白いスニーカー
白いものを身に着けるのは、とても勇気がいる。
白いスカートやパンツはつい最近まで履いたことがなかった。知らぬ間に汚すのではないか心配で、選択肢に入ったことがただの一度もなかった。
ブラウスも不安で、食事のシミをつけるかもしれないし、一度ついたら落とすのも容易ではないし、汚れが目立つという理由で白い服はあまり着ない。
同様に、スニーカーも白は選びづらい。
服以上に汚れる可能性が高いからだ。
白いスニーカーは、それだけでもう特別な存在だ。
その白さに価値がある。
白さの意味が喚起するもの。
それを纏うこと。
全部が特別だ。
故に選びにくい。
私のような捻くれた人間が身に着けるには正しすぎる。
ちょっと話は変わるけど。
推理小説が大好きではあるし、どんでん返しやら伏線回収やら、カタルシスを存分に味わいたいと思ってはいるが、名探偵が一刀両断に解決する手法があまり好きではなくなってきた。
金田一耕助、神津恭介、御手洗潔、ホームズ、ポワロ、ミスマープル等々愛すべき名探偵の枚挙にいとまはないが、ともかく名探偵が現れて、もしくは偶然現場に居合わせて事件を解決する、それが単純に面白い時期もあった。が、ご都合主義のことも多い。それに、名探偵はだいたいエキセントリックすぎる。その大時代的な設定自体をだんだん楽しめなくなってきた。
最近は、警察小説、犯罪小説などのリアル寄りな話のほうが好みだ。と言うと、きっと警察関係の方は鼻白むことだろう。「何がリアルだ」と。医療者が医療ドラマを冷めた目で見るのと同じように。
でも、名探偵がひらめきや、読者の知らない情報によって華麗に事件を解決するよりは、刑事が愚直に真相に迫っていくほうがリアルというものである。大門未知子より財前五郎のほうがリアルなのと同じように。
なんという長い前置きだ。
で、いま読み始めたのが、高村薫の「レディ・ジョーカー」
1997年刊行というから、もう30年来の宿題を手にしている気持ちだ。
高村薫は、その名前だけで作品を信頼できる数少ない作家のひとりだが、「照柿」があまりに重すぎたため、次に刊行された「神の火」は斜め読み、「レディ・ジョーカー」は厚みを見ただけで慄いてしまい手を出せずに今日まで来た。
ピアノを始めてからずっと、性根を据えて対峙するような本を読んでいない。本に割く時間が少なくなったせいでもあり、ただ単に体力がなくなったせいでもある。圧の強い本は頭の容量も食うので、余計手に取りにくい。
なのに、いまなぜ「レディ・ジョーカー」なのか。
なんとなく人生の後悔を少しずつ減らしておきたい、みたいな気持ちがあって、ピアノや英会話を始めたのもそうだし、家族から卒業したいというのもそうだし、追われているわけではないがそんな気持ちが最近加速している。
で、次に読む本を探していたとき、高村薫の未読は潰しておきたい、と思ったのだ。
警察小説に出てくる刑事にもいろいろなタイプがある。名探偵型もあれば、限りなくリアルに近い人もいる。高村薫の描く本主人公、合田刑事はそんな数多いる刑事の中で一番のお気に入りといっても過言ではない。
加賀恭一郎も姫川玲子も好きだが、合田雄一郎が頭一つ抜けている。
その彼がいつも履いているのが真っ白なスニーカー(やっとたどり着いた)
スーツを着て、白いスニーカーを履いている。
毎日家に帰ると必ずスニーカーを洗う。
その描写がとてもいい。
イチローがどんなに疲れていても試合後シューズとグラブの手入れを怠らなかったように、合田も丁寧にスニーカーを洗う。
白いスニーカーも、スニーカーを毎日洗うことも、合田刑事をよく表している。
合田刑事がスニーカーを洗うのは、彼が毎日のように塗れている事件や暴力という汚れを落とすためだ。
汚れを落として、その日にあった何もかもをリセットする。
白いものを白く保つ意味、価値。
汚れを残さない潔癖さ。
汚れを許さない正義感。
合田刑事に会うと、いつも白いスニーカーの特別さを思う。
