中東情勢に振り回されるだけでは辛いので、Thinking5.5にこの状況を短編にしてもらう。
東都クリエイティブテクノロジーの朝は、ホルムズ海峡の閉鎖による影響を受け慌ただしい。社員が出社して最初に開いた社内ポータルには、ナフサ供給不安に伴い、インキ調達、包材仕様変更、食品メーカー各社対応、納期影響、不可抗力、価格改定、社内印刷抑制に関する確認事項が並んでいた。
法務部の弓削遥人は、席に着くなり、画面の文字をしばらく見ていた。
サクミノフーズは、スナック菓子のパッケージを白黒にする。
ロッソヴェルデは、サルサソースの包材に描かれた赤いトマトの数を減らす。
マリーナは、乾麺を一食分ずつ束ねる帯から、茹で時間の印字を外す。
消費者から見れば、少し奇妙で、少し寂しく、そして分かりやすい変化だった。
けれど、東都クリエイティブテクノロジーの中では、それはただの見た目の話ではない。
色を減らすということは、版を変えることで、版を変えるということは、仕様書も変わるのだ。
そして、仕様書を変えるということは、承認、契約、責任、費用、納期、在庫、表示、取引先説明も一気に動くのだ。
法務部長の荒川が立った。
「今日は包装関係の確認がかなり増えます。営業、調達、生産管理、広報、IRから順に来ています。弓削くんは、食品メーカー向けの仕様変更と不可抗力条項を中心に見てください」
「承知しました」
遥人は答えた。
荒川は、少しだけ声を低くした。
「日経平均も下落していますが、わが社の株もかなり売られています。連想売りと懸念売りが重なっている。社外向け文書の表現は、特に注意してください」
「はい」
遥人は最初の契約書を開いた。
そこには、カラー印刷前提の仕様書が添付されていた。
赤、黄、緑、青。
食品棚で目立つための、当然のような色の群れ。
コメント欄には、営業からの短い依頼があった。
インキ調達不安により、顧客からモノクロまたは減色版への切替相談。
現行契約上、当社判断で仕様変更できるか。
納期遅延時、不可抗力扱い可能か。
遥人は、画面を見ながら息を吐いた。こういう時、言葉は急に細くなる。
契約書に「不可抗力」と書いてあっても、世界で起きるすべての不安を受け止められるわけではない。原材料が高騰した。調達が不安定になった。代替資材があるかもしれない。けれど安全性確認が必要で、顧客承認も必要だ。
それらを一言で免責にすることはできない。
遥人は赤字を入れた。
ナフサ由来原材料の調達不安が不可抗力に該当するかは、契約文言、代替調達可能性、影響範囲、予見可能性により個別判断が必要です。対外的には「不可抗力」と断定せず、「原材料調達の不安定化に伴い、仕様・納期について協議が必要となる可能性がある」とする表現を推奨します。
打ち終えて、少し画面を見ると、乾いた文章だった。だが、乾いていることに意味があると思った。
現場が焦っている時ほど、法務の文章は水をかけすぎても、油を注いでもいけない。燃えている場所の周囲に、線を引く必要がある。
そのころ、総務部も別の意味で燃えていた。仲川千比呂は、会議室予約表を見ながら、ほとんど反射でマウスを動かしていた。
役員会議室。
第七会議室。
小会議室B。
オンライン併用。
広報・IR合同。
調達緊急。
包材対策。
社内通知文面確認。
カラー印刷停止運用。
池田が横から言う。
「仲川さん、第六会議室、十五時から空く?」
「十五時から十五時半だけです。その後、調達です」
「十五分でもいいから押さえて」
「十五分で会議できますか」
「できないけど、押さえないと始まらない」
「それはそうですね」
千比呂は予約を入れた。総務という部署は、こういう時、会社の神経のようになる。誰がどの部屋に入り、どの資料を見て、どの時間に誰へ伝えるか。小さな段取りを停滞させると、危機対応全体が止まるのだ。
氷川総務部長が、ファイルを手に立った。
「仲川さん、これを法務部へ。社内通知の案です。弓削さんに見てもらってください」
「はい」
ファイルの表紙には、こう書かれていた。
ナフサ供給不安に伴う社内印刷物削減およびカラー印刷抑制について
千比呂は、ファイルを胸に抱え、法務部へ向かった。廊下のモニターには、経済ニュースが流れていた。画面の下に、東都クリエイティブテクノロジーホールディングスの株価が大きく下落していると出ている。
千比呂は、それを見て少しだけ足を止めた。会社の名前が、赤い数字と一緒に流れる。持株会で株を持っている事もあり、意外に堪えるものがある。そして自分が毎日通う会社の名前が、市場の不安の中で売られているのだ。それは、自分の足元の床が少し揺れるような感覚だった。
法務部に着くと、遥人は席で画面に集中していた。
「弓削さん」
「はい」
遥人が顔を上げる。
「総務からです。社内通知案の確認をお願いします」
「ありがとうございます」
千比呂はファイルを渡しながら「会議室が足りなくて」と、少しつかれた表情だ。
それを聞き、遥人は「条文も足りません」と答える。千比呂は一瞬、きょとんとした。
「条文も足りないんですか」
「はい。世界が、契約書の想定より少し複雑です」
「それは困りますね」
「かなり困ります」
二人は顔を見合わせて笑った。しかし、笑っていられる状況でもないのだ。遥人は通知案を開いた。
社員各位
中東情勢の緊迫化に伴うナフサ由来原材料の供給不安により、印刷用インキその他資材の調達が不安定化しています。つきましては、社内印刷物の削減、カラー印刷の抑制、会議資料の原則電子化を徹底してください。
遥人は、丁寧に読み進める。
「大きな方向は問題ありません。ただ、この『印刷用インキその他資材の調達が不安定化しています』は、少し広すぎます」
「広すぎますか」
「はい。全社的にすべてのインキが足りないように読めます。実際には、用途、色、原材料、仕入れ先によって違うはずです」
「では、どう書けば」
遥人は少し考えた。
「『一部印刷資材について調達不安が生じているため』くらいに。断定を避けつつ、必要な協力を求める形がいいと思います」
千比呂はメモを取った。
「はい」
「それと、『カラー印刷の禁止』ではなく『原則抑制』にしてください。法定表示、顧客提出資料、役員会議資料、緊急性のある営業資料は例外が必要です」
「分かりました」
「弓削さん、色が贅沢なものになるとは思いませんでした。寂しいです」
「そうですね、全部無くなると寒々とします」
午後になると、社内の動きはさらに速くなった。広報は、外部からの問い合わせ想定問答を作っていた。
「サクミノフーズの白黒化に東都クリエイティブテクノロジーは関係しているのか」
「食品包装への影響はどの程度か」
「インキ不足で供給停止は起きるのか」
「東都クリエイティブテクノロジーの業績影響は」
「株価下落へのコメントは」
IRは、投資家向けの応答を整えた。営業は、顧客への説明文案を法務に投げていた。調達は、代替インキ、溶剤、樹脂、フィルム、接着剤の状況を表にしていた。
遥人の画面には、赤い文字が増えていく。
「供給に問題はありません」→ 範囲を限定してください。
「通常どおり対応可能です」→ 現時点で確認済みの案件に限定してください。
「不可抗力により免責されます」→ 断定不可。契約別判断。
「顧客都合による仕様変更」→ 顧客都合とは限らない。相互協議。
隣の疋田が、画面を覗いて言った。
「弓削くん、さすがにこの状況だと赤文字がビシバシ入るね」
「今日は言葉が曖昧だと、後でかなり危ないので」
疋田が画面をもう一度確認してうなずいた。
「これで良いでしょう」
夕方、総務と法務と広報と調達の小さな合同会議が開かれた。しかし会議室が足りず、普段は来客待機に使う小さなスペースである。
小野寺広報担当が言った。
「社外向けには、過度な不安を出さない。ただし、食品メーカー各社が既に具体的対応を出しているので、影響を完全否定するのも不自然です」
調達の男性が続ける。
「ナフサ由来の溶剤、樹脂、インキ原料、一部フィルムで調達リードタイムが伸びています。代替はありますが、食品包装は安全性確認と顧客承認が必要です」
氷川総務部長が言う。
「社内は、カラー印刷抑制、紙資料削減、会議資料電子化を今日中に通知します。例外ルートは明記します」
荒川法務部長が遥人を見る。
「弓削くん、文面は?」
遥人は画面を開いた。
「通知の最後に、一文入れています」
全員が画面を見る。
色を減らすことは、品質を下げることではなく、供給を続けるための一時的な措置です。必要な情報を保ちつつ、資材使用量を抑える運用にご協力ください。
少しだけ沈黙があった。
小野寺が言った。
「いいですね。広報的にも分かりやすい」
氷川がうなずく。
「総務通知に入れましょう」
千比呂は、隣で黙ってその一文を見ていた。
色を減らすことは、品質を下げることではない。
今日、何度も聞いたニュースの見え方が、少し変わった。
白黒になるスナック菓子の袋。赤いトマトの数が減るサルサソース。茹で時間の表示が消える乾麺の帯。それらは、ただ貧しくなるのではなく、商品を止めないために、色や情報を少し削るのだ。それでも、見慣れたものが変わっていく事は寂しいとも思う。
会議が終わり、廊下に出ると、千比呂は遥人の横に並んで言う。
「弓削さん、あの一文、よかったです」
遥人は一瞬、考えるような顔をした。
「少し情緒が入りすぎたかもしれません」
この1日の対応では済まず、状況は刻一刻と変わっていくのだ。しかしそれでも。
「今日は、少し入っていたほうがいいと思いますよ」
遥人は千比呂を見た。
千比呂の目は鳶色だった。今日の社内で見たどの画面よりも、色があると思った。
「ありがとうございます」
その夜、東都クリエイティブテクノロジーの社内通知が流れ、社員たちは画面上でそれを読んだ。印刷するな、と書かれているので、誰も印刷しなかった。
広報部では小野寺が外部向け想定問答を整え、IRは投資家向けの文言を調整し、調達は代替資材の表を更新し、総務は翌日の会議室をさらに組み替えた。法務部では、遥人が最後の契約書に赤字を入れていた。
仕様変更の前提条件を明確化してください。顧客承認取得前の製造切替は避けてください。納期影響については、判明次第、速やかに協議する文言を追加してください。
画面は白と黒だった。赤字だけが、少し目に痛い。
白黒の一日。赤い株価。消えていく包材の色。
それでも、会社の中にはまだいくつか色が残っている。
千比呂の鳶色の目。鳶色の髪。
会議室予約表の赤。広報の黄色い付箋。法務の赤字。
そして、夕方の窓に残った、薄い青。
遥人は最後のコメントを保存した。その日、東都クリエイティブテクノロジーは色を減らしながら、止まらないための仕事をしていた。
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