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理屈を捨て、靴を濡らすこと ー変わりゆく世界を生き抜くための「生存戦略」


蛇口の向こう側の世界を、私たちは想像できるか

雨が降り、山に浸み込んだ水が、沢になり、川になり、やがて海へと注ぐ。その道筋を、自らの足で辿ったことがある人は、水が単なる「資源」ではなく、自分の身体を通り抜けていく何かであることを知っている。しかし都市に暮らす私たちの多くは、蛇口をひねれば水が出る世界に生きていて、その水がどの山から来て、どの土を潤し、どんな生き物と関わってきたかを、もはや感じ取ることができない。

この感覚の喪失は、単に「便利になった代償」などという生易しいものではない。それは、私たちが世界と関わり、自らの力で生き抜くための実践的な能力を、システムによって根こそぎ奪われているということだ。

「流域」という概念は、私たちが何を失ってしまったのかを明確に浮き彫りにし、再びそれを取り戻すための思想的装置として、いま私たちの目の前に突きつけられた問いである。

「受け取るだけの存在」へ

人間は本来、環境を外側から管理する存在ではない。環境の一部として「住まいながら」世界を知覚し、ともに形成していく存在だ。日本の里山・里海は、田を耕し、山に入って木を切り、目に見えない菌と対話しながら発酵を促すといった居住の実践の積み重ねによって生まれた。これらは人間が生態系の「参与者」であることを前提とした生の形式であり、生き抜くために不可欠な技法でもあった。

しかし、工業化と都市化が進む中で、この実践は解体された。水道、電力、食料流通というブラックボックス化したインフラが生命維持を代替し、植物や生き物との互恵的な関係が失われたとき、人間はただシステムから「受け取るだけの存在」に成り下がってしまった。

崩れゆく足場

問題は、私たちが無自覚に依存しきっているこの「システム」が、いま静かに、しかし確実に寿命を迎えようとしていることだ。気候変動はすでに後戻りできない境界線を越え、私たちが前提としてきた「計算可能な自然」は失われつつある。そして日本の足元に目を向ければ、人口は縮み、これまで当たり前のように私たちの命を支えてきた水道管や道路といった物理インフラすら、維持できない未来がすぐそこまで迫っている。

永遠に続くと思われた「便利で均一なシステム」は、一時の幻だったのだ。もはや、システムから「受け取るだけの存在」でい続けることは、無防備な生存リスクに他ならない。いま私たちが直面しているのは、自分が何によって生かされているかを知らないまま、立っている足場の土がポロポロと崩れ落ちていくような、逃げ場のない現実である。

リジェネラティブという生存戦略

この足場の崩壊は、私たちの「暮らし」だけでなく、「ビジネス」の前提をも根底から覆す。ローカルで事業を営む者も、大企業の新規事業を担う者も、この現実から目を逸らすことはできない。これまで多くのビジネスは、自然や地域社会を「無尽蔵の資源」とみなし、そこから収奪することで成立してきた。しかし、気候が牙を剥き、森が病み、地域から人が消えゆく中で、その前提は完全に破綻した。大地という器が割れてしまえば、その上でいかなる事業戦略を描こうとも、すべてはこぼれ落ちていく。

いま求められているのは、事業を営むことそのものが、環境や社会を再生していく「リジェネラティブ」な実践への転換だ。しかし、現場を知らないまま策定されたESG戦略や、体裁を取り繕っただけの環境配慮は、すぐにメッキが剥がれる。森の匂いを知らず、川の流れを見ず、土の手ざわりを持たない人に、真のリジェネラティブな事業などつくれない。

現場に足を運び、自らの手で土に触れ、生態系のメカニズムを身体で理解する。それこそが、これからの時代において、真に価値を創造するための唯一の基盤となるだろう。

まず靴を濡らすことから

では、何から始められるか。
流域を単位とした小さな実践―雨水の行方を辿る散歩、地元の水源地を訪ねること、地域の農家と田畑の話をすること―は、知識の習得ではなく感覚の回復である。コモンズ研究の第一人者であるオストロムが示したように、コモンズの持続的管理は、精緻な制度設計の以前に、資源と自分の関係を「自分ごと」として感じる能力に依存している。 流域を歩くことは、その感覚を取り戻す最も直接的な行為だ。頭で理屈をこねる前に、まず自らの靴を濡らすことから始めてみてほしい。

「変わりゆく世界を、生き抜くために」

これこそが、9月から「Local Regen School」を開講する最大の理由であり、コアメッセージだ。このスクールは、単に自然の尊さを学ぶための場ではない。限界を迎えつつあるシステムへの全面依存から脱却し、自らの手を動かして世界と関わる「身体性を伴う実践」を取り戻すための場であり、それらはまさに生存戦略そのものである。

Human・Landscape・Systemの「フラクタルな回復」

Local Regen Schoolがカリキュラムの核として定義したのは、「Human」「Landscape」「System」という3つの視点を通した人間性の回復である。

https://localregenschool.com/

これらは単なる「小・中・大」のスケール論ではなく、全く同じ「循環と代謝」の論理で動く「フラクタル(自己相似的)」な構造を持っている。

「Human(個人)」の中には、雨の匂いや土の乾きを肌で感じ取る力(感性)があり、実際に落ち葉を集め、土に触れ、石を積むような身体的アクション(介入)があり、よく食べよく眠り、健やかに命を維持していく日々のリズム(個人の代謝系)がある。

「Landscape(現場)」の中には、ともに汗を流し、同じ風景のヴィジョンを共有する仲間同士の信頼関係(文化)があり、荒れた森に光を入れ、多様な生命が息づく環境を協働して作り上げるプロジェクト(実践)があり、活動の資金やナレッジを滞りなく回していくための意思決定のルール(組織の代謝系)がある。

「System(社会)」の中にも、自分たちの水やエネルギーは自分たちの手で管理するという自治の精神(主権)があり、行政区画を超えたバイオリージョン単位で森や産業を丸ごと再生していくダイナミックな動き(広域事業)があり、地域内に富や資源を持続的に巡らせるための新しい経済の仕組み(社会の代謝系)がある。

個人の生活リズムの滞り(個人の代謝不全)は、やがて森の手入れ不足や事業の停滞(組織の代謝不全)を生み、結果として流域全体の社会基盤の崩壊(社会の代謝不全)へと波及する。逆もまた然りだ。ビジネスであれ個人の暮らしであれ、この連動する構造のどこか一箇所で「代謝」を回し始めれば、それは必ず全体へと回復の波紋を広げていく。

人間もまた、生命の「通り道」である

雨が降り、山に浸み込んだ水が、沢になり、川になり、やがて海へと注ぐ。この途切れることのない循環は、私たちの身体をも通り抜けている。人間もまた、流域という大きな生命のシステムを構成する、一つの「通り道」にほかならない。AIや気候変動が加速し、システムが限界を迎えるこの時代に「人間性」を問うとは、このフラクタルな連続性の感覚を、再び生の中心に置くことを意味する。

生命が固定された実体ではなく、絶え間ない流れであるとするならば、その流れの一部として、自らの手で代謝を回し続けることこそが、変わりゆく世界を生き抜く唯一の方向だ。

☑︎林業や漁業といった専門分野に閉じず、森・川・海・人・ビジネスの関係を横断的に理解し、動ける力を身につけたい人。
☑︎企業の中にリジェネラティブな視点を実装し、本質的な価値創出を目指す人。
☑︎自分の地域で小さなところから「自分発・地球規模」のプロジェクトを立ち上げたい人。
☑︎現場で対話し、手を動かしながら学ぶことに価値を感じるすべての人へ。

Local Regen Schoolで学び、フィールドに出よう。
ともに生き抜くための仲間を待っている。

<説明会情報>
5/20(水)20:00-21:00
5/25(月)20:00-21:00
5/31(日)20:00-21:30 (坂田昌子さんと林篤志のトークセッション付き)
6/8 (月) 20:00-21:00
説明会参加フォーム


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