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アニエス・ヴァルダ監督 『5時から7時までのクレオ』 : 「最強の幸福」について。

映画評:アニエス・ヴァルダ監督『5時から7時までのクレオ』(1962年/フランス映画)

ヌーヴェルヴァーグ左岸派」の作家として知られる、アニエス・ヴァルダ監督の「長編劇映画第1作」ということになるだろうか。

デビュー作で長編第1作の『ラ・ポワント・クールト』はドキュメンタリー映画、第2作『コートダジュールの方へ』は短編劇映画、第3作『オペラ・ムッフ』は短編のセミフィクション、第4作『マクドナルド橋のフィアンセ』は短編劇映画。そして第5作となるのが、本作『5時から7時までのクレオ』である。

ちなみに、私がこれまでに見たヴァルダ作品は、ヴァルダの6作目に当たり、ベルリン国際映画祭銀熊賞(審査員特別賞)を受賞した長編劇映画『幸福』だけ。
これが、映像的にとても素晴らしく、内容的にも興味深い作品だったので、他の作品も見てみることにした。そこで本作が、ヴァルダ作品鑑賞の2作目ということになる。

『幸福』でまず目に惹いたのは、その色彩感覚の素晴らしさだった。だが、本作『5時から7時までのクレオ』は、物語冒頭の、タロット占いのシーンのみのパートカラーで、あとはすべてモノクロである。

ただし、このタロット占いのシーンも、タロットカードが並べられる卓上を真上から撮ったカットやカードのアップなどはカラーだが、その合間に何度か挟み込まれる、主人公の女性クレオと、占い師の老婆の正面アップ、またはバストアップはモノクロで撮られている。

つまり、人物については、カードを扱う「手」以外は、最初から最後までモノクロなので、タロット占いのシーンが終わって、クレオが帰っていくところ以降がモノクロになっても、さほどの違和感はない。
タロット占いのシーンの、色彩センスの良さのせいで、ほんの一瞬「もっとカラーで見たかったな」というような気分になるだけなのだ。

本作は、当時の平均的な劇場用長編映画の7分の1ほどの低予算で撮られたという事情から、少し特殊な長編作品となっている。
どう特殊なのかというと、ドラマらしいドラマはなく、タイトルからも分かるとおり、物語中の時間経過は2時間に限定され、場所もパリ市内に限定されている。時間と場所を限定しているのだ。そうした工夫で、予算を節約しているのである。

だが、だからと言って、貧乏くさい映画になっているかというと、そんなことはまったくない。そうした制作事情を知らなければ、低予算映画だとは、まったく気づかない出来である。

では、どこが低予算らしくないのかというと、やはり「絵(映像)」がとにかく素晴らしいのだ。
物語らしい物語がなくても、その映像を見ているだけで、感心するし楽しめる。やっぱり、ヴァルダの映像センスは並外れたものであり、それはカラーではなくても、十分に発揮されていた。

一一と言うか、ヴァルダはもともと写真家だったそうだから、モノクロはお手のものだったのだろうし、その映像センスが、モノクロの静止画に限定されないものであったことは、本作以前の作品で、すでに実証済みだったのである。(※ ちなみに、当時の写真は基本モノクロ)

(「鏡」の使い方が興味深い)

「物語らしい物語」が無いと書いたが、本作の物語前半を要約すると、次のようになる。

2日前の精密検査の結果が出るその日、主人公の歌手クレオは、自分が重病であること、たぶん癌であろうことを強く疑っていた。
そんな不安に駆られ、占い師に見てもらってところ、占い師はタロットで、彼女の職業や生活環境などを見事に当てていくのだが、ただ健康状態に関しては、表情を曇らせ、言い淀んでしまう。明らかに、悪い結果が出たのだ。
結局、肝心な健康問題に関しては、明確な答えを聞けないままその場を去るクレオだったが、クレオが去った後、占い師の老婆は、隣室に控えていた夫と思しき男性に「あの娘は、きっと癌だよ」と言うのである。

しかし、そう明言されるまでもなく、クレオは自分が癌に違いないという思いを強くしていた。
彼女が信頼する年配の女性マネージャーをはじめ、身近な人たちが「考えすぎだ」とクレオを励ますのだが、そんなことではクレオの心が晴れることはない。

(買い物で気を紛らわせようとするがうまくいかない)
(作曲家のボブとの歌のレッスンも結局は気が乗らない。ボブを演じたのは若きミッシェル・ルグラン

それどころか、その日のその後の展開は、占い師の老婆が語ったとおりのものなので、本作を見ている私たち観客も、嫌な予感しかしないのである。

いくら励まされても、いたたまれないクレオは、家でじっとしている気にはなれず、その夜に検査結果の問い合わせの電話を入れる時刻までは、一人で外出することにした。
友人に会いに行って気を紛らわせようとしたのだが、それもあまりうまくいかない。

(街を歩いても気は紛れず、疎外感だけがつのる)
(美術学校でヌードモデルの仕事をしている友人ドロテを誘い出す)
(ドロテの恋人で映画技師のラウルに、上映中の映画を覗かせてもらう。この作中映画の主演の二人は、当時恋人だった、上のジャン=リュック・ゴダールアンナ・カリーナ

一一というような、作中時間で2時間を描くのが、本作『5時から7時までのクレオ』である。

つまり、いちおうオチはあるものの、そこまでは、彼女がいろんな知人に会っては気を紛らわせようとしてうまくいかず、次の場所へ移動するということの繰り返しで、特に変わったことが起こるわけではない

と言うか、正確に言えば、彼女の心の中は大変な葛藤で動揺しているというのに、世間はいつもと少しも変わらないがために、クレオは、自分が世界からとり残されてしまったかのような「疎外感」を覚え、それで余計に悲観的になっていくのである。

したがって、映像的な素晴らしさは別にして、本作の内容的な面白さとは、この「死の影」による「孤立感・疎外感・不安・怯え・絶望」といったものに揺れるクレオの心を、じつにリアルに描いている、という点であろう。

健康に不安を覚えたことのないような人だとあまりピンと来ず、これといったイベントのない物語に退屈してしまうかもしれないけれど、一度でも「もしかして自分は…」と思ったことのある人には、一種の心理スリラーと呼んでも良いくらいの、イヤ〜な作品かも知れない。

ただ、そうした、惻々と迫る不安や苛立ちを、ホラーのような特殊状況ではなく、ごく当たり前の「精密検査の結果待ち」という日常の中で、しっかり描いてみせたところが、ヴァルダ監督の、女性らしい繊細さでもあれば、それでいて作家的な骨太さも感じさせるのである。

さて、全体的な印象をざっと論じたところで、物語のラストまでを「Wikipedia」から紹介しておこう。

クレオ(コリーヌ・マルシャン)はパリで売り出し中のポップシンガー。午後7時に、2日前に受けた精密検査の診断結果を聞くことになっている彼女は、自分が癌ではないかと怯えつつ、占い師にタロットカードで自分の未来を占ってもらう。占い師は、身近な未亡人が面倒を見てくれていること、寛大な恋人がいるがなかなか会えずにいること、音楽の才能があることなど、クレオの過去と現在の状況を正しく言い当て、未来については、病気の兆候があることを告げるものの、そのことについては言葉を濁して慰めの言葉をかけ、これから調子のいい若者に出逢うだろうと告げる。しかし、クレオが部屋を出ると占い師は同居している男性に「あの子は癌よ。もうだめだわ」と語る。
占いを終えたクレオはカフェで中年女性のアンジェール(ドミニク・ダヴレー)と落ちあう。アンジェールはクレオの生活を管理し、面倒を見るマネージャーのような役割を受け持っている。占いの結果を告げて泣くクレオをアンジェールが慰め、気持ちを落ち着けたクレオは帽子店に寄って帽子を選んでいるうちにすっかり機嫌をよくし、アンジェールとともにタクシーで帰路につく。車中のラジオからはクレオが出したレコードの歌が流れる。
帰宅するとやがて年上の恋人がやってくるが、仕事が忙しいからとすぐに帰ってしまう。
入れ替わりにやってきたのは若い作曲家のボブミッシェル・ルグラン)と作詞家。ふたりはクレオが次に出す新曲について相談とレッスンをしにきたのだった。陽気な二人と楽しそうに過ごしていたクレオだったが、ふたりが持ち込んだ新曲「恋の叫び」の暗い曲調と歌詞に心をかき乱され、レッスンを中断して部屋を出て行ってしまう。
クレオはパリの街を歩き回るが心を落ち着けることができず、友人のドロテ(ドロテ・ブラン)に会いに行く。美術学校のヌードモデルの仕事を終えたドロテとクレオは、ドロテの恋人ラウルの車で出かけ、クレオは病気への不安をドロテに打ち明ける。二人はラウルが映写技師として働いている映画館に向かい、映写室の小窓から上映されている無声映画のコメディを見て楽しむ。しかし、映画館を出たクレオは階段からバッグの中のものを落としてしまい、割れた鏡を見て不吉な前兆だとまた不安になる。
ドロテと別れたクレオはタクシーでモンスリ公園に向かう。公園内を散策しているとアントワーヌという若い男(アントワーヌ・ブルセイエ)がなれなれしく声をかけてくる。始めは鬱陶しく思っていたクレオだったが次第に親しく話をするようになる。アントワーヌは休暇中の兵士で、今夜には軍隊に戻り、アルジェリアに向かうことになっていた。
病気についての不安を打ち明けたクレオが、検査の結果を面と向かって聞くのは怖いので医師に電話をするつもりだと告げると、アントワーヌは一緒に行こうとクレオを誘い、ピティエ=サルペトリエール病院に向かう。バスの中で語り合いながら二人は親密になっていく。
病院に着いたクレオは受付に向かうが、担当医のヴァリノは既に帰ったと告げられる。クレオとアントワーヌは病院の広い庭を手をつないで歩き、やがてベンチに腰をかける。そこに一台の車がやってきて二人の前で止まる。運転していたのは帰宅したはずのヴァリノ医師だった。ヴァリノは「放射線治療は少々きついが必ず治るから心配は要らない。あす11時に来て下さい」と手早く告げると去って行く。クレオとアントワーヌは互いに愛を告げ、見つめ合うのだった。』

(Wikipedia「5時から7時までのクレオ」

上の「あらすじ」のとおりで、結局のところ、クレオは、癌ではあったのものの、たぶん初期ということで、治療すれば治るとの太鼓判を医師から与えられる。それで一応、ハッピーエンドということになるのだ。

このオチの上手いところは、冒頭の占い師の老婆の「あの娘は癌だよ」という言葉を、観客を脅しつけるためだけの「嘘」にすることなく、しかし、ほっとするハッピーエンドに持ち込んでみせた点であろう。

言い換えれば、占い師の老婆のあの言葉が無かったら、観客の多くは「結局は、クレオの心配のしすぎで、ラストは癌ではなかったってところに落ち着くんじゃないか。まさか、やっぱり癌でした、では物語にならないからな」と推測させてしまい、クレオの不安や焦燥や絶望感を、観客に共有させることが難しかったはずだ。

したがって、あの占い師の老婆の「断定」は必要なものだったのだが、しかし、そうすると、「結局は、癌ではありませんでした(良かった良かった)」というラストをつけにくい。なぜなら、観客は、占い師の老婆の言葉を聞かせた監督から「騙された」と感じてしまうからである。

そんなわけで本作のラストは、「癌ではあったけれど、絶望的なものではなく、希望が戻ってきた」という、ギリギリの線を狙わなければならなかったわけなのだ。

しかしながら、「やっぱり癌だった」のに、治療すれば治ると医師に言われて「ほっとする」という微妙な心理に、説得力を持たせるのは、けっこう困難なことなのではないだろうか。

しかしまただからこそ、その難所を、アルジェリア戦争から休暇で一時帰還していた男性兵士のアントワーヌを絡ませることできり抜けたというのは、じつに見事な手際であったと言えよう。

癌への恐怖で孤立感を深め、疎外感に囚われていたクレオの気持ちとは、要は「自分は死に直面しているというのに、周囲の人々は皆、私だけを置き去りにして、当たり前の日常を生きていくんだ」というような感覚だろう。

つまり、自分一人だけが「死の影の捕らえられているという孤立感」にとらわれていたクレオに、「死が日常」の戦場から、「当たり前の日常」に一時的に帰還して、またまもなく戦場へと帰っていかねばならない運命にあるアントワーヌを絡ませることで、クレオに「死の影にまといつかれて不安なのは、なにも自分だけではなかった」という慰めを与え、さらには、アントワーヌの、他者から強いられた「死が日常の兵士の運命」の救いのなさに比べれば、自分の「病気」なんて、悲観するに値しないものだという「自己客観認識」を与えるのである。

つまり、主観的な悲嘆に中に囚われていた自身を突き放して見る視点を、さらに過酷な立場にあったアントワーヌが与えてくれたのだ。

本作のラストで、医師の説明を聞いて安心した二人は、並んで歩道を歩きながら、次のような会話を交わす。

クレオ「なぜかしら?
アントワーヌ「(※ 君を残して戦地へ)発つのは心残りだ あなたといたい
クレオ「(※ あなたの)そばにいるわ
クレオ「私、もう怖くないようよ。何か幸福なかんじよ

ここのクレオの台詞は、なかなか微妙なものであろう。

ひとまず死なないで済むとわかったことに安心感を覚え、それに「幸福な感じ」を覚えるというのは、わかりやすいところだろう。

だが、隣には、望まぬ戦地へ一人で帰っていかなければならないアントワーヌがいるのだから、このセリフは、ある意味では無神経と言われても仕方のないものでもあろう。

しかしながら、ここでポイントとなるのは、当然、アントワーヌに向けた「そばにいるわ」というセリフだ。
まさか、彼女が戦地までついていくわけではないのだから、ここで言う「そばにいるわ」というのは、あくまでも精神的なものであろうというのがわかる。

ではなぜ、クレオはこの時、こうした「精神的な寄り添いこそが重要である」というような「感情」を、率直な言葉にできたのだろうか?
言い換えれば、その主観的な感情が、きっとアントワーヌに伝わるだろうという、ある種の確信にも似た感情を持つことが出来たのだろう?

もちろん、この言葉の真意を正確に推しはかることはできないが、私が感じたのは、死の恐怖に直面することによって、クレオは、じつは人間誰しも、死と隣り合わせた日常を生きており、ただそのことに気づかないで生活しているだけだということに気づいた、ということなのではないだろうか。

(「鏡」で見るのは、ふつうは「自分の顔」。それは自身を客観視させてくれるけれども、その一方で、自分の感情しか映さず、他人の内面まで見せてくれることはない)

だから、その意味では、パリの日常に生きるクレオも、アルジェリアの戦場に生きるアントワーヌも、その点では同じであり、同じ保証のない生を生きているのだという「感覚」から、それを、今も、そしてこれからも、私はあなたの「そばにいるわ」という言葉で、表現してしまったのではないだろうか。

だから、ここでの会話を『クレオとアントワーヌは互いに愛を告げ』と簡単に言ってしまうのは、まちがいではないけれども、ちょっと違うように思うのだ。

「死が日常と共にある」というのは、ある意味で、やはりちょっと怖い認識であろう。
私たちには「無限に続くかのような日常」をぼんやりと生きているという幸福があり、その一方で、クレオのように死の影に直面したからこそ感じることのできる「生の喜び」というものもある。

どっちかと言えば、個人的には、前者の「何も知らない幸福」の方が、ありがたいもののように感じられるけれど、しかし、少なくとも、死の恐怖を知っている者だけが、死の恐怖に怯える人に寄り添うことができるのだ、というようなことを教えてくれているようにも思う。

少なくともクレオは、そんなアントワーヌがいたから救われたのであり、そのことによって、今度は自分が、誰かの不安に寄り添えるであろう人間になったことを、彼女は「幸福」だと感じたのではないだろうか。

他人の悲しみや苦しみに心から共感でき、そして、だからこそ他人の「幸福」を、心から(私も)「幸福」だと感じられる者こそが、最も幸福なのではないか
なぜならそれは、仮に自分自身は、客観的には不幸に見える境遇にあったとしても、他人が幸せなら、自分も幸せになれるからである。

こんな幸福なら、それはそれこそが、最強なのではないだろうか?


(2025年7月13日)


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