王谷晶 『ババヤガの夜』 : アファーマティブ・アクション小説?
『日本人初! ダガー賞受賞作』一一ということで、テレビニュースなどでもしきりに取り上げられていたから、日頃「ミステリー小説」を読まない人でも興味を持っただろうし、読んだ人も多いことだろう。
だが、元ミステリマニアとして言わせてもらえば、本作は「水準以下の凡作」である。

「ダガー賞」とは、英国推理作家協会が主宰するCWA賞の部門の一つで、最優秀長編作品に与えられる賞が「ゴールド・ダガー賞」。つまり、本作『ババヤガの夜』が受賞したのは、「ゴールデン・ダガー賞」ではなく、ダガー賞の「翻訳部門」ということのようである。
選考方式までは知らないが、本作を選んだ2025年「翻訳部門」については、よほど候補作に恵まれなかったのであろう。
ちなみに、「翻訳部門」とあるとおりで、本作は「英語圏の作品」と競り合って勝ったわけではないという点は、是非とも押さえておくべきだろう。
むしろ問題は、シャーロック・ホームズの祖国で、アメリカと並んでミステリー小説の本場たるイギリスにおいて、一体どれくらいの「翻訳ミステリ」が刊行されているのか、だ。一一それによって、本作の受賞価値も、おのずと変わってきて然るべきなのである。
まずは、本書の「あらすじ」を文庫版カバー背面の「紹介文」から。
『お嬢さん、十八かそこらで、なんでそんなに悲しく笑う? 暴力を唯一の趣味とする新道依子は、関東有数規模の暴力団・内樹會にその喧嘩の腕を買われる。会長が溺愛する一人娘の運転手兼護衛を任されるが、彼女を苛酷な運命に縛りつける数々の秘密を知りー一。血が逆流するような描写と大胆な仕掛けで魅せる不世出のシスター・バイオレンスアクション!』
次は、Amazonの本書紹介ページにまとめられている、本作についての「良い評判」の数々も紹介しておこう。
『世界最高峰のミステリー文学賞
英国推理作家協会賞 ダガー賞 翻訳小説部門受賞作
世界が息を呑んだ最狂のシスター・バイオレンス・アクション!
ロサンゼルス・タイムズ「この夏読むべきミステリー5冊(2024年)」選出
デイリー・テレグラフ「 スリラー・オブ・ザ・イヤー」選出
「クライム・フィクション・ラバー」最優秀翻訳賞(編集者選)受賞
「めちゃくちゃブッ飛んでて最高に血まみれ、これはヤバかった!
『キル・ビル』とか『ジョン・ウィック』っぽい雰囲気の本を探してるなら、もうこれ一択」
——@thespookybookclub
「怒り、ユーモア、スリル満載」― The Times紙
「激しい暴力と素晴らしい優しさが交互に訪れる」― The Guardian紙
「女の力を描いた、シャープでストイックな物語」― Los Angeles Times紙
「手に汗握る、壊れないスリラー」― Tokyo Weekender
「優しくも怒りに満ちたこの犯罪サーガは、オオタニの次作を待ち望まずにいられない」― Publishers Weekly
暴力を唯一の趣味とする新道依子は、関東有数規模の暴力団・内樹會会長の一人娘の護衛を任される。二度読み必至、血と暴力の傑作シスター・バイオレンスアクション、ついに文庫化。
装画:寺田克也/解説:深町秋生
どんどこ血が脈打ってくる。――北上次郎(「本の雑誌」2021年1月号)
まず、この世界を壊せ。話はそこからだ、と作者は言う。――杉江松恋
シスターフッド文学をあらゆる意味で刷新するシスターバイオレンスアクション! ――鴻巣友季子
もう一気に読了して最後はナルホド! と唸った。――大槻ケンヂ
友情でも愛情でも性愛でもない、ただ深いところで結ばれたこの関係に、名前など付けられない。――宇垣美里(フリーアナウンサー) 』
ここに名前の挙がっている、有名新聞や書評家たちに言いたい。
「もっと、良い本を読め」あるいは「仲人口も、たいがいにしろ」。
見てのとおり、本作の売りは、
(1)派手な肉体派アクション
(2)最後のどんでん返し
(3)女二人の友情(愛情)を描いたシスターフッド小説
といったことになるだろう。
まずは、これらについて、簡単にコメントしておこう。
(1)の「肉体派アクション」について。
主人公である「新道依子」は、幼いの頃から、なぜか祖父からあらゆる実戦的な格闘技を教え込まれた女性だ。やたらに強くて、イメージとして『グラップラー刃牙』のオンナ版みたいだと、そう言えばわかってもらえるだろうか。
一一もっとも私自身は『グラップラー刃牙』を読んでいないので、あくまでも、筋肉ムキムキで超人的に強いという、あのビジュアルから受ける「強さのイメージ」であって、依子が筋肉ムキムキだということではない。
立派な体格をしているが、見かけが『グラップラー刃牙』的なのではなく、その「強さ」が「漫画的」だという意味である。
まただからこそ、『『キル・ビル』とか『ジョン・ウィック』っぽい』という話にもなるのだ。
本来なら、これは私の読まなかった作品である。
本作が「知性派」の「本格ミステリ」だったならばともかく、私は「アクションものは、活字より映像作品」というタイプなので、いくら「ダガー賞」を取り、日本のマスコミで派手に取り上げられたからといって、それだけでは興味はないからだ。アクション小説だと知った時点で、興味を失っていたはすなのである。
しかし、にもかかわらず私が本作を読もうと思ったのは、テレビニュースでやっていた受賞コメントの映像で、作者の王谷晶が、にわかには性別のわからない、マツコ・デラックスを無難に小さくまとめたような外見の人物であったのと、翻訳家で評論家の鴻巣友季子が本作を『シスターフッド文学』と評していたためである。
つまり本作は、現在の私が興味を持っている「フェミニズム」や「LGBTQ」関連の作品だと推測できたので、そちらへの興味から、読んでみることにしたのだ。

(2)の「どんでん返し」について。
「本格ミステリ」では、使い古された手法を、畑違いの「アクションもの」でやったから「意外」であった、というだけ。だから、その手際も、決して洗練されたものではない。
「文庫版あとがき」に『M・ナイト・シャマラン映画みたいなどんでん返し』がやりたかったと書いているとおりで、どう見ても著者は、「本格ミステリ」系の人ではないから、ミステリのテクニックとしては、洗練されていなかったのだろう。
むしろ私としては、この仕掛けに「驚いた」という「読者」の方にこそ、「今更、この程度のことに、いちいち驚くなよ」と言いたいところである。
(3)の「シスターフッド小説」という側面について。
すでに指摘したとおり、本作は『「フェミニズム」や「LGBTQ」関連の作品』の作品である。
最初は「アクションもの」的に始まるのだが、途中から「女同士の絆」(シスターフッド)物語的な要素が入ってきて、終盤では(3)のトリックとも絡んでくる、「性自認」の問題を匂わせる「異性装」が出てくる。一一このあたりで、なるほど著者は、やはりそっち(LGBTQ)の人なのであろうと窺わせるのだ。
さて、以上は、本書の「長所」とされている点について、「さほどのものではない」とする私の評価だが、私のこうした評価は、上のAmazonページに、『そんなに騒ぐほどか?』と題するカスタマーレビューを寄せている「あやいたち」氏の、
(5つ星のうち3.0)
『漫画ではよくある設定 なぜ賞を取ったかわからない』
という言葉に尽きよう。
あえて「フォロー」するなら、レビュアー「おすし」氏の、次のようなレビューになるだろう。
『 おすし 『物語に深みはないがエンタメ性は高い』
2025年7月28日(5つ星のうち4.0)
人物造形の浅さや描写不足のため登場人物の言動に説得力が欠けていたり、ヤクザという割には無理のある描写や都合の良い展開もあってリアリティにも欠けています。
しかし、テンポが良くストーリーに勢いがあるので、細かいことを気にしなければ十分楽しめるクオリティだと思います。
また文章がとてもわかりやすく、暴力シーンなどは動きを頭に思い描きやすかったので、著者は読者の方を向いて描いているであろうことがなんとなく伺えて気持ち良く読めました。
残念ながら物語に深みはなく、心に響くものも何も無かったのでストーリーはすぐに忘れると思います。
しかしエンタメ作品として見ると悪くない出来なので、賞を獲ったからといって過度に期待せず軽い気持ちで読むことをおすすめします。』
要は、「漫画・劇画」的な作品であって、それで良いという人ならいいのだが、私としては、わざわざ「活字」で読みたいような作品ではなかった。
(2)のトリックとも関連してくるところなのだが、たとえば「ヤクザ(暴力団)」の描き方などは、あまりにも古臭くて「漫画的」。
「昭和の暴力団」を戯画化にしたような、いささか陳腐な人物造形であり、そうした点で、『キル・ビル』などの「外人の見た、日本のヤクザ」といった感じだ。つまり、外人さんならそれでも仕方ないのだけれど、日本人が描いて「これか?」という感じなのだ。
そもそも、暴力団の会長(組長)の名前が「内樹源造」である。「源造」はないだろう「源造」は。一一無論、着物を着ていて、恰幅の良い中老のおじさんなのである。
ことほど左様に、登場人物は、いずれも「どこかで見たことのあるようなお人形さん」である。だから、わかりやすくて読みやすいとも言えるのだが、少なくとも本作を楽しめるのは「エンタメ小説しか読まない」という読者に限られるだろう。
またそんな作品だから、文学作品も読む鴻巣友季子が褒めているのも、主として「翻訳者の功績」や「シスターフッド文学」という観点からでしかなく、もしも主人公が男性だったら、一顧だにしなかったであろうことは、容易に推察できる。
要は、著者が「LGBTQ」であることを知っていて、その点で注目しており、その作家が受賞したことについて、「フェミニズム」イデオロギー的に褒めているだけなのである。「こういう作品が、日本でも書かれるようになって喜ばしい」と。
したがって、鴻巣友季子も指摘しているとおり、本作が「ダガー賞」を受賞した要因として大きかったのが、「シスターフッド小説」だったという点であろう。そこが世界の文学的潮流(流行)にマッチしていた。
つまり、繰り返しになるが、主人公が男性だったら、受賞できなかったであろう作品だということだ。
実際、本作が「ダガー賞」を受賞するまで、著者の王谷晶は、さほど注目されたミステリー作家ではなかったのではないだろうか。
まあ、私は、ミステリマニアを辞めてだいぶ経つから、今どきのミステリー作家の名前はあまり知らないし、ましてや最近の「アクション小説」作家など、まったく知らないと言っても過言ではない。
だがそれにしても、作品自体が評判になれば、ジャンルに関係なく「目につく」のが今の「過剰宣伝」の時代なのだから、こんな漫画の主人公みたいに、目立つ名前の作家をまったく知らなかったというのは、やはり王谷晶が、これまでは「注目作家」ではなかったからなのであろう。
本作の初版単行本は「2020年」の刊行である。だから、本作が国内で話題になって、その後、コンスタントに同種のジャンル小説を刊行していたなら、もっと目についているはずなのだ。
そこで、王谷晶の「Wikipedia」を確認してみると、ラノベあるいは児童文学の方から出てきた人のようで、本格的な「大人向けミステリ作品」は、本作『ババヤガの夜』が初めてのようである。
それならば、この種の「アクション小説」に、あのような、やや畑違いのトリックを使ってみたというナイーブさも、「やってみたかったんだろうなあ」ということで、理解はできるのだ。
今回「ダガー賞」を受賞するまで、王谷晶には「文学賞」の受賞歴はなく、本作『ババヤガの夜』が「第74回日本推理作家協会賞長編部門の最終候補」になっているだけである。
しかし、ここで注意しなければならないのは「日本推理作家協会賞」というのは、「既受賞者の再受賞はない」賞だという点である。
つまり、その年のミステリ作品の中から、既受賞者の作品を除いた上で「候補作」が選ばれるのであり、言い換ええれば、すでに力量の認められた作家の作品は、すべてあらかじめ除かれているのである。
だから、私のような「すれっからしのミステリファン」からすれば「推理作家協会賞」は、基本「順繰りに与えられる栄誉賞」でしかなく、受賞作だからといって「その年のベスト作品」でも「その作家のベスト作品」でもないから、注目に値しない賞だということになる。「受賞作だから何?」という感じなのだ。
つまり、「受賞作」ですら、さして興味が持てない「賞」の「候補作」ではなあ、ということなのである。
もっとも、王谷晶の場合は、初候補作だろうから、何度も候補になりながら受賞できなかった先輩の作品より、不利だったというのは間違いないのではあるが、それにしても、というところなのである。
ちなみに、『ババヤガの夜』は2020年10月刊行なので、年間ミステリベスト投票である『このミステリーがすごい!』(宝島社)では、ギリギリ「2022年度版」の対象となるのだが、そちらの結果は、
『 2022年
2021年12月発行
作品:2020年10月 - 2021年9月
国内編
黒牢城(米澤穂信)
テスカトリポカ(佐藤究)
機龍警察 白骨街道(月村了衛)
兇人邸の殺人(今村昌弘)
蒼海館の殺人(阿津川辰海)
invert 城塚翡翠倒叙集(相沢沙呼)
忌名の如き贄るもの(三津田信三)
六人の嘘つきな大学生(浅倉秋成)
硝子の塔の殺人(知念実希人)
雷神(道尾秀介) 』
と、10位以内にランクインしていない。
また、ほぼ同じ時期の作品を対象とした『週刊文春ミステリーベスト10』(週刊文春)の結果も次の通りである。
『 2021年
2021年12月2日号掲載
国内部門
黒牢城(米澤穂信)
テスカトリポカ(佐藤究)
兇人邸の殺人(今村昌弘)
硝子の塔の殺人(知念実希人)
白鳥とコウモリ(東野圭吾)
六人の嘘つきな大学生(浅倉秋成)
機龍警察 白骨街道(月村了衛)
蒼海館の殺人(阿津川辰海)
琥珀の夏(辻村深月)
おれたちの歌をうたえ(呉勝浩)
忌名の如き贄るもの(三津田信三) 』
つまり、ミステリ読みからすれば、ごく一部の好事家を除いては、まったく注目もされていなければ、評価する者もほとんどいなかった作品だということであり、これでは、私が「現役のミステリファン」だったとしても、王谷晶の存在をほとんど意識しなかっただろう。
したがって結論としては、個人的には好みのパターンの作品ではないとしても、やはり「客観的」にも、さほどの作品ではない、ということになろうし、「ダガー賞」の選考委員はボンクラだったということになる。
一一翻訳者が「上手かった」ということはあるにしてもだ。
○ ○ ○
さて、以上の「ミステリー作品としての評価」は、本稿の本筋ではない。
すでに書いたとおり、私が本作を読んだのは、本作が「フェミニズム」「LGBTQ」絡みの作品だからである。
そのあたりで、何か見るべきものがあるのか否かが問題であった。
だが、結論から言えば、そこも、ぜんぜん大したことはなかった。
なにしろ、人物描写が類型的で浅いのだから、「フェミニズム」だ「LGBTQ」だという以前の作品である。
しかし、言い換えれば本作は、そういう「流行の新しいところ」を扱っているから得をした作品だというのも、間違いないだろう。
すでに書いたとおり、主人公が男性だったら、ここまで「ヨイショ」もされず「下駄を履かせてもらう」こともなかっただろう作品なのだ。
しかしながら、「流行のイデオロギーに乗った作品」だから「過大評価」されるというのは、「文学作品」や「小説」という芸術ジャンルにおいては、きわめて不健全であると、ここで苦言を呈しておきたい。
またそうした意味で、本作が「アファーマティブ・アクション的な受賞作」だと言われても、作者自身、決して喜びはしないはずである。
一一だが、それしかないのだ。
○ ○ ○
本作が、「フェミニズム」「LGBTQ」がらみの作品だから、「アファーマティブ・アクション」的に「ダガー賞」を受賞できたのであろうというのは、深町秋生による「解説」や、著者による「文庫版あとがき」などにも明らかだろう。
なお、解説の深町秋生は、本作『ババヤガの夜』と同系統の、アクション系の「ミステリ作品」を書いている作家のようだが、この人の名も、今回初めて知った。
同系統の作品を書く作家だからと「解説者」に抜擢されたのであろう。王谷晶と旧知の仲なのかも知れない。
さて、まずは「深町秋生の解説」である。
『 私がもっとも舌を巻いたのは「ヤリマン名人伝」(タイトルもすごい)という(※ 王谷晶の)短編。ただただセックスが大好きで趣味としている女性主人公は、それを誰にも打ち明けられずにいたが、周然知り合った風俗嬢を介して、ようやく同好の士を得る。そして、お互いにこう心情を吐露しあう。
「(前略)あの、セックス趣味だって知られると、余計な情報が添付されちゃうことありませんか? 過去に何か暗い事件があったんじゃないかとか、初恋の男に騙されてそれからヤケクソになったんじゃないかとか、勝手なストーリーをくっつけられるというか」
「男の人はあいつ女好きだとかモテるとか何人斬りとかヤリチンとか、そういう情報が職場とかでもカジュアルに共有されてることよくあるじゃん? でも私らさ、そんな情報共有されたらわりと死ぬよね。社会的に。(後略)」
まったくそのとおりだと、膝を打ちながら読んでいたけれど、ヒヤリとさせられるものもあった。
自分はLGBTQなど性的マイノリティに理解があり、我が国のジェンダーギャップ指数の絶望的な順位の低さに腹を立てている。社会的公平性や多様性を重んじるなかなかのリベラルだと思っていた。
だが、王谷作品を読んでいると、己のなかに潜む無自覚な偏見や女性に対する身勝手な幻想を抱いていたことに気づかされる。この「ヤリマン名人伝」などは、その勝手なストーリーをくっつけたがる側のほうであり、自分が糾弾されているような気分にもなった。
セックス好きを公言する男性は腐るほどいるもので(自分もそうだ)、周りには給料のほとんどを風俗や女遊びに使い込むやつも山ほどいる。
それをごくふつうの趣味と見なして気にも留めていなかったが、それが一転して女性となると、「ひょっとしてなにか過去にトラウマでも」「ヤケクソになって自暴自棄になっているのでは」と、ごくふつうの趣味とは見なさず、ただ事ではないなにかがあるのではと、背後にストーリーを見出そうとしていた。ド偏見もいいところである。
そうした読み手の凝り固まった頭に強烈なパンチを見舞ってくるのが王谷作品の特徴だろう』(P195〜197)
要は、自分を下げて王谷を持ち上げている部分なのだが、それにしても、『勝手なストーリーをくっつけたがる側のほう』であり『それをごくふつうの趣味と見なして気にも留めていなかった』ような人間が、
『自分はLGBTQなど性的マイノリティに理解があり、我が国のジェンダーギャップ指数の絶望的な順位の低さに腹を立てている。社会的公平性や多様性を重んじるなかなかのリベラルだと思っていた。』
などというのは、無認識にも程があろう。
そんな男が、『LGBTQなど性的マイノリティ』のことなど、そもそもまともに考えたことなどあろうとは思えないし、『無自覚な偏見や女性に対する身勝手な幻想を抱いていたことに気づかされる。』と、いかにも反省しているかのように書いているが、本気で反省しているとも思えない。一一本気で反省していれば、こんなに「軽く」は書けない、ということである。
こう言ってはなんだが、こういう人は「反省して見せたその尻から、同じことを繰り返す」ものなのである。
ともあれ、この「解説」からも分かるとおり、本書『ババヤガの夜』の著者・王谷晶は「LGBTQ」の当事者(レズビアンを公言しているらしい)であり、自覚的な「フェミニスト」だと考えていいだろう。
だが、そんな王谷のテレビニュースで流れた「受賞コメント」を聞いていて、私は引っかかりを覚えた。
王谷は、大要つぎのようなことを語っていたのである。
「この作品は、過剰なまでの暴力を描いた作品です。しかし、こうした作品が娯楽として楽しめるのは、世界が平和であってこそ。しかし、今は世界のあちこちで戦争が行われています。私は心から、こうした戦争の無くなることを願っています」
この言葉のどこに引っかかったのかといえば、それは、この言葉がいかにも「言い訳がましい」からである。

「戦争ミステリ」だったのなら話も別だが、普通のバイオレンス・アクション小説の受賞コメントで、「戦争」の話を持ち出す必要はないし、求められてもいない。
なのにどうして、わざわざこんなコメントをしたのか。
それは、そうした「断り」を入れておかないと、読者の多くは「作者には、満たされない暴力願望があるんだろうな」と推察するだろうから、ではないだろうか。
だが、王谷としては、そう思っては欲しくなかった。
だからこのコメントで、自身に関しての「秘められた暴力性」という解釈を、機先を制するかたちで否定しようとしたのではないか。
一一そのように感じられたのだ。
思いもかけず、国際的な舞台で「カメラの前」に立たされたから、勘繰られる前に「予防線を張った」と、そのようにしか見えないのである。
無論、王谷晶が、実生活で「暴力的な人」だと言いたいのではない。
しかし、王谷に、本作から窺えるような「満たされない暴力願望」があろうことは、ほぼ間違いないのだ。そうでなければ、こんな「漫画みたいなアクション小説」は書かないだろう。
そして、言うなれば、そうした「ありふれた暴力願望」でしかないものを、どうして王谷は「先回り」的に否定したのかと言えば、それは王谷がこれまで「LGBTQ」や「フェミニズム」的な立場を表明してきた人だからではないかと、そう疑うのである。
そういう「意識高い系のご立派なこと」を言ってきたからこそ、それと矛盾するかのような「暴力願望がある」と認定されることは避けたかったのだろうと、そう見たのだ。
そして、私がその点に不満を感じるのは、そうした構えが、作家としてはあまりに「小心で保身的」でしかない、と感じられたためである。
「LGBTQ」であろうが「フェミニスト」であろうが、「暴力性」を秘めている人は、世間並みにいるだろう。彼らだって「聖人君子」ではない。
それに、そうした「暴力性」というのは、「暴力」として現に行使されなければ、何の問題もありはしない。「内心の自由」の範疇でしかないからだ。
また、そうした秘めたる衝動があるからこそ、書ける小説もある。
なのに、このように先回り的に「言い訳がましい」のは、王谷の「LGBTQ」や「フェミニズム」といった立ち位置が、多分に「イデオロギー」的なものであり、これみよがしな「正義」として語られるものだからこそ、過剰にその「潔白」性をアピールしなければならなかったのではないかと、そう疑われるのである。
そもそも小説家が、心の中に「暴力性」やら「怒り」やら「憎悪」といった「負の感情」を、まったく抱えていない、などという方が、むしろ不自然なのだ。
それなのに、前述のような「優等生的なコメント」をしてしまうところに、私は王谷晶という作家の「小物性」を見ないわけにはいかないのである。
次は、その王谷晶による「文庫版あとがき」である。
私が引っかかったのは、次の部分だ。
『 この小説は最初から「文藝」に掲載させるために書き始めたが、プロットの段階でどう転んでもいわゆる「純文学」にはならないのが丸わかりだった。暴力、卑語、格闘、そしてM・ナイト・シャマラン映画みたいなどんでん返し。でも「文藝」の編集部がOKを出したので、ならいいか、後は知らんからねとそのまま書いた。何冊か本を出させてもらっているけれど、未だに自分が何作家なのかよく分からない。エンターテインメントの人でありたいなとは思っている。』(P202)
ここを読んで、ピンと来た人は、私の「フェミニスト北村紗衣」批判関係のレビューを、よく読み込んでくれている人だと言えるだろう。一一どういうことか?
ここで言及されている、『文藝』は、本書『ババヤガの夜』を刊行した河出書房新社の発行する純文学誌なのだが、本作の初版単行本の刊行が、前記のとおり「2020年10月」なのだから、つまり本作が同誌に連載されていたのは、「#MeToo運動」以降の「フェミニズム」ブームのまっ最中だったということなる。
こうした「機を見るに敏」な態度は、講談社の純文学誌『群像』も同じことで、『群像』の方では同じ時期、「トランスジェンダリズム」の急進性に対して批判的だったベテラン純文学作家・笙野頼子を同誌から切り(排除・キャンセル)し、その一方で、当時、文学の世界ではまったく無名だった、トランスジェンダーの「言語哲学研究者」である三木那由他に、いきなり連載を持たせて、その連載の最中に三木に、トランスジェンダーであることを「カミングアウト」させたという事実についても、私はすでに書いた。
つまり、王谷晶自身も認めているとおり、本来は「エンターティンメント」小説家であるにもかかわらず、純文学誌である『文藝』が、王谷に連載を持たせたのは、ほぼ間違いなく、王谷が「LGBTQ」だったからなのである。
そして、それを裏付けるような「証言」を、私はごく最近読んでいる。
『でもそれにしたって、木戸が編集長になってからの「叢雲」は、文芸誌の固定層に向けたある種の媚びにしか感じられないような懐古趣味的な特集と、この数年内にどの雑誌も一度は組んだであろうフェミニズム、ポリコレ、LGBTQ+系の現代的な特集テーマで話題性を狙った割には大した冒険も目新しさもない執筆陣の選定、レジェンド作家が死ぬと手当たり次第親交のあった人たちに原稿依頼がなされ当たり前のように無思考で作られる追悼企画等々で構成されており、なんの理想も信念もない人が編集長になるとこういう雑誌ができる、というお手本のような誌面だった。』
(金原ひとみ『YABUNONAKA-ヤブノナカ-』P41)
これは、芥川賞受賞作家で純文学作家の金原ひとみが、文藝春秋社の純文学雑誌『文學界』に連載(2022年9月号〜2024年7月号)して、先ごろ単行本化されたばかりの作品である。
そして、上に引用した「感想」を述べているのは、作中の「女性作家」長岡友梨奈だ。
つまり、2022年の後半には、少なくとも『文學界』編集部には「このような問題意識」を肯定的に捉える空気があり、その点で、その少し前の『文藝』(河出書房新社)や『群像』(講談社)の「フェミニズム」「キャンセルカルチャー」べったりのスタンスとは、一線を画していた、ということである。
そして、私がここで注目するのは「今どきの日本のフェミニズム=第四波フェミニズム」を代表する北村紗衣(武蔵大学教授)の第2著書『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード ジェンダー・フェミニズム批評入門』(2022年6月29日刊行)が、文藝春秋から刊行されており、同書はまだ文庫に落ちてはいないのだが、果たして同書が「文春文庫」に入るのか否かである。
『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』は、北村紗衣があちこちに書いた短文を集めたもので、文藝春秋系の雑誌に連載されたものではない。
その点は、北村紗衣の第一著書である『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』が、書肆侃侃房のウェブサイトに連載されたものを、同社が単行本化したというのとは、成立事情が違っている。
ただ、この『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』と『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』が、一見してよく似た造本となっているのは、たぶん、『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』が、よく売れたからであろう。
だから、新しい書き手としての北村紗衣注目した文藝春秋の編集者が「うちでまとめませんか」と持ち掛けた結果が、『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』だったのではないだろうか。
ところが、この『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』が刊行されたその年のうちに、文藝春秋の看板文芸誌『文學界』で、前述のような記述のある金原ひとみの連載が始まったというところは、注目に値しよう。
もちろん『文學界』編集部と、単行本編集部とは別なのかもしれないし、文庫編集部はまず間違いなく別だろうから、『文學界』編集部が何を考えていようと、単行本を刊行した文藝春秋が『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』を「文春文庫」に入れるというのは、十分にあり得ることだ。
書肆侃侃房のように「文庫本」を刊行していない出版社なら、『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』のように、文庫化は「ちくま文庫」(筑摩書房)でということになっても不思議はないのだが、文庫部門がある文藝春秋が『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』に入れないとなれば、それは「よほどのことだろう」と考えられるからである。
ともあれ、金原ひとみの『YABUNONAKA-ヤブノナカ-』の作中小説家・長岡友梨奈が言うとおり、日本の、特に純文学作家の中には、
『でもそれにしたって、木戸が編集長になってからの「叢雲」は、文芸誌の固定層に向けたある種の媚びにしか感じられないような懐古趣味的な特集と、この数年内にどの雑誌も一度は組んだであろうフェミニズム、ポリコレ、LGBTQ+系の現代的な特集テーマで話題性を狙った割には大した冒険も目新しさもない執筆陣の選定、レジェンド作家が死ぬと手当たり次第親交のあった人たちに原稿依頼がなされ当たり前のように無思考で作られる追悼企画等々で構成されており、なんの理想も信念もない人が編集長になるとこういう雑誌ができる、というお手本のような誌面だった。』
というような「見方」があることは、確かな事実である。
そしてこれは、日本の「文学の健全性」という点からしても、注目すべきところなのだ。
「流行っているから」あるいは「今どき、フェミニズムのご機嫌をうかがっておかないと、何かとうるさいから」などという、金原の『YABUNONAKA-ヤブノナカ-』に生々しく描かれたような思いを持つ編集者によって「文芸誌」が作られたのだとしたら、それは間違いなく「文芸出版の堕落」に他ならない。
本書『ババヤガの夜』はエンタメであり、金原の『YABUNONAKA-ヤブノナカ-』は「純文学」に分類されるのだろうが、「小説の下位ジャンルに貴賎なし」と本気で思うのならば、両者を読み比べてみるのも、本読みの醍醐味であるはずだ。
果たしてそこに、「文学」としての志の、ありや無しや。
(2025年8月11日)
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