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陽は翳りゆく 第三話

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

三 幽明の迷い子

 その幼子は、濡れ縁に座って空を眺めていた。星の美しい夜だった。瞬く光が何かの合図のようにも感じられる。首が痛くなるのも構わず、彼はひたすら空を見上げていた。
 暗闇に一人残してはならぬといわれていたにも拘らず、家人は彼から目を離した。ほんの僅かな間ではあった。あまりに星影が明るくて、闇を闇とも思えなかったせいもある。あるいは、どれほど気をつけたとしても、いつかはそうなる運命だったのかもしれない。とにかく彼は、目の前の光に興味を惹かれ、ふらふらと歩きだしてしまった。
 星に見えたのだ。おほしさまがおちてきた、と彼は思った。千浪ちなみ、と呼ぶ母の声が遠くに聞こえた。けれど足はとまらない。ただ星を掴まえたかった。その腕に抱え、近くでしげしげ眺めたかったのだ。光は誘うように揺らぎ、彼の前をゆっくりと漂う。手が届きそうで届かないのがもどかしい。どこまでもどこまでも追い続け、やがては疲れ切って座り込んだ。
 そうして、やっと気づいた。そこはもう、家の庭ではなかった。見知らぬ地、しかも恐るべき闇の中だ。何やら生臭い嫌なにおいもしている。追っていた光は変わらず目の前にあるのに、どういうわけか辺りを照らしてはくれない。驚きのあまり泣くことすら忘れて光を見上げていると、それは突然大きさを増して彼へと襲いかかった。
 千浪は悲鳴もあげられなかった。彼を飲み込もうと近づいてくる光を、ただぼんやりと見つめていた。青白く揺れるそれは「おほしさま」にしては不吉すぎた。幼子の彼にも本能的に感じられたが、といってなす術もない。今すぐあの濡れ縁に駆け戻れたらいいのに、きっと待っているであろう母の腕に抱かれたなら何の問題もなくなるのに、と役に立たない夢想で頭を一杯にしながら彼は目を閉じた。
 ひゅっと風を切るような音が聞こえた。何者かの断末魔の叫びも聞こえたようだった。何かよくないことが起きたのだろうか。もしかして、今、叫び声をあげたのは自分自身だったろうか。怯え切って震えながら耳を塞ごうとした千浪の頭を、誰かがそっと撫でた。さあ、もう大丈夫、と優しい声が降ってくる。目を開けてごらん。
 声に従って瞼を開けば、目の前にいたのは男の人だった。陽光を思わせる明るい金の髪がまぶしくて、千浪は幾度か瞬きをした。髪だけではなく、その人自身が仄かに光を放っているようにも見える。暗闇の中、その明るさがひどくあたたかく思え、千浪は我知らずその人に抱きついた。
「おやおや」
 微かに笑いを含んだ声で、その人はいった。
「ずいぶんと怖かったようだね。無理もないが」
「おほしさまが」
「あの光を追いかけてきたのかい。けれど、あれは星ではない。鬼火だよ」
「おにび?」
「君は危うく喰われるところだったのだよ。無事でよかった」
「おうちにかえる」
 その人は、千浪の祖父と同じような格好をしていた。そのせいで、祖父よりずっと若いと思われるのに、祖父に対するような親しみが千浪の中には湧き上がっていた。
「つれていって」
 そういえば祖父は必ず家まで送ってくれる。帰り道はいつも手を繋いで歩き、千浪が疲れるとすぐにおぶってくれた。そうだね、とその人もいった。
「しかし、ここは家からかなり遠い処なのだよ。戻るのには、だいぶ時間がかかるだろう。今夜は私の家で休むといい。すぐそこだからね」
 おうちにかえりたいよ。そういいたかったのに、急に眠気が襲ってきて、千浪の頭はゆらゆら揺れ始めた。疲れているだろう、と問う声も急に遠のく。千浪は再び目を閉じていた。それでも寝入る前に一言、おんぶ、と呟いた。
 やれやれ、と和装の男はぼやいた。口にすることすら悍ましい体験も多くしてきた彼だが、そういえば幼子を背負うのは初めてだった。とんだ拾いものだが、まさかここに置いてもいけない。家に戻すのも、もはや無理だろう。
 彼岸と此岸のあわいともいえるこの場処には、時折普通の人間も落ちてくる。この子供は、普通というには些か弱すぎるようでもあり、いずれは異界に引き込まれる定めだったのだろう。家人の泣き叫ぶ声が聞こえるようで胸が痛んだが仕方がない。屋敷には、ちょうど兄代わりとなりそうな年頃の少年もいることだし──
 波長が合ってくれればよいのだが、と背の寝息を感じながら男は考えた。あやかしや魔物らを制御することはできても、そればかりは手が出せない。屋敷の住人たちがお互い出会うかどうかは、それぞれの縁によって決まるのだ。歩を進めれば、目の前には一筋の光の道が浮かびあがる。その先には、彼の暮らす古びた洋館が典麗な姿を見せていた。