第五十回 單珪覆沒蛇盤谷 懷德被困鐵籠原
第五十回 単珪、蛇盤谷に覆没し、懐徳、鉄籠原に困しむ。
詩に曰く:
兵書は久しく手に取らぬ日もあったが、
征戦の場は幾度となくくぐってきた。
平雲は陣の色のようにたなびき、
半月は城郭の形にも似ている。
対岸の流砂は白く光り、
河沿いの柳は青々と茂る。
若き日は侠客として諸国を巡り、
客を結び、身命を軽んじて生きてきた。
――右、王褒《従軍詞》より。
さて、周世宗は、趙匡胤が谷に閉じ込められていることを思い、胸を痛め続けていた。
あれこれ策を巡らせても救い出す方法が見つからない。
そこで、地の裏道や抜け道に通じた者を募るため、皇榜(告知板)を出し、間道から兵を入れて救出しようと考えた。
その夜、世宗は憂いのあまり眠ることもできず、諸営を巡視していた。
すると営の後方から、遠くかすかに歌声が聞こえてくる。
耳を澄ますと、夜はすでに更け、人の気配もなく、言葉は冴え、声は澄みきっている。
まさしく青雲を衝く志を秘め、陽春白雪の気品を帯びた歌であった。
歌はこうである。
天地は翻り変わろうとも、我が志は揺るがぬ。
干戈が乱れ世が騒ごうとも、我が策は道を平らげる。
明珠は匣に収められていても、なお光を放つ。
良士は山に隠れていても、功を施す機会を待つ。
ああ、もはや多くは語るまい。
これを識る者は、はたしてどれほどいるのか。
世宗はこれを聞き終えると、心の中で思った。
「この者、ただ者ではあるまい。ぜひとも訪ねねばならぬ。」
翌日、密かに人を遣わして探させた。
ほどなくして、ひとりの壮士が営に入ってきた。
礼を終えると、世宗は姓名を尋ねる。
壮士は答えた。
「小人は史魁、字は彦升。史建瑭の子でございます。」
世宗は言った。
「なるほど、名将の後裔であったか。昨夜の清らかな吟詠は、そなたの作か。」
史魁は答えた。
「流浪の身として江湖をさまよい、力を尽くして糊口をしのいでおりました。
以前、絳州で身を隠していた折、偶然、単令公(単珪)に招かれて従軍しましたが、用いられることもなく、感慨あって胸中を詠んだまでにございます。」
世宗は史魁を後帳に招き、酒食を設けて語りかけた。
「これほどの胸懐を持ちながら、なぜ人の下に鬱々と埋もれているのだ。
自ら栄達を図ろうとは思わぬのか。」
史魁は言った。
「知己に巡り合わねば、どうして栄誉を望めましょう。
小人には、ただ待つべき時があるだけでございます。」
世宗はうなずき、こう言った。
「良禽は木を選んで棲み、賢臣は主を選んで仕えるという。
朕が何より心を砕いてきたのは、賢士を得ることだ。
今、そなたにこれほどの才を見る以上、まことに慕わしく思う。
卑小な官位で屈することになるやもしれぬが、朕のために力を尽くしてはくれぬか。」
史魁は、世宗に真心の用人の意があると見て、機を捉えて進み出た。
「陛下のお言葉、まさに国を思う御心の表れ。小人、実をもって奏さぬわけには参りません。
小人は今、単令公の帳下にある牙将ではありますが、陛下が人材を渇望されていることを慕い、久しく帰順の思いを抱いておりました。
ただ機会がなく、ひとまず身を留めていただけです。
今、単令公が策を用い、趙匡胤将軍を谷中に閉じ込めましたが、小人は匡胤と浅からぬ縁があり、以前から救おうと機会をうかがっておりました。
そこへ陛下の皇榜が出されたので、あの歌をもって様子を探り、陛下に身を投じ、匡胤を救おうとしたのです。」
世宗はこれを聞いて大いに喜び、手厚く遇して言った。
「もし真にその心があるのなら、朕にとってこの上ない幸いだ。だが、どのような策で救うのか。詳しく聞かせてほしい。」
史魁は密かに奏した。
「この策は、必ず内外から呼応せねば成りませぬ。小人はいったん営に戻り、兵を偽って連れ出し、あらかじめ谷中に伏します。
陛下は三日目の夜、火の上がるのを合図に、ただちに兵を率いて討ち入ってください。
小人は谷内から応じ、内外より挟撃すれば、匡胤は必ず脱出できます。」
世宗はこの策を聞き、限りなく喜んだ。
「成功すれば、必ず重く報いよう。」
史魁は世宗に別れを告げ、そのまま自営に帰った。
初日は何事もなかった。
二日目、史魁は単珪のもとへ行き、こう進言した。
「趙匡胤は世に名高い虎将であり、周主が国の安危を託している人物です。ゆえに匡胤が谷に困じていても、周軍は外に堅く陣を張り、ひとえに匡胤一人を守ろうとしております。
双方とも兵を貯えて持久するのは得策ではありません。小将は帳下に投じて以来、まだ矢一本の功も立てておりませぬ。
ここは一隊を率いて谷に入り、糧尽き力衰えたところを突いて、匡胤の首を斬り、軍前に示したい。
彼らは匡胤が死んだと知れば戦意を失い、自然と兵を退くでしょう。この一挙で河東の憂いを解き、将軍も早く凱歌を奏することができ、兵を長く煩わせずに済みます。」
単珪はこの言葉を信じ、兵を与えて史魁を向かわせた。
史魁は営を出ると、腹心の将・劉勇と密かに相談し、世宗に帰順した真意を告げた。
さらに言った。
「明日の夜、営の中で火を放て。私は谷内から斬り出る。外ではすでに周軍が待っている。
匡胤を救い出せば、お前の功も小さくはない。決して間違えるな。」
劉勇はこれを承知した。
史魁は兵を率いて谷口に至り、包囲の兵に会って令公の命を伝えた。
守兵は逆らうこともできず、史魁を谷内へ通し、そのまま持ち場を守った。
史魁が谷に入ると、趙匡胤が岩の上に座り、黙然としているのが見えた。
周囲の兵は千余りに満たず、皆うなだれ、飢えに苦しむ様子である。
史魁は思わず嘆息した。
兵を一か所に集めて陣を敷かせると、史魁は一人で匡胤のもとへ歩み寄り、声をかけた。
「将軍、さぞお困りでしょう。故人の史魁とお分かりになりますか。」
匡胤は谷内に兵が入ってきたのを見て、迎え撃とうと身構えていたが、兵を止めて一人で来るのを見て訝しんだ。
近づいてよく見ると史魁であると分かり、ようやく胸をなで下ろした。
立ち上がって言った。
「恩兄、なぜここへ。もしや匡胤を救いに来てくれたのか。」
二人は並んで岩に腰を下ろした。
史魁はこれまでの経緯と、翌夜に内外から挟撃して谷口を突破する策を、細かく語って聞かせた。
匡胤は大いに喜び、言った。
「以前、五索州で救っていただいた恩に続き、今回もここまで心を尽くしてくださるとは。
この恩、決して忘れぬ。必ず厚く報いよう。」
史魁は言った。
「ささやかな助力に過ぎません。どうして心に留めるほどのことがありましょう。」
匡胤はさらに言った。
「拙者は五千の兵を率いてここに困じ、すでに二十余日。餓死した者も多く、残った兵は馬を殺して食う始末だ。
これほど飢えていては、明日の突撃は難しい。」
史魁は答えた。
「案ずるには及びません。糧米を持ってきております。存分に食べさせましょう。」
そう言って兵に命じ、糧米を取り出させた。
実は史魁が連れてきた兵は、一人一人が身の回りに米を隠し持っていたのである。
その場で米は飢えた兵に渡され、たちまち炊き出しが行われた。
皆、我先にと食らいつき、一度の食事で目に光が戻り、精気が蘇った。
一夜が明け、翌日。
兵たちは再び腹いっぱい食べ、火の合図が上がるのを待って、一斉に動く覚悟を固めたのであった。
やがて三更に近づいたころ、劉勇が北営の中で火を放った。
周軍の諸将はそれを見て、ただちに号砲をいくつも放ち、軍を率いて谷へと殺到した。
谷の内では、匡胤と史魁が外から連なる砲声を聞き、周軍がすでに到着したことを悟った。
二人は兵を率い、声を合わせて奮い立ち、一斉に谷を突き出た。
谷口を守る兵は、瓜を刻むように次々と斬り倒され、勢いは山が崩れるかのごとくであった。
史魁がまさに斬り進んでいると、正面から一将が立ちはだかった。
単守俊である。
「逆賊め、どこへ行くつもりだ」
と罵ったが、史魁は答えず、槍を一振りして馬下に突き落とした。
軍勢を蹴散らし、北営を見やると、火勢はすでに盛んで、北軍は大混乱に陥っていた。
史魁は兵をまとめ、匡胤を守りながら谷口を出たところで、単珪と正面から遭遇した。
単珪は大声で叫んだ。
「逆賊め、よくも我が兵を欺き、敵に味方するか。」
そう言って大刀を振りかざし、正面から斬りかかってきた。
史魁が槍で受けようとした、その瞬間、背後から高懐徳が突進し、一槍を繰り出した。
単珪は不意を突かれ、慌てて刀を引き戻して防ごうとしたが、その横合いから、さらに匡胤が斬りかかってきた。
刀が振り下ろされると、単珪はその場で真っ二つとなった。
守傑は形勢不利と見て、営を捨てて単騎で逃走したが、途中で鄭恩に遭遇した。
馬を交えること三合にも満たず、鄭恩の一刀で斬り落とされた。
劉武と守信は乱軍の中で討ち取られ、守能は人馬ともに炎に包まれて焼け死んだ。
そのほかの兵は、斬られる者、降る者、逃げる者が入り乱れ、一人として残らなかった。
夜が明けてみると、北軍の死体は数十里にわたって横たわり、輜重も数え切れぬほど捨てられていた。
将士を点検すると全員無事であったが、ただ腹心の劉勇だけが戦死しており、史魁はこれを深く嘆いた。
張永徳は兵を収めて営に帰った。
匡胤は世宗のもとへ参上し、帳前にひれ伏して拝した。
世宗は言った。
「二御弟が困じていると聞き、朕は座っても寝ても落ち着かなかった。
もし彦升(史魁)が策を進めてくれなければ、大難に遭っていたであろう。」
匡胤は深く礼を述べ、さらに諸将にも謝意を表した。
諸将は皆、こぞって勝利を祝った。
世宗は史魁の功をもって、左参軍に封じ、そのほかの将士にもそれぞれ厚く賞を与えた。
これより、周軍の軍威はいよいよ振るい、遠近の地はみな驚き恐れた。
丁貴の犄角の兵も、もはや出戦する勇気はなく、ひそかに城中へ退いていった。
世宗は兵を汾水の境に移して営を構え、将士を督して晋陽を重く包囲し、攻撃はいよいよ激しさを増し、昼夜を分かたず続いた。
劉崇は恐怖にかられ、心も胆も砕け、落ち着いて座ることも眠ることもできなかった。
急ぎ群臣を召して議を開き、こう言った。
「単令公は全軍潰滅し、周軍の攻城は日に日に激しさを増している。契丹軍は動かず、音信もない。
このままでは国家は刻一刻と滅亡に近づく。そなたたちに、周軍を退ける策はないのか。」
丁貴が進み出て言った。
「主公、どうか御憂慮なさらぬよう。
河東の地は北は大遼を抑え、西は山後に連なり、城郭は堅固で、なお数万の精鋭が控えております。
周軍がいかに包囲を固めようとも、にわかに落とすことはできませぬ。
さらに山後の応州には、山王金刀・楊令公がおられます。
高祖以来、泰山の重きと頼まれ、今も精兵を率い、勇将を配下に置いて応州に鎮しております。その威名は各地に轟いております。
使者を遣わして救援を求めれば、この人が到着し次第、周軍は必ず破れましょう。」
劉崇はこれに従い、ただちに詔旨を携えた使臣を応州へ遣わし、令公を召した。
さて、その楊令公の名は業、字は継業。
太原の人である。
顔は重棗のように赤く、五筋の長い髯をたくわえ、威厳ある風貌で、体つきも凛としていた。
大柄な刀を操り、陣に臨めば風のようであったため、金刀楊令公と称され、軍中ではまた楊無敵とも呼ばれた。
兵法に通じ、策略に富んだ人物である。
余談。
主役級の強い武将は、だいたい関羽がオマージュされているようで。
一足早く「楊家将」の登場です。
夫人は佘氏といい、兵機に通じ、陣法に熟達し、流星錘を自在に操る。
その勇力は常人の倍にも及び、誰一人近づけぬほどであった。
この夫人はもともと緑林の中で育ち、父の佘志龍は名の知れた豪傑で、山寨の主として各地から支持を集めていた。
楊業が若いころ、父の楊袞の命で親類を訪ねる途中、この山を通りかかった際、佘氏に行く手を阻まれ、通行料を求められた。
双方は戦いとなったが、楊業はただの若者ではなく、佘氏もまた比類なき武芸の持ち主で、長く戦っても勝敗は決しなかった。
佘志龍は楊業の器量を見て大いに気に入り、山に招いて手厚くもてなし、説き勧めて婿として迎えた。
この夫婦はまさに天の配剤で、情も深く、睦まじかった。
楊業はまた、忠義と名分をもって佘志龍を諭し、邪道を捨てて功名を立てるよう勧めた。
佘志龍は剛直な人物であったから、その言葉に心から服し、改心を決意した。
楊業が帰って父に事情を語ると、楊袞は朝廷に願い出て招安を受け、官に封じられて外鎮の大臣となった。
これぞ古来より英雄豪傑が行う、明快で潔い振る舞いである。
補足。
先の「高平の戦い」で、遼朝から援軍としてやってきた楊襄という将軍について、敢えてなにも注釈しなかったのですが、それは、この楊業の父が楊袞とされていたからです。
というのも、史書にある遼朝の将軍こそ、楊袞と言います。「後周の兵勢鋭く容易な相手ではない」と劉崇に忠告したが聞き入れられなかった人です。
『楊家将演義』で楊業の父が楊袞という名になっているのは不明でして、史書にあるのは「楊信」。
なお、遼の楊袞は本名を耶律敵禄と言います。
楊業には七人の子がいた。
長男は延平、次男は延定、三男は延輝、四男は延朗、五男は延徳、六男は延昭、七男は延嗣。
さらに義子の懐亮がいる。
この八人の若君はいずれも弓馬に秀で、武芸抜群で、万夫も当たれぬ勇を備えていた。
また二人の娘がおり、八娘と九妹と呼ばれ、ともに勇敢さでは人に劣らなかった。
そのため当時、山後の楊家軍は最強と称えられていた。
その日、楊業は府中で八人の子らと軍議をしていたところ、薛王(ここでは劉崇のこと)からの召しがあるとの報が入った。
詔を受けた楊業は、牙将の王貴に言った。
「これまで薛王が河東九郡でたびたび敗れ、単珪が全軍を失い、周軍が無敵であることは耳にしている。
今、その薛王から召しがある以上、救援に赴かぬわけにはいくまい。」
王貴は言った。
「公が行かれるなら、私もぜひお供いたします。」
楊業は大いに喜び、その日のうちに三万の精兵を整え、八人の子と王貴を伴って出陣した。
金鎖関に至ると、号砲を放って営を構えた。
この動きはすぐに斥候によって周軍の営にも報告されたのであった。
余談。
「薛王」について軽く調べてみたのですが、不明でした。
北漢3代目皇帝の劉継恩が劉家男子の系譜ではなく、娘婿である薛氏の子であるから、それを指してのことかとも思いましたが、史実でも小説でも楊業と関わり合いが深いとも考えられず、わからないままです。
「開詔救忠」という雑劇の中で、楊業が「以前は劉薛王の配下であり」と申し述べる場面があります。
世宗は諸将を集め、軍議を開いた。
匡胤が進み出て奏した。
「臣は、山後の兵は天下に敵なしと聞いております。今、彼らがすでに対陣してきた以上、どうして恐れて退く理由がありましょう。
臣は諸将と力を合わせ、兵を率いて決戦に臨む所存です。どうか聖慮を煩わせることなく、お任せください。」
世宗はこれを許し、諸将に慎重に備えるよう命じた。
その夜、三更のころ、世宗は軍中で休んでいると、一人の婦人が夢に現れた。
衣はゆったりとして帯も広く、帳中へと入ってくる。
その後ろには二十人余りの女たちが従い、皆、手に木の札を持っていた。
札には雲と虹が描かれ、中央に大きく「水」の字が書かれている。
彼女たちは世宗の前で、その札をただ揺り動かすばかりであった。
婦人は近づいて言った。
「陛下の軍威はすでに盛んで、遠方の者まで皆、畏れ敬っております。
車駕は速やかにお戻りになるのがよろしいでしょう。さもなくば、数万の兵が苦しむことになります。
私はこの地の城隍(土地神)であり、特にお知らせに参りました。どうか御心に留められますよう。」
そう言うと、婦人は姿を消した。
世宗は帳を出て、詳しく問いただそうとしたが、衣に足を取られて転び、その拍子に目を覚ました。
すべては夢であった。
ふと見ると、机の上に一通の簡が残されている。
世宗が起き上がって見ると、そこには墨も乾かぬまま、四句の詩が記されていた。
百戦の功成る第一の機は、
すべて汾水をもって華夷を隔てるにあり。
功を貪って波涛の湧くを知らねば、
数万の雄師、ともに欺かれん。
世宗はこれを読んでも、その意味が分からなかった。
夜が明けると群臣を召して解釈させたが、誰一人として理解できない。
さらに郷民を呼んで尋ねると、その中の一人の老人が言った。
「汾水から十五里ほどのところに、后土夫人の神廟があります。
もしや、その神が霊験を示し、陛下に告げに来られたのではないでしょうか。」
世宗はこれを聞き、匡胤に香燭を持たせて確かめに行かせた。
神廟があれば、すぐに参拝するよう命じた。
匡胤は命を受けて出向き、ほどなく戻って奏した。
「汾水の西南に、確かに后土夫人の廟がございました。すでに香を焚き、参拝してまいりました。」
そう報告している最中、北漢の楊業の軍勢が到着したとの急報が入った。
世宗は諸将を見回し、問いかけた。
「誰か、兵を率いてこれに当たる者はおらぬか。」
匡胤が進み出て言った。
「臣が参ります。」
世宗はこれを許した。
匡胤は精兵一万を率い、鄭恩や高懐徳らとともに、平らな野に陣を敷いた。
両軍が相まみえると、周軍の将兵は、山後の兵の雄壮さが、単珪の軍とは比べものにならぬことに驚き、口々に感嘆した。
三度太鼓が鳴り、砲声が一つ轟くと、主帥の楊業が馬を進めて現れた。
その上座には牙将の王貴、下座には義子の懐亮が控えている。
匡胤は思わず言った。
「山後の兵が最強と称されるのも、まことに虚言ではない。」
その言葉が終わらぬうちに、高懐徳が馬を進めた。
槍を掲げ、陣前に駆け出して叫ぶ。
「誰か、我と勝負する者はおらぬか。」
これを見るや、楊懐亮が馬を躍らせて出てきた。
「俺が相手だ。」
竹節の鋼鞭を振るい、高懐徳と打ち合う。
金鼓は一斉に鳴り響き、喊声が天地を震わせた。
二人は四十合余り戦ったが、勝負はつかなかった。
楊業は馬上からこれを見て、懐徳の勇を称えた。
やがて日が暮れ、両軍はそれぞれ兵を収めた。
楊業は関に戻り、王貴と語った。
「今日の戦いを見るに、周の将はまさしく英雄だ。まずあの者を捕らえる策を立てねばならぬ。他は取るに足らぬ。」
王貴が問うた。
「どのような策で捕らえるおつもりですか。」
楊業は答えた。
「金鎖関から四里ほどのところに、鉄籠原という場所がある。
山には木がなく、四方を険しい峰に囲まれ、伏兵に最適だ。
明日、懐亮に戦ってわざと敗れさせ、敵を原中へ誘い込む。
我とそなたは山に登って指揮し、周兵が入ったところを四方から重ねて包囲すれば、必ず捕らえられる。」
王貴は感嘆して言った。
「まさに鬼神も測りがたい妙計です。」
こうして楊業は密かに号令を伝え、総管の馮益に三千の兵を与えて伏兵に向かわせた。
この馮益はもと鄆州の守将で、罪を得て逃亡し、楊業のもとに身を寄せていた者である。
翌日、楊業は砲を放って関を出、旗を翻し太鼓を打ち鳴らして挑戦した。
匡胤も兵を率いて出陣する。
高懐徳が言った。
「昨日は勝負がつかなかった。今日は必ず捕らえて、その勢いを挫いてみせる。」
匡胤は答えた。
「北の将も強敵だ。決して侮るな。慎重に行け。」
両軍が陣を整えると、高懐徳は槍を構えて北軍へ突進した。
北陣から楊懐亮が鞭を振るって迎え撃つ。
二人は馬を交えて十数合戦ったのち、懐亮は馬を返して本陣へ退いた。
楊業も兵を引き、北軍は敗走する形となった。
高懐徳は馬に鞭打って追撃し、趙匡胤も兵を駆って後に続いた。
その勢いは山崩れのようで、北軍は衣甲を捨てて逃げ散った。
懐徳は功を立てようと深く追い、鉄籠原の近くまで迫ったところで、突然砲声が響いた。
伏せていた馮益の兵が一斉に立ち上がり、周軍を二つに分断した。
北将の楊延昭が後軍を押さえ、前に進めなくする。
高懐徳は兵に追い込まれて原中に入り、手勢はわずか千余。
もはや突き破る術はない。
さらに楊業が山下で紅旗を手に取り、三軍を指揮して包囲を固める。
翼があっても逃れられぬ形勢であった。
匡胤と鄭恩は後方から追ってきたが、懐徳が囲まれたと聞き、兵を鼓舞して山前に突進した。
しかし山上からは弩箭が雨のように降り、砲石は雹のごとく飛び交う。
周軍の損害は甚大で、やむなく兵を収め、十五里退いて営を構えたのであった。
楊業と馮益は谷口を固く守り、人を遣わして薛王に勝利を報告した。
劉崇は楊家軍が勝ったと知ると、使者に羊と酒を持たせ、陣前で軍をねぎらわせた。
楊業は軍を分け、すべて営門の外に並ばせ、音楽を奏でさせて大いに飲ませた。
こうした日が数日続いた。
その様子を、道に伏していた周軍の校尉が探り出し、周営へ報告した。
鄭恩は言った。
「敵将は勝ちに驕り、軍情を顧みていない。この隙に兵を率いて夜襲をかければ、懐徳を救えるはずだ。」
匡胤は首を振った。
「それはならぬ。楊業は智勇を兼ね備えた将だ。必ず備えがある。
賢弟が出れば、かえって計にかかろう。主公の御到着を待ち、救出の策を協議すべきだ。」
鄭恩は苛立って言い返した。
「主公を待っていれば、懐徳はとっくに困死してしまう。
二哥が恐れて行かぬというなら、俺が自分の兵を率いて行く。」
匡胤は再三止めたが聞き入れられず、やむなく兵を引き連れて後方から援護することにした。
一方、楊業は毎日、軍士に命じて営前で鼓楽を鳴らし、酒宴を続けさせていた。
これを見て王貴が諫めた。
「主帥が軍士に酒を飲ませ続け、軍情を顧みないのは危険です。もし周軍に察せられ、勢いを奮って攻めて来たら、利はありません。」
楊業は言った。
「心配はいらぬ。周兵は大敗して退き、気力も尽きている。
再び来るはずがない。そなたは疑いすぎだ。」
王貴はなお言った。
「将が驕り、兵が怠れば、必ず敗れます。このままでは、いざ兵が来たとき、どう防ぐのですか。」
楊業は笑って答えた。
「そなたも長く戦をしてきたはずだ。この奥をまだ分からぬのか。
これもまた、我が策よ。
今宵は金星が熒惑(火星)に近づき、周兵が必ず来る兆しがある。
だからこそ、こうして誘っているのだ。そなたは兵を率いて正南に陣を敷け。火が上がったのを見て攻め込めば、必ず大勝できる。」
王貴はようやく悟り、大いに喜んで兵を率いて去った。
楊業はさらに命じた。
「懐亮と延徳は、それぞれ千を率い、要路に伏せ。周兵を通してから、その営を襲え。敵が敗れて戻るところを討て。」
二人は命を受けて去った。
また命じた。
「延朗と延昭は精兵を率い、大営の左右に伏せ。周兵が営に入り込んだら、火を放ち、両側から攻めよ。」
二人も命に従った。
すべての手配を終えると、楊業は空の営を残し、自らは兵を率いて寨の後ろに退き、動静をうかがった。
二更のころ、鄭恩は二千の兵を率いて密かに進み、匡胤は騎兵を率いて後から援護した。
北営を見ると、夜の更点もなく、ひっそりとして人の気配がない。
鄭恩は一声叫んで突入したが、そこは空営であった。
鄭恩は驚き、叫んだ。
「策にかかった。」
急いで退却を命じ、馬首を返そうとしたそのとき、営外で一斉に火が上がった。
左右から楊延朗と楊延昭が斬り出し、退路を断つ。
夜更けの激戦となり、鄭恩は戦に固執せず、包囲を破って走った。
そこへ匡胤の兵が合流し、鄭恩が叫んだ。
「二哥、敵はすでに伏兵を置いている。くれぐれも用心を。」
匡胤は言った。
「三弟は中軍を守って急いで退け。俺が追兵を引き受ける。」
二人が前へ走ると、突然、喊声が轟き、正面から一将が斬り出した。
北将の王貴である。
激しく斬り結び、周軍は大きな損害を受けた。
兄弟二人は必死に道を奪って走り、大寨へ戻ると、そこでも火が上がっていた。
左から楊延徳、右から楊懐亮が攻め込み、周兵は大敗し、命を惜しんで四散した。
北兵は十里追撃してから、ようやく引き返した。
兄弟二人は追兵が去ったのを確かめ、そこでようやく陣を立て直した。
夜が明けると、鄭恩は残兵を集め、匡胤とともに世宗のもとへ戻り、楊家の用兵が神がかっていること、懐徳を救おうとして夜襲をかけたが、すでに備えられており、伏兵に遭って大敗したことを訴えた。
世宗は激怒して言った。
「朕が自ら軍を督し、楊業と雌雄を決する。」
ただちに諸営の将帥に命じ、それぞれの兵を率いて出陣させた。
汾水原という地に営を構え、金鎖関から二十里の距離で陣を整え、将を遣わして決戦の準備を進めた。
この件はひとまず措く。
さて、楊懐亮は、夜襲から戻って命を復した後、楊業の命で馮益を助け、谷口を守ることになった。
その夜、懐亮は机に伏して眠り、夢を見て、泣き叫びながら目を覚ました。
この一夢が、後の因縁を生むことになる。
塤(土笛)と篪(竹笛)は誤って呉越に分かれ、
呉越はまた塤と篪に帰る。
補足。
塤篪とは音色の調和がいいことから、兄弟の仲が良い事の喩えとなっています。
まさに、
悲しみも喜びも、別れも巡り会いも天の定め。
禍と福、安と危、いずれも人の思い通りにはならぬ。
さて、懐亮はいかなる夢を見たのか。
それは次回を待って知ることとしよう。
独語。
急に違う物語が始まった様相があります。
坑遼名将楊家将。
北伐時の諸葛亮並みの神算鬼謀で後周軍を手玉に取りますね。
こちらは日本で編まれた『通俗二十一史 第十巻』に収録されている『宋史軍談』で読んだことがあります。
