ロバート・F・ヤング『たんぽぽ娘』 : 無垢なる永遠の少女への憧憬
書評:ロバート・F・ヤング『たんぽぽ娘』(河出文庫)
1950〜60年代に、主として短編SFで活躍したアメリカの作家ロバート・F・ヤングの、日本で編まれたSF短編集である。

ロバート・F・ヤングと言えば、なんと言っても本書の表題作「たんぽぽ娘」(1961年)が有名。
特に日本では、本書のメイン翻訳者である伊藤典夫が、伝説的なSF同人誌『宇宙塵』に1964年に訳出して以来、今に至るまで長らくSFファンな愛され、「古典」的名作として安定的な支持を受けており、2006年におこなわれた『SFマガジン』誌の「オールタイムベストSF」の海外短編部門では「第8位」に選出されてもいる。

私もそうしたことから、いずれは読まなければならない作品だと考え、本書の元本である「奇想コレクション」版の同名短編集(2013年)を買ったのだが、その際は、積読の山に埋もれさせてしまい、今回の二度目の挑戦で、やっと読むことができたという次第である。

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さて、表題作「たんぽぽ娘」に代表される、著者ロバート・F・ヤングの作風とは、「Wikipedia」に、
『叙情的で優しい、気恥ずかしいほどストレートに愛を語るロマンティックな作風が特徴。作風はジャック・フィニイ、レイ・ブラッドベリやシオドア・スタージョンと類比されることもある。』
(Wikipedia「ロバート・F・ヤング」)
とある通りだ。
ただし、無論そんな作品ばかりではなく、1950〜60年代に活躍したSF作家らしい、シンプルなアイデア SFもあって、その点では、初期のフィリップ・K・ディックを思わせるような作品も少なくない(例えば、本書冒頭の「特別急行がおくれた日」など)。
本短編集『たんぽぽ娘』には、13の短編が収められているが、それらを通読するとわかるのが、ヤングが「たんぽぽ娘」のような『叙情的で優しい、気恥ずかしいほどストレートに愛を語るロマンティック』な作品を書けた、あるいは、書かないではいられなかったことの、心情的な背景だ。
もっとも、このあたりは、あまり知って楽しい話ではないのだが、「たんぽぽ娘」に限定せず本書を論じるならば、避けて通れない部分なので、なるべく誤解されないように注意しながら、そのあたりについて書いておきたいと思う。
まず、結論から言ってしまうと、ヤングの根本的な心情というのは、「純粋指向」だと言えるだろう。
それは「穢れること」を嫌う(潔癖症)ということであり、それが「大人になること(の負の面)」への嫌悪にもつながっている。
つまり、ヤングにおける「たんぽぽ娘」のような「無垢なる少女」とは、現実社会や、その中で「否応なく汚れていく自分」自身に対する、嫌悪の裏返しとしての「憧憬」を、象徴的に具象化したものなのである。
だから、ヤングの描く「理想の少女」像は、せいぜいハイティーンまでだ。
しかも、金髪碧眼で『すらりと伸びたした脚』(「たんぽぽ娘」)の持ち主であり、要は、古典的な白人少女であり、かつ肉が付きすぎていない、付きすぎていてはいけないのである。なぜならそれは、「大人」への変化を示すものだからだ。
無論、「少女らしさ」から遠い、見るからに「筋肉質」などというのも、論外なのである。
つまり、ヤングの「美少女趣味」が、単なる「美少女趣味」や「ロリコン(ロリータ・コンプレックス)」で片づけられないのは、ヤングにははっきりと「成熟拒否」的な傾向があり、その裏返しとしての理想を形象化したものが、ヤング的な「無垢なる美少女」なのだ。そこがポイントなのである。
したがって、ヤングの根底にある、よく言えば「純粋指向」、悪く言えば「成熟拒否」的な傾向を示す描写は、本書のあちこちに見出すことができる。
例えば、次のような描写だ。
『パンパン・ガールの嘆き節
「ーペソ、ニペソ、三ペソー一兵隊さん、これだけじゃ不足だよ。あんたはわざわざあたいを選んで、あたいの部屋にきた。なのにあれをやろうとしない。ふん、へんなアメリカーノだよ、あんたって。へんなアメリカーノにはね、たといあれをやんなくとも、あたいは五ペソもらうことにしてんのさ。さあ、五ペンおくれよ、さもないとほかの兵隊たちに、あんたは男じゃないって言いふらしてやるよ。あたいはいちんち働きづめに働いてるんだ。食べものや着るものを買うのに、たくさんお金がいるんだよ。ねえってば、あたいの用意はできてるんだよ、どうしてこないのさ! まったくへんなアメリカーノだよ。さあ、おいでったら! 五ペソでたっぷり楽しませてあげるからさ。一ペソ、ニペソ、三ペソ、ねえ兵隊さん、これじゃ‥‥‥」』
(P235〜236「失われし時のかたみ」)
これは語り手の老人ハヴァーズが、自身の来し方をふり返るシーンでの回想的描写で、彼が先の大戦の直後、まだ若い進駐軍のMP(陸軍警官)として占領国に駐屯中、そこで現地の売春宿へ行った際の記憶を語るものだ。
要は、この非常にウブだった語り手は、性欲に駆られて売春宿へ行ったものの、どうしてもパンパンを抱くことが出来なかった。一一という記憶である。
つまり「あの頃は、私もウブ(初心=無垢)だった」ということを示す描写であり、裏を返せば「今の私は、すっかり汚れてしまった」という自認による「自嘲」なのだ。
で、これはあくまでも小説の中での、語り手の言葉であり、作者その人の言葉ではないのだけれど、本書を通読して感じるのは、「この人なら、現実にこんなこともあったのかも知れない。仮に、実際には売春婦を抱いたのだとしても、後で自己嫌悪にとらわれたであろうことは、想像に難くない」ということである。
そして、そうした作者ヤングの思いは、同短編の次のような、締めくくりの言葉にも明らかだろう。
『自分がついに一度も本当に生きたことがなかったからなのかもしれない。
ドアのほうへ一歩踏みだしかけて、彼は足を止めた。そして、脚つきの台に歩み寄ると、ハヴァーズ人形のタイを結びなおし、その端をていねいに小さな上着のなかへ押しこんでやった。それから、まっすぐに部屋を横切り、ドアをあけて、出ていった。』
(P252 「失われし時のかたみ」)
語り手のハヴァーズは、こうして、自分の人生から『出ていった』のである。
ヤングの中には、こうした「葛藤」が、常に存在していた。
つまり「今の世の中はおかしい。けれども、私はそんな現実を拒絶しているだけで、その現実の中で正しく生きようとまではしていないのではないか。結局のところ、現実逃避しているだけではないのか?」という、自己批判的な葛藤である。
『 めざめてからの長い歳月、宇宙からきたエイリアン水兵たちの地球乗っ取りという結論の真実性にわたし自身疑いがなかったわけではない。自分の推理に見落としはないという確信はあるものの、何らかの確証をつかまないかぎり、骨身を削り、心をこめてたどりついた真実もたんなる仮説に終わってしまう。戦後数十年、人類がなぜこれほど道徳的に腐敗したか、その謎を解き卵かす理由がほかに何ひとつ見当たらないのに、だ。』
(P270「最後の地球人、愛を込めて彷徨す」)
これは、地球人の精神が徐々にエイリアンに乗っ取られており、精神が100パーセント地球人であるのは、つまり「100パーセントの地球人」は自分だけであり、その意味で、自身を「最後の地球人」だと考えている男の、独白である。
上の引用文の後半部分、
『戦後数十年、人類がなぜこれほど道徳的に腐敗したか、その謎を解き卵かす理由がほかに何ひとつ見当たらないのに、だ。』
には、わざわざ傍点が振られており、語り手が「戦後社会における倫理的劣化」を深く嘆いており、そのために「エイリアン」のせいにでもしなければ、気が収まらない、という心情が示されている。
ただし、これはフィクションの中での、語り手の考えであって、無論、作者自身はこんな狂ったことを考えているわけではない。
だが、語り手が自身を「純粋な地球人」だと考えているところに、作者がこの語り手に自身を重ねているというも、自明であろう。
つまり作者は、語り手に自身の「戦後社会に対する否定的な思い」を託しつつ、しかし、そんな現実社会から遊離してしまった、年甲斐もなく「純粋指向」のままの自身を、「自嘲」してもいるのである。
「私の方こそ、宇宙人になっちまったな」と。
このように、決して自身の「純粋指向」を特権化したり、全肯定したりしているわけではないヤングなのだが、しかしその一方、自身の根源的な「純粋指向」を捨てることできなければ、否定することも、やはりできない。
捨てたくて捨てられるようなものは、その人の本性ではないからだ。
つまり、「無垢なる少女」への自身の「憧憬」とは、あくまでも自分個人の欲望の具現化であるとそう客観視しながらも、それを捨てることができない。
同様に、この「世界」に対しても、あるいは「女性」に対しても、自身の嗜好を捨てることはできないし、それが、全面的に間違っているとも思ってはいない。
たしかに自分は、非主流ではあるけれど、それが「間違い」を意味するわけではないという、当然の確信もあればこそ、堕落した社会への嫌悪は隠さないし、「女性らしさを失った女性」への嫌悪も隠さないのだ。
「無垢なる少女への憧憬」が、端的に裏返されたかたちで表れているのが、戦争SF「神風」における、語り手の主人公ケニオンの所属する軍の、女性司令官の描写だ。
『 司令官は名前をオマリーといい、ケニオンとおなじくらい背が高かった。まばゆい純白の軍服は、彼女の肩幅を広く見せ、尻の筋肉のしまり具合を強調している。胸毛を生やしているという噂もケニオンは聞いていた。』
(P76「神風」)
彼女は、ケニオンに「神風特攻」を命ずる、血も涙もない、見かけどおりの軍人なのだが、その軍人にわざわざ「男性化した女性」を配しているところに、著者の女性観がよく表れている。
だが、それだけではない。この女性司令官と対比的な存在として、ケニオンの特攻を阻止するため、彼の特攻機内に転送されてくる、敵方の女性人間爆弾を配し、その存在感の希薄な、言い換えれば「はかなげな女性」に、むしろケニオンは、そして作者は、心を寄せているのである。
だが、こうした「葛藤」は、結局のところ、次のようなところに落ち着いたようだ。
先に紹介した「最後の地球人」の、自嘲的な独白である。
『 答えが何であるにしろ、人類との共感関係を持てないわたしの挫折感、および変化に適応できないわたしの無能さを合理化するため、突飛なレンガをひとつひとつ組んで造り上げた堅牢な幻想世界は足場をなくして崩れ去り、その決定的な瞬間、わたしは自分のほんとうの姿を目にする。人生を一度もちゃんと味わうことなしに年老いてしまった男。急速に変わりゆく世界でなすすべもなく行き暮れ、自分のすがる価値観がとっくに死んでいることを認めようとせず、雨雲から宇宙船を、よそよそしい目つきからエイリアンを、黒い二日酔いから恐怖を創作した男。』
(P274「最後の地球人、愛を込めて彷徨す」)
伊藤典夫の「訳者あとがき」によると、こうしたヤングによる「長編小説」は、短編とは違って、『すべて壊れている。』そうだ。
『 他の長編もいちおう読んでみた。たとえば、SFマガジン掲載の「真鍮の都」(山田順子駅)はなかなか面白いアラビアン・ファンタジーで、機会があればつぎのヤングの短編集に収めたいと思っているが、その中編を加筆した The Vixier's Second Danghter(1985)は、十五歳のアラブの少女といちゃいちゃしているだけでページが過ぎてゆき、原形にあったファンタジーのアイディアさえ活かしきれていない(二〇一四年に創元SF文庫より『宰相の二番目の娘』として邦訳された)。
結論として、ヤングの長編について断言できることは「すべて壊れている」なのである。』
(P389〜390「訳者あとがき」)
このような、いささか手厳しい総括によって、しかしヤングの短編まで、軽く見てしまうのは間違いであろう。つまり「所詮は、ロリコン作家のファンタジーだ」というような安直な評価は、間違いなのだ。
本短編集の著者ロバート・F・ヤングの場合、「美少女趣味」があったから「純粋指向」になったわけではない。これは、明白な事実である。
つまり、彼の「純粋指向」が、「性愛」的な側面において形象化されたのが「無垢なる美少女」なのだ。決して、その逆ではないのである。
また、言うまでもなく、「美少女趣味」のある人が、すべて「純粋指向」だなどということもないし、あり得ない話である。
だから、ヤングの「美少女趣味」という点をとらえて、「所詮は変態」扱いにするような評価は、明らかに「世間並みの差別的な偏見」に過ぎないと、そう言えるのである。
では、「訳者あとがき」で伊藤典夫の指摘した『壊れている』とは、どういうことを指しているのだろうか?
これも、難しい話ではない。
人は、長時間の緊張や葛藤には耐えられないから、そのような状況に置かれた時には、まず間違いなく「易きに流される」、というだけの話なのだ。
つまり、評判の良かった短編を長編化するというような「おいしい話」の場合、元の短編の良さを残しつつ、長編としての厚みを加える、というようなことは、一一ヤングのような葛藤を抱えていた人間には、きわめて困難なのだ。
短編において、ギリギリで保ちえた緊張感を、そのまま長編において保つことなどできない。
だからそこでは、なかば必然的に緊張の糸が切れて脱力し、易きに流れてしまう。
言い換えれば「書いていて楽しいことばかりを書き加えて、長編化してしまう」ということだ。
これは、短編作家が、長編小説を書く場合によくあることで、所詮は向き不向きの話でしかない。どっちも上手いという人の方が、むしろ少ないのである。
それに、そもそも「肉厚」が嫌いなヤングに、長編は向いていないというのは、ちょっと考えればわかることだ。
また、注文に応じて、自分に向いていない長編を安易に引き受けて書いてしまうというのは、職業作家としてはやむ得ないことだとしても、それはやはり、ヤング自身が嫌った「悪い意味での成熟」に他ならない。
だから、そんなものが、面白くなる道理がないのである。
そんなわけで、長編作品が酷いからといって、ヤングの短編の価値までを下げて見る必要はないし、それは間違った評価だ。
ヤング自身も認めているとおり、結局は彼自身も、穢れた世の中で、妥協しながら生きてきた人間なのだから、穢れた部分があるのも、致し方のないことなのだ。
だが、そうした自身の妥協と堕落を嫌悪しながらも、心の片隅に抱え続けてきた「理想」を、短編小説として具象化できたのであれば、それはそれで作家としては十分なのではないだろうか。現実には、そうした短編ひとつ残せないまま、過去の人になっていく流行作家が大半なのだから。
ヤングの現実が、いわゆる「ロリコン」であろうと、それでいながら欺瞞的に結婚生活を送った人であろうと、それでも彼が、そんな自身を断罪し続けた人であるからこそ、「たんぽぽ娘」のような「無垢への憧憬」を書けたのだという事実は、決して揺るがない。
彼の作品の多くが、現実の妻を裏切るものだったとしても、彼が「永遠に無垢なる少女」と「妻」を接続しようと努めていたという事実は、何よりも「たんぽぽ娘」という作品に、明らかなのだ。

古典的傑作「たんぽぽ娘」は、器用な作家が器用に書いた傑作などではなく、不器用な作家が不器用に書いた作品だからこそ、時を超える作品となり得たのだと、私はそのように評価したい。
『日本での受容
『ビブリア古書堂の事件手帖』(三上延)3巻で短編「たんぽぽ娘」を収録し表題作とした集英社コバルト文庫の短編集『たんぽぽ娘 海外ロマンチックSF傑作選2』(1980年刊、風見潤編)が採り上げられ、これを原作とする剛力彩芽主演のテレビドラマ『ビブリア古書堂の事件手帖』が2013年に放映されたことで、該当の古書価格が急騰した。またこのドラマ化を機に、「たんぽぽ娘」を含む短編集が刊行されることになった。』
(Wikipedia「ロバート・F・ヤング」)
『影響
「たんぽぽ娘」は、日本のアニメシリーズ『ラーゼフォン』の制作にあたって出渕裕に影響を与えた。
久美沙織は松任谷由実が作詞作曲した原田知世への提供曲「ダンデライオン〜遅咲きのたんぽぽ」は「たんぽぽ娘」から連想したのではないかと考察している。
竹宮恵子『私を月まで連れてって!』や梶尾真治『クロノス・ジョウンターの伝説』、三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』においても「たんぽぽ娘」が言及されている。また作中のセリフが『クラナド』や『Portal 2』で引用されている。』
(Wikipedia「たんぽぽ娘」)
私としては、そんなロバート・F・ヤングの「孤影」を感じさせる、遺作「荒寥の地より」を、是非ともおすすめしたいと思う。
そこには「愛したいし、愛されたい」と願いながら、それでもその地を、独りで去っていかなければならなかった男の悲しみが、深く刻まれているからである。
(2025年7月20日)
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