葉を引かせて貰えば、『量子コンピューターのマシンパワーと洗練されたアルゴリズムでフェイクニュースを駆逐した』、そんな世界において、紛争当事国どおしの事前の話し合いにより、あらかじめ戦闘区域や人員、装備、勝利の条件を合意した上で、それに従っての戦闘で勝敗を決する、という「代表戦」的なやり方だ。
つまりこれは、第一次世界大戦での「手段を選ばない無差別殺戮(近代的総力戦)」の反省から「戦時国際法」というルールが作られ、戦争自体は否定しないが、「フェアな戦争」の形式を定めたのと同じことが、未来の世界の戦争でも繰り返された、という皮肉な状況を描いているのだ。
例えば、現在も進行中のウクライナ・ロシア戦争においても、「核兵器」こそ使わないものの、そうした縛りを掻い潜るようにしてなされる「フェイクニュースによる情報戦」や「ドローン攻撃」などによって、戦争の被害は止め度もなく拡大している。
そして、長期戦は戦争当事国のどちらをも疲弊させて、勝っても「メリットに乏しい」ものとなっているため、お互いのために「最小限のフェアな戦闘で勝負を決する」ということで生まれたのが、この「公正戦闘」による「戦争」なのだ。
この「公正戦闘」の全ては、即時的に記録され分析されて、ルール通りに行われているかが、世界から監視されている。
したがって、ルールを破れば負けだし、世界からの非難は免れず、自国に不利な全面戦争をしなくてはならなくなる。しかし、これは実質的には選べない選択なのだ。
例えば、通常であれば一方が戦闘不能になった段階で勝敗は決するのだが、それ以前にルール破りが行われれば、他方は、ルールに縛られない無差別攻撃が許される、というようなルールになっている。
つまり、ルールに則ってなされる(そうするしか、結果として勝てない)戦闘だからこそ「公正戦闘」と呼ばれるのだ。
そして、本作の冒頭で描かれるのは、そんな「公正戦闘」のひとつなのだが、この戦闘では、国際独立市テラ・アマリナス側の、雇われ戦闘指導者であるチェリー・イグナシオの知略によって、大方の予想を裏切って、テラ・アマリナス側が勝利を収める。
だが、問題はそのあとだった。
当然のことながら、降伏した戦闘員の身柄の安全は保証され、事後の「捕虜交換」などの政治的交渉のコマとされるはずだったのだが、なんとイグナシオは、レイチェルひとりを残して、他の敵戦闘員を、報道の見守る中で虐殺してしまうのである。
これは、戦闘が終結して、勝敗の決した後だから、イグナシオ個人の戦争犯罪となり、この事実が報じられれば、イグナシオの身は、ただでは済まされない。
この戦闘を現場で取材して、逐次報道を行なっていたジャーナリスト迫田城兵は、捕虜虐殺の事実を驚愕を持って配信したのだが、しかし、彼のこの映像付きの記事は、報道の信頼性を判定する、事実確認プラットフォーム〈コヴフェ〉により、なぜか「信用性が低く、報道に値しない」ものと判定され、配信が拒否されてしまうのだ。
つまり、この段階で、
⚫︎ なぜ、イグナシオは、不必要どころか自身の身を危険に晒すことにしかならない、敵投降兵の虐殺を行い、しかもそれを取材させ、これみよがしに報道させようとしたのか?(結果として、報道されなかったが)
⚫︎ どうして、十分に信憑性のある迫田の記事が、不当な判定を受けてしまい報道されなかったのか?
という「謎」が提示されて、その謎の解明を軸として、物語は戦闘シーンを挟みながら進行してゆく。
またその過程で、新たに「ポストヒューマン」としての「マン・カインド(人間のようなもの)」の問題が浮上してくるのだ。
そして、こうしたいくつもの「謎」の背後には、とんでもない「謀略」が隠されており、それが徐々に明らかになっていく。一一という、娯楽作品としては、申し分のない作りの作品となっているのである。
ただし、なぜ、このような「謀略」がなされたのかという問題については、それが最初の謎である「イグナシオは、なぜ捕虜を虐殺したのか?」という謎と繋がっていくのだが、この謎についてのイグナシオの「狙い」は解明されても、彼がなぜそれを行おうとしたのかという「個人の思い」までは解明されないまま、物語は幕を閉じることになる。
そのあたりまで説明してしまうと、もうこの作品は読めないので、ネタバレは避けるけれども、イグナシオは「人類のため」と思ってやった、ということだけは明かしておこう。
だが、彼の考える「人類」とは、そもそも何なのか? どこまでを人類と呼ぶべきなのか? 一一という「本質問題」は残される。
そしてこれは、人類の歴史を貫いてなされてきた「差別」の問題とも直結してくる問いとしての「人間とは何か?」という難問なのだ。
現在の私たちが当たり前に「彼らも同じ人間」だと考えている人たちも、しかし、かつては「人間」だとは思われていなかったという歴史が、厳然と存在している。例えば、その典型的なものが「黒人」奴隷であろう。
だから、それと同じことが、未来において、新たに繰り返される蓋然性は十分にあり、その時に私たち自身が、イグナシオと同じような判断を、「人類のために」という思いにおいて選ばないとは限らない。
だから、すべては語られないイグナシオの思いを、私たちは我がこととして想像してみるべきなのだ。
(2025年3月3日)
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