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難波優輝 『物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために』 : 著者は意外に〈いいやつ〉、そこが肝心。

書評:難波優輝物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために』(講談社現代新書)

タイトルにはピンと来るものがあったのだが、サブタイトルはよくわからないものだった。
「〈わたしの人生〉を選びなおす」というのなら、まあわかるが、「〈わたしの人生〉を遊びなおす」とは、どういうことなのか?

しかし、表紙カバーの内容紹介文を見れば、本書で主張されていること自体は、ほぼ明らかだ。

「何者かになりたい」は呪いだ。

人生は物語ではない。

(カバー裏面より)

「物語」が過剰に要求される現代社会

清涼飲料水の広告の少女はいつもドラマティックな青春を謳歌しているし、
「推し」はファンの期待した筋書きどおりに振る舞うし、
就活面接では挫折経験を「美談」として語らねばならない。

「私は端的にこう思う。何かがおかしい、と。」
 一一「序章 人生は「物語」ではない」より

ここまで紹介すれば、わかる人にはわかりすぎるほどわかりやすい内容だが、わからない人はわからないだろう。

わたし流に言えば、「類型的で薄っぺらい物語」に自身を委ね、それに浸りきっている人というのは、「バカじゃねえか」ということだ。

こう書いていることからもわかるとおり、私は著者が本書で訴えているのであろうことに共感したので、本書を読むことにした。

その結果どうだったのかというと、語られているのはタイトルどおりだし、それ以上のものでもないから、その点では、いささか期待はずれではあった。

しかも、その書き方が、過剰に「衒学的」なのも、いただけなかった。
どうってことないことを語るのに、やたらといちいち学者の名前が出てくるのだ。

無論、私たちが「どうってことないこと」と思っていることも、学者たちはいちいち厳密に研究しており、本書著者の難波優輝は、本書において、そうした学問レベルで、「人生の物語化」批判を、「哲学的」に語ろうとした、ということなのであろう。

だが、そうした学者の名前が次々と多数登場するのだから、個々の学者の研究について、突っ込んだ話(議論)が本書でなされるわけではない。
つまり、ひと通りのことしか書いていないのに、やたらと学者の名前を出してくるのは、ハッキリ言って「ウザい」のである。

「こんなにたくさん読んでますアピールを、そんなにしたいのか?」と、そう言いたくなるような書きっぷりなのだ。

だから、本書の内容から受ける「第一印象」は、あまり良いものではなかった

だが、「面白い」と思えるところもあった
それは、著者が自分の「思い」を語る部分で、普通ではない「熱量」が感じられたのである。

一一と言うのも、「衒学趣味のある人」というのは、「スカしている=気取っている」奴が多く、そのため、たいがいは「熱く語る」というようなことはしないのだ。
「これくらい当たり前だよ。どうってことない」と、そういうポーズを、殊更に採りたがるものなのだが、本書の著者は、そういう「スカした」タイプでは、なさそうなのだ。

例えば、こんな具合である。

「したいことをしたい」じゃ、だめなのか

「で、これからどうしていきたいの?」
 仕事をしている人や研究者にこう訊かれたとき、私は深く戸惑う。何を答えればいいのかは分かる。しかし、そのように答えたくないからだ。
「スキルを身につけて起業したいですね」「海外の大学に行って最先端の美学を学んでみたいですね」。こう答えることはできる。しかしこれらは、嘘ではないが本当でもない。だから、私は本心からこう答える。「自分がしたいことをしていきたいですね!」
 相手は少し笑う。笑いながら、困った顔をする。
 私は、「私がこれからどうしたいのか」という問いに対し、「自分がしたいことをしたい」以外の答えを持たない。未来の戦略を立てて生きていきたいとは思わない。そのときどきでしたいことをしているだけだ。
 もちろん、必要に応じて未来の戦略を立てて考えることもできるが、ひどく苦痛である。同時に、「今やっておかなければ、後悔する」と急かされて生きることも、ひどく苦痛である。
 冒頭の「これからどうしていきたいの?」と尋ねる人々が、私をサポートしようとしてくれているのは分かる。私のやりたいことについて情報を集め、未来像を共有し、一緒に進んでいきたいと考えてくれている。そして、「今できることをやっておかないと後悔するよ」という助言もしてくれる。だからこそ、私は深く戸惑う。
 彼らが描くような「未来」が、私にはない。「あのときやっておけばよかった」と後悔しないよう、未来を先取りし、そこから人生を組み立てていくという考え方を、私は身につけられない。身につけるつもりもない。私は、この現在、やりたいと感じることしかやりたくない。
 このディスコミュニケーションを、私は時間意識のずれによるものだと考えていた。私には現在しか見えない。彼らは未来を見ているうえに、未来から現在を振り返っている。
しかし、彼らを観察しているうち、ひとつのことに私は気づいた。
 彼らは労働や活動について話すとき、「未来/未来から見た現在」というペアだけでなく、独特なタームのペアたちを用いている。「成長/現状維持」「課題/挑戦」「仕事ができる/仕事ができない」「努力/怠惰」「勝つ/負ける」‥‥‥。以上のようなペア概念で、労働をフレームしている。
 彼らと私の意識の構造は、時間意識だけではなく、別の軸においても異なるのではないか。彼らは時間意識に限らず、私の人生にある「特定の構造」がないことに不安を覚えているようにもみえる。上記のペア概念を含む活動とは何か? 特定の構造とは何か?
 それは「ゲーム」である。 』(P104〜106)

ここから話は、人生を「ゲーム」的に捉えて(擬えて)いる人の「人生観」に対する批判的検討がなされていく。

「実人生」を、まるで「人生ゲーム」ででもあるかのように、「就職」「結婚」「子供の養育」といったイベントを、高得点でクリアしながら、「成功した人生」というゴールを目指すようなものだと捉えているようなたぐいの、「類型的な人生観」を生きている人たちの生き方を、それは結局のところ「人生を貧しくしている」と、そう批判するのである。

「人生を、ゲーム的に理解して、そこで勝利できるように生きる」というのは、当然、人生の「陳腐な物語化」でしかないからだ(例えば、昔は「結婚して一人前」という物語が絶対的だったが、今となってはそうとも言えない)。

したがって、著者が言いたいのは、

人生ってそんなに類型的で貧困なものではないはずだ。もっと多様性に開かれて、豊かなものじゃないのか

と、だいたいそういうことなのだ。

一一で、これは、まったく正しい。

けれども、著者と私の違いは、例えば、企業面接などで面接官から「で、これからどうしていきたいの?」なんて、わかったような顔で質問された際の「対応の違い」で、私なら本書著者のように「自分がしたいことをしていきたいですね!」などと、馬鹿正直に答えたりはしない、というところだ。

なにしろ、そんな陳腐な質問をする人には、こちらの意図するところなど、(ごく稀に例外はあるにしろ)絶対に伝わらないに決まってるし、説明しても、たぶん誤解が深まる(変な奴と思われる)だけで、こちらとしては一文の得にもならないからである。

だから私の場合は、その場しのぎで、相手の期待するであろう回答を、適当に返しておく。

なぜなら、そうした面接を受けに行くのは、普通は、雇ってもらうとか、入学させてもらうためであって、赤の他人である面接官に、理解してもらうためではないからだ。

でなきゃ、どこの誰とも知れない他人に、わざわざ試され評価されに行くなんてことは、御免だ。
むしろ「こっちが、おまえを評価してやるよ」くらいの気持ちを持ちながら、あえて謙って面接をうけているのだから、面接官個人の、私への正しい理解など、まったく無用なのである。

それに、本書著者とて私と同様、そんな「紋切り型の質問」しかできない面接官に対しては、内心では「こいつ馬鹿か」と思っている部分があるはずだ。
だから、そんな相手に対して、馬鹿正直な本音を語るわけにはいかない。そのせいで面接で落とされてしまうからだ。

したがって私の場合は、そうした面接などでは、適当に「期待されるであろう回答」を返しておくのである。一一で、これはたぶん、ごく当たり前の態度(面接対処法)なのではないだろうか。

ところが、本書著者は、そうではなく、わざわざ「自分がしたいことをしていきたいですね!」などと、面接官をいぶかしがらせるような回答をするというのだから、変わった人だとしか言いようがない。

もちろん「わざわざ普通ではない返答をして相手の興味を惹きつけ、自分を売り込む」みたいなやり方もあるのだけれども、それは一般的にはリスクが高くて、そんな手法を採用する機会などほとんどない。
よっぽど「変わり者を求めています」と公言しているような企業なら、そうしたやり方もありだろうが、そういう企業の面接では、逆にそんなハッタリを効かせる輩も少なくないだろうから、あまり効果は無いかも知れない。

ともあれ、そんな例外的な状況を別にすれば、就職や仕事をもらうため、あるいは入学のためなどの面接などにおいて、本書著者のように、相手がいぶかしがるだろうとわかっていながら、わざわざ馬鹿正直に自分の考えを語る者なと、滅多にいない。リスクが高すぎる。

では、著者は、文章の上だけで「正直者」ぶって見せてるだけであり、本当はそんなことはしないし出来ない人なのだろうか?

普通なら、そうだろう。だが、著者の場合に問題になるのは、その「語りの熱量」なのだ。妙に力が入っていて、逆にそこに、嘘をついているとは思えない、感触がある。

事実、主に本書前半の「理屈」の部分では、前記のとおりで、やたらと学者の名前が出てくるのに、先に引用したような「自分の考え」を熱く語った部分には、学者名による権威づけが、ほとんどなされていない

そういうところにも、その部分での著者の「本気度」と共に、「著者自身の心の声」のようなものが感じられて、言葉は悪いが「こいつ、面白そうな奴だ」と、私にはそう感じられたのである。

そんなわけで、著者はやはり、そうそうはいない「ちょっと変わった人」なのだ。
時流に乗って適当なことを語り、ハッタリをかましながら要領よく生きるといったタイプには、私には見えない。ぜんぜんスマートではないのだ。

だから、本書前半の「衒学趣味」も、よくあるそれとはちょっと違う、意味合いがありそうに思えて興味深い。

例えば、「ギャンブル」に生き甲斐を見出す人たちの特性を分析するのに、著者はまず、自分自身のことを、次のように語る。

『 私は大のギャンブル下手である。とてつもなく苦手だ。そもそも「駆け引き」というものができない(人間関係でもなんでも)。リスクに身を置きたくない。可能な限り危ないことは避ける。けれども何の因果か、ギャンブルで身を持ち崩した親類を複数目撃してきた。物悲しかった。ギャンブルに浸っていくにつれ、彼らの眼に私は映らなくなっていった。その眼には、一体何が映っていたのだろうか。だから、私は、「ギャンブル嫌悪者」だ。アンチギャンブラーだ(大阪万博後のカジノ建設に反対!)。』(P172)

『私は私の性格の本来性を、賭けに耐える膨力や勇気には見出していない。私にとってはむしろ、危険なことから遠ざかることが賢慮であり、無理をしないことが勇気なのである。こういうわけで、私はギャンブルそれ自体に意識的に参加することはない。』(P179)

私はここに、著者の、ある種の「正直さ」を感じる。
単に「大阪万博後のカジノ建設に反対」という部分に共感したのではない。

普通なら、ここでは「自分自身」を語るのではなく、「一般論」として「ギャンブル気質ではない人」のことを語れば良いし、それが普通だろう。
それなのに、わざわざ、自分という実例を持ち出して、それをここまで力説してしまうところが、普通ではないし、そんなところに著者の人柄が出ていると、私には感じられた。

著者の性格は、悪く言えば、抑制が効かず、そのために、馬鹿正直にも「個人的な(いささか過剰な)こだわり」が出してしまう、といったところであろう。
一一だか、そこが面白い

つまり、私は「変人」が好きだから、その点で、本書著者に興味を持ち、著者がどんな人なのかを探る材料として、(途中からは)本書を読むことになったのだ。
本書から学ぼうというのではなく、小説作品から「作者の実存」を読み解こうとする、文芸批評的な態度で、本書を読むことになったのである。

その結果、やはり本書著者には、私に似た部分があるというのがわかった。

そっくりだというのではない
前述のとおり、本書著者には「線の細い、生真面目さ」があって、私のような「太々しさ」や「好戦性」は無いのだが、ただ「人生はもっと自由であり、もっと楽しまなきゃ損だ」という考えと、そのためには「硬直化を打ち砕く批評性が、是非とも必要だ」という主張においては、完全に一致している

そんなわけで、上のような「結論」に至るまでの、本書の構成は、おおよそ次のようなものである。

(1) ありきたりな(類型的)な「物語」に人生を委ねるのは、あまりにもつまらないし、リスクも多い。なぜなら、そうした生き方は容易に、資本主義社会において、搾取されるだけ、ということになりやすいからだ。踊らされ、搾り取られて、下層へと廃棄されるのである。

(2) では、そうした「人生の物語化」とは少し違うパターン(類型)には、どのようなものがあるだろうか。
その代表的なものは、「ゲーム」「パズル」「ギャンブル」「おもちゃ遊び」的な生き方である。それを個別的に分析して、その魅力と難点を析出しよう。

(3) 上の(2)分析においては、「ゲーム」「パズル」「ギャンブル」的な人生観には、それぞれにそれなりの魅力があるものの、しかしそれもまたある種の類型化であり、人生を限定するものでもあって、問題もある。
ところが、「おもちゃ遊び」的な人生観というのは、それらとは、基本的なところで違う。
どう違うのかと言えば、「おもちゃ遊び」とは、基本的にルールや制限がなく、自分なりに「遊び方を見つけていく」という「変化(異化)」的な特性を持ったものなのだ。
だからこそ「自由」なのだが、その反面「ルール破壊的」でもあって、その点で、人に嫌われて疎まれるという面もある(「そんな遊び方つまんないよ」的な挑発性)。
しかし、この「類型的な物語化の時代」においては、こうした「おもちゃ遊び」的な「ルール破壊性」、言い換えれば「批評性」が、是非とも必要なのではないか。人が自ら好んで縛られてしまう物語から、人を解放するのが、「おもちゃ遊び」的な態度としての「批評性」であり、「物語のルール的な絶対性」を揺るがすのが「おもちゃ遊び的な人生観」なのである。

一一と、まあだいたいこのような話である。

(※  上の2つの映画レビューは直近のものだが、いずれも当たり前の「感動的な読み」つまり「型通りの薄っぺらい読み」を批判したものとなっている)

で、著者が「結論」として語り、推奨しているような「おもちゃ遊び的な態度」というのは、私が若い頃、山口昌男「トリックスター」理論として学んだことと寸分違わないと言って良いほどのものであり、あれだけいろんな学者の名前を引っ張ってきた挙句「結論はこれかよ」と思わないでもないのだが、一一その「おもちゃ遊びの人≒批評家≒トリックスター」的な結論(その必要性)には全面的に賛成なので、著者その人に悪い感情は持っていない。

ただし、ちょっと心配なのは、著者の「線の細さ」である。

著者は、言うなれば「反体制のススメ」をしており、それに生きようとしているのは、まず間違いなく、そこに嘘はないだろう。

だが、言うまでもなく、そうした生き方は、決して楽ではないのだから、本書著者のように、真面目かつ線の細い人には、きわめて大変なことのはずだと、そんな「老婆心」が、私にはあるのだ。

ある意味で「不敵な」主張をする人であるにもかかわらず、それとは不似合いに「衒学的」なのも、たぶんこの人にとって「学問=勉強」は「鎧=衒学」なのだろうと推察される。一般的な「見せ鎧」ではない。
つまり「俺には隙が無いぞ」と、周囲を威嚇するための「衒学」であり、よくある「俺ってこんなに凄いんだぞ」というような、能天気な衒学とは、その性質がかなり違っているように感じられるのだ。

著者の、そうした真面目さには好感を持ちつつ、その線の細さに危惧を抱く私は、あえて著者に「適当に嘘もつける太々しさと無責任さを、もう少し身につけても良いんだよ」と、そう助言したいところなのだ。
言い換えれば「適当にやれてこそ、自由だ」とも言えよう。著者自身も「責任を持たないという、責任の持ち方」というものを、肯定的に語ってもいるのだから。

著者の言う『責任感を持たない責任感』(P224)とは、「自他の課してくる決まりごと」に「縛られない」ということであり、それこそが、「おもちゃ遊び」的な「自由」なのである。

だがまた「責任という同調圧力」に抗するためには、それを嘲笑って、いなす「図太さ・太々しさ」も必要なのだ。
「みんなに褒めて欲しい。認めて欲しい」などと思っていては、「社会的な責任」という「呪い」の回避は、きわめて困難だからである。


(2025年9月12日)

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