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ドラマを「逆2倍速視聴」する、という提案

どうする家康を2年半かかって完走した

大河ドラマ『べらぼう』の最終回に沸く世の中だが、わが家は2023年の大河ドラマ『どうする家康』を、先日やっと見終えたところだ。録画を見始めた2023年春から足掛け2年半以上、ようやく最終回を迎えることができて感慨深い。もはや視聴というより共に生きたと言ってもいいかもしれない。 

誤解してほしくないのだが、視聴に時間がかかったのは決して面白くなかったからではない。個性ゆたかな家臣団たちの絆も、家康の成長も、戦の駆け引きもすべて全力で楽しめたし、本編以外にも静岡出張ついでに聖地巡礼をしたり『歴史探偵』や『英雄たちの選択』のような関連番組をみたりと寄り道も存分に味わった。ここまで大河にハマれたのは2012年の『平清盛』以来17年ぶりだ。

久々に連ドラを見てみてわかったのが、大量のエネルギーを込めて作られた制作物は観る方にもエネルギーを要求するということ。だから仕事で疲れて帰ってくると、ついつい気軽なYouTubeのほうに流されてしまう。なぜ働いているとドラマが見れないのか? むしろ普通の人は本は読めないけどドラマは見れるのだろうか? という感覚である。

ともあれふだんドラマをあまり見ないわが家にとって、毎週同じものを集中して見続けるのはフルマラソンのように負荷のかかる作業であった。関ヶ原あたりでときに休憩を挟みながら、じっくりと時間をかけて楽しむことにした。

通常の2倍以上、時間をかけて良かったことのひとつに、劇中の登場人物と同じような時間感覚が体感できたことがある。大河ドラマは主人公の一生を一年かけて追う物語だから、劇中では約50~80年もの時間が経過する。当然登場人物も年をとる。最終回近くなって初期を回想するシーンなどは、彼らにとっては記憶の彼方にある、はるか遠い昔のこと。

たとえば最終回直前、茶々・江・初の3姉妹が亡くなった母・お市(北川景子)のことを回想する場面がある。物語のキーパーソンであるお市の方の最期のシーン。彼女たちは雪の中で見送ったあの瞬間を、静かに、懐かしむように語っていた。我々も曖昧な記憶を頼りに思い出す。

お市の方の最期は、本能寺だったか・・・?
いや違う、嫁いだ先の旦那と一緒に・・・
あれは雪の日だったような・・・?
嫁いだのは浅井だったか・・・
いや朝倉かも・・・?
福井県か滋賀県のようなとこで・・・
嫁いだ先の家を信長が攻めて・・・
そう、信長に滅ぼされたんだったと思う・・・
いや、やっぱり秀吉だったかも・・・?

と、いかんせん見たのが2年以上も前のことなのでなかなか思い出せない。4〜50年の時が経った登場人物たちと同じように、昔を「懐かしむ」回路が開かれたのは、2年半もの時間をかけて見たからできる不思議な体験であった。

ちなみにに答えは公式ガイドを読んで分かったが、「浅井のところに嫁ぐものの浅井は信長に滅ぼされ、柴田と再婚…柴田が秀吉に攻められて自害」らしい。なんともややこしい!

このお方がお市の方、ではなく茶々。一人二役。
(NHK大河ドラマ・公式ガイド完結編より)


アップデート原理主義にはランダムアクセスで抗おう

SNSが普及した今はマイペースで生きるのが難しい時代だ。急速に流れるタイムラインは個人に最適化するアルゴリズムを味方につけ、コンテンツが消費されるスピードは日に日に速さを増している。倍速視聴、要約動画、ファスト映画、考察ブーム……他人にうまく語れるような結論へといかに素早く辿り着くかが価値基準となった世の中では、旬の話題にリアルタイムで居合わせなきゃいけない強迫観念が強い。

そしてその背景には、コロナ禍以降の「アップデート原理主義」とでも呼びたくなるような人々の意識があるように思う。常に最新のものを追いかけ、古いものは過去の遺物として切り捨てる。より新しく、より速く、より合理的に。意識を高く持つ。そんな価値観がいつの間にか日常の奥深くにまで入り込んでしまっている気がする。

もちろんジェンダー意識や労働観など、絶対に更新した方がいい価値観はある。僕自身リモート化やAIの発展にはめちゃくちゃ恩恵を受けている方だ。けれど好きなものや趣味に対しても、アンテナを張って絶え間なく変化を求められる時代はしんどい。

ドラマを通常の二倍の期間をかけてじっくりみる「逆2倍速視聴」のように、たまには世間ではなく、自分の時間感覚で僕らはもっと生きても良いのではないだろうか? 効率的ではないし、話題に追いつくこともできないけれど、情報の洪水から距離をとって自分の好きなものにちゃんと向き合えたら、それだけでもう十分すぎる価値がある。


ダフト・パンクには2020年代が見えていた?

フランスのエレクトロ・デュオ、ダフト・パンクが2013年に出したアルバム『ランダム・アクセス・メモリーズ』に息づく考え方がとても好きだ。

古今東西の音楽にフラットにアクセスできるYoutube時代。だからこそ過去の音楽や機材を自由に行き来しながら、自分たちなりの今を作るというメッセージに衝撃を受けた。実際に60~70年代の録音技術やアナログ機材を駆使して、往年の名手とコラボしながら生演奏にこだわって作られた楽曲たちは、最先端でありながらどこか暖かく懐かしい。ずっと未来を表現してると思っていたダフトがこういうかたちで時間を捉えているのがわかって素敵だなと思った記憶がある。

そして2020年代に入り、シティポップやシューゲイザーといった「過去の遺物」と言われていたジャンルが若い人の手で発掘・復興されたり、記憶に新しいところだとインドネシアに端を発するハルカリの20年越しのヒットがあったりと、彼らがかつて予見していた未来を感じさせる出来事が次々と起こっている。

宇多田ヒカルさんの「その人が初めて聞いた時が新譜」という発言や、星野源さんが最新アルバムで「5年前に弾いた音と2025年現在の音を小節ごとに切り替えて使っている」という話も関連があるだろうか。ここに来て同時多発的に発生している事象の数々が、僕には「時代を超えて自分にフィットするものを見つける」ランダムアクセス時代の到来を証明しているように思えてならない。

アップデート原理主義が「一直線の時間」を信じているとすれば、ランダムアクセス思考は「円環の時間」を教義とする。好きな過去を今の気分で呼び出して未来に繋げていく。そんな時を飛び越える自由がある。

2020年代も半ばになって、急速なアップデートのゆり戻しとして政治の世界ではバックラッシュが起こっているけれど、過去に戻りたいと思う懐古志向ではなく、古今東西あらゆるものから本当に好きなものを好きと言えて、過去と現在と未来をいつでも行き来できるような思考が取れれば良いのかなとずっと思っている。

2020年にアップデートとランダムアクセスの対比を
思いついた時のメモ。字の汚さがやばい。


流行に遅れても物語には間に合う

『どうする家康』最終回の予告では、松山ケンイチ演じる本多正信が「とうとう終わるんですな……乱世が」と感慨深く呟いた。乱世が終わり、家康の命も終わり、そして我が家の長かった宿題も終わる……。

徳川が戦っている相手は、もはや豊臣ではなく時代であるように思えた。ブレずに掲げ続けた「厭離穢土 欣求浄土」のスローガンは、天下統一ではなく乱世を「終わらせること」を人生の目的としていた家康の視座の高さの表れである。視聴者の我々までもが、乱世を必ず終わらせる!という気持ちになった。

2023年春に見に行った駿府城公園の家康像。

ネタバレになるが最終回、家康はあの世で亡くなった妻や家臣たちに囲まれながら静かに旅を終える。江戸での天下統一を経て舞台が出発点である三河に戻っていく構図は、人生もまた直線ではなく円環であることを思わせた。じっくり時間をかけて付き合った作品だからこそ、物語の終わり方にも気持ちが入る。大河ドラマの良さって一年間じっくりかけて壮大な物語を噛み締めることにあるが、それを逆2倍速視聴がさらに強めてくれたように思う。いや〜本当に長かった。完走できて良かった。


ひとつだけ寂しいことがあるとすれば、感想を誰かと語りたい気持ちがあるのに2025年末のいま『ど家』の話をしている人は誰もいないことだ。リアルな周囲にはもちろん、ネットを探しても語り合える場はあまり見当たらない。

それでもリアルタイムで見ていたら、他人の「正しい」評価に影響されて感想を決めてしまっていただろう。最近だとガンダム・ジークアクスや秒速5センチメートル、大阪万博に選挙の結果もそうだろうか。自分が体験したコンテンツでも思い当たるものが多すぎる。評判を見て簡単に手のひらを返してしまうことが問題なのだ。

人より遅くても、話題に居合わせなくても、大事なのは自分の速度で出会ったかどうか、なのだと思う。時間軸を他人とずらすことで、そのぶん対象と自分勝手に深く向き合う時間が生まれる。だから忙しい人にほんとうに勧めたい視聴法は、倍速視聴することではなく、倍の時間をかけて見ることだ。できるだけタイムリーであることに抗いたい。流行や新しさに逃げないで、そのものに眠る良さを見つけられる人を尊敬する。次は3年ぐらいかけて、何かの大河を見たいと思います。

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