なぜ山に登るのか
山岳小説が好きだ。
きっかけは、ちょっと山岳小説とは言い難いが新田次郎の「聖職の碑」で、そこから「孤高の人」「凍」「単独行」「八甲田山死の彷徨」「空へ」「デスゾーン」「太陽のかけら」等々といったぐあいに読んできた。
山岳小説に書かれる登山家の様子は、登山というより求道のようだ。
「なぜ山に登るのか、そこに山があるから」という有名なマロリーの言葉があるが、なんとなく試されに行っているのかな、と考えたことがある。登頂することを「征服」と言ったりするけれど、その資格があるのか山に試され、なぜ山に登るのかを山に問われている、山にそう問われたいから山に登るのではないか、問うてくれる山があるから、という意味ではないか、と山岳小説を読みながら思った。
最近読んだ「バリ山行」は正確には山岳小説とは言えないかもしれない。
これまで読んできたヒマラヤやアルプスの登山とは異なり、標高がそれほど高くはない近山の、道なき道=バリエーションルートを進む世界。
どちらがより大変ということはなく、ヒマラヤ級の山とは別の厳しさがある。整備された登山道ではない、地図にも載っていないような谷や尾根や藪を地図とコンパスを頼りに進む――それはむき出しの山との対話そのものだった。対話というより激論か。
8000メートル級の山を行くときの、ある種崇高な精神世界を磨く修行のような登山ではなく、山との真っ向勝負だ。
どちらにも同じような命の危険があるのだけど、近山のバリエーションルートは山に問われている感じが薄い。試されてはいるかもしれないけど、山の教えを拝受するような謙虚さより、こちらから議論を吹っ掛け、決して言い負かされまいとする生々しいやり取りがある。
その生々しさゆえに、なぜ山に登るのか、という問いが悠長な禅問答のようにも感じられる。
それにしても。
まさに山との格闘のような「バリ山行」を読みながら一番心惹かれた描写は、山で食べるカップラーメンと、曳きたてのコーヒーを飲む場面。
私は神経質なので沢の水をそのまま汲んで沸かして飲むのは無理だが、誰もいない山の中で、コーヒー豆をガリガリと曳いて淹れたコーヒーは美味しいだろうな、と想像するだけでもう馥郁とした香りが立ちそうだ。
何千メートルもの高所登山でも、垂直の絶壁に吊るしたハンモックに横たわり、胸の上でお湯を沸かして紅茶を飲む、みたいな描写があったので、極限状態では温かいものを飲むのが本当に大事なんだな。日常生活と同じで。
私は体力がないので散歩がせいぜいで、登山も山歩きもハイキングも無理だけれど、澄んだ山の空気の中で飲むコーヒーはさぞ美味しいだろうと、それだけの理由で山に行ってみたい。
そこにはもちろん山との対話も何もないけど、「なぜ山に登るのか、それはコーヒーが美味しいから」それでいいじゃん、って。
