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陽は翳りゆく 第四話

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

四 午睡

 湿った草のにおいに、ふと顔をあげた。窓の外に広がるのは、天藍。秋の空はどこまでも澄み、雨の気配は微塵もなかった。誰かが庭の水撒きでも始めたかと考えたが、そんな殊勝なものがここにいるはずもない。そもそも今の季節には不似合いな行為だ。妙だな、と訝しんでいると、廊下を駆ける軽快な足音が近づいてきた。
 音弥おとや、音弥、と扉を開ける前から呼んでいる。手にしていた真鍮の天球儀を置いて、音弥は立ちあがった。ゆっくり扉を開くと、目の前で茶の巻毛が揺れた。黒鳶色の瞳が、弾けるような笑みを湛えて音弥を見つめていた。
「騒がしいな。どうしたんだ」
「先生がね、家に連れていってくれるって」
 息を切らして千浪ちなみはいった。また随分と嬉しげだ。家とは何だ、と音弥は僅かに眉を顰めた。
「あいつの家はここじゃないのか。……俺たちの家も」
 後半は何となし小声になる。千浪はまるで気づかぬふうで、前に住んでた家があるんだって、と返してきた。
「前に?」
「うん。子供の頃だって」
 あいつに子供の頃なんてあったのか、と毒突きたくなるのを堪えて千浪を見下ろす。似たようなことを考えていたらしく、先生が小さかった頃って想像できないよね、と千浪が笑った。
「縁側があるっていってたよ。素敵だよね。僕、そういう家に住んでみたいって、前に話したよね」
 以前の家となれば、こことは別の場所だろう。ああ、と上の空で返事をしながら、千浪はここから出られないはずなのに、と音弥は首を傾げた。弱過ぎて外の世界では長生きできないと語ったのは、この屋敷のあるじにして番人でもあるあいつ自身だ。それなのに、いったいどういうつもりだろう。
「音弥? どうかしたの」
「いや」
 音弥は戸口から下がり、中へ入るよう千浪を促した。無邪気な喜びに水をさすようで、本心を口にはできなかった。元よりここの主の胸の内は、音弥には理解不能でもある。
「あれ、直ったぞ」
 目で机の上を示した。白々しく話題を変えるなど子供じみている、と内心自嘲したが、千浪は目を輝かせ、小走りに机に近づいた。
「本当だ。ありがとう。やっぱり音弥に頼んでよかった」
 先刻まで手にしていた天球儀である。支柱の小さな螺子が外れ、赤道も黄道も全てがばらばらになりかけていたのだ。千浪が主にねだって得た品で、これまで無事だったのが不思議なくらいに古いものだと思われた。
 床に落ちた螺子は自分で見つけ出したものの、千浪の性格は組立てのような細かな作業には向いていない。不器用というのでもないのだが、気ばかり急いて粗雑な仕上がりとなってしまうのだ。どうせ誰かに頼めばいいと、初めから考えている節もある。
 誰かといっても、ここでは相手は音弥か主しかいない。頼まれた音弥は主から極小の螺子回しを借り、星々の動きを取り戻したというわけだ。
「すごい。前より軽く回るよ」
 千浪は、輪を回転させて動きを確かめている。
「埃が溜まっていたのを拭き取ったせいだろう」
「うん。ありがとう」
 大事そうに天球儀を両手で抱え、千浪は再び礼をいった。
「別に大したことじゃない」
「うん。でも、嬉しいから」
 あまりに大袈裟に喜ばれ、音弥は妙な気まずさを感じた。無理に話題を変えたためだということに、やがて気づく。ひとしきり天球儀で遊ぶ千浪を眺めた後、結局は自分から話を戻した。
「それで──その家には、いつ行くつもりなんだ」
「これからだよ。だから音弥を呼んでおいでって、先生が」
「え、俺も行くのか」
「当たり前でしょ。僕だけで行くわけないよ」
 なぜ千浪だけで行くわけないのか、その理屈はよくわからなかった。だが彼の考えも、音弥には理解の及ばぬところが多いのである。
「この屋敷から出て、危なくないのか」
 故あってここから出られぬ身なのは音弥も同じだ。殊に、千浪と一緒とあっては。
 一応、躊躇いを口にはしてみたが、千浪の方はどこ吹く風だ。先生が一緒だから大丈夫だよ、と応じる。
「あいつがそういったのか」
「ううん。いってないけど、きっとそうだよ」
 千浪は主を信用し切っているのだろう。あるいは主だけでなく、この世界のあらゆるものを信用し切っているのかもしれない。世界が本当に信頼できるものならば、彼は恐らくここにはいなかっただろうに、そうは思わぬあたりが千浪の千浪たるところだ。音弥には、時折それがひどくまぶしく思える。
「行こうよ。外にお出かけなんて、ここに来てから全然してないでしょ」
「まあ、そうだけど」
「早く」
「わかった。引っ張るな」
 理解が及ばぬといっても、一緒に行くといい出したら音弥が了承するまで梃子でも動かぬ質なのは、よく知っている。気は進まなかったが、行かざるを得まい。千浪に腕を掴まれたまま、音弥は渋々部屋を出た。

 主は風呂敷包みを携え、階下で待っていた。割に暖かな日であったが、海松色の長着に焦茶の羽織を着けて、いかにも外出という態である。風呂敷は、楓や銀杏などが描かれた吹寄せ模様だ。季節に合わせているのだろう。千浪に負けず劣らず、主の心もかつての住まいへの訪いに浮き立っているらしい。以前暮らしていた家に行くというのは、いったいどんな心持かと音弥は思いを巡らせた。生まれ育った昔の家に再び帰りたいとは、音弥自身はもう思わない。
「それ、僕が持つよ」
 小動物のような俊敏さで螺旋階段を駆け下りた千浪が、主の風呂敷包みに手を伸ばした。
「少々重いよ。大丈夫かい」
「平気」
 そういって受け取ったものの、主が片手で軽々持っていた包みは存外に重かったようだ。わ、本当だ、と身体の均衡を崩しかけ、慌てて両手でしっかり包みを抱えた。
「寄越せよ。俺が持つ」
 音弥はいったが、千浪は笑って首を振る。
「これくらい大丈夫だよ。ねえ、何を持っていくの、先生」
「それは、向こうについてのお楽しみだね」
 それにしても、出かけるというのに玄関ではなく階段の下にいるというのは奇妙だった。では行こうか、といった後も、主は外へは向かわずに袂から鍵を取り出した。そしてそれを、階段の陰にある小さな扉の鍵穴へと差し込んだのである。
 狐につままれたような心地で、音弥はそれを眺めていた。こんな処に、果たして扉があったろうか。いや、あったかもしれない。貯蔵庫か、地下室への入口か。いずれにしても、今まで一度も入ったことがないのは確かだった。小さな響きが解錠を知らせる。主が静かに扉を開いた。
「さあ、お入り」
「外に行くんじゃないのか」
「君たちはここの外には出られない。忘れたのかい」
 音弥の問いに、往なすように主が答える。無論、忘れてなどいない。思わず険しい顔になったが、主は笑いを含んだ目をちらりと音弥に向けただけだった。
「すごいや。秘密の通路みたいだね」
 千浪はといえば、この状況にまったく違和感を覚えていないらしい。早くも興味津々という様子で中を覗いていた。声の響き方からしても、中はただの小部屋ではないようだった。
「灯りはあるが、十分ではないからね。走ってはいけないよ、千浪」
 はーい、と返事をしながら、千浪が中へと消えた。それを追って主も入口をくぐる。仕方なく音弥も続くと、背後で音もなく扉が閉まった。
 急に押し寄せた漆黒に、音弥はなぜだか不安を覚えた。本来は闇の中こそが一番落ち着けるはずなのに、どうしたというのだろう。辺りを見渡せば、小さかったのは入口だけで、天井はそれほど低くなかった。処々に洋燈が吊り下げられており、弱い光を放っている。今しがた音弥を包んだはずの暗闇は、もう消えていた。音弥、早くおいでよ、と千浪の呼ぶ声がする。目の前に伸びているのは、細い通路のようである。先を行く二人の姿は洋燈の灯りに揺らめき、やけに遠くに感じられた。
 彼らの更に先の方に、洋燈の炎とは違う微かな光が見えた。闇を壊す一筋のひびにも似たそれを目指し、二人は進んでいくようだった。屋敷の間取りからすれば、こんな空間があるはずはない。主の企みによって生じたものに違いなかった。いったいどこへ連れていかれるのかと思うものの抗う術はなく、音弥も二人を追って歩いていった。
 特に急いだつもりもなかったが、当初感じたほどの距離はなかったらしい。直に、通路の突き当りに立つ二人と合流した。彼らの前にあるのは、壁ではなく引戸だった。戸口の隙間から漏れ出る光が、先程のひびの正体だったのだ。白磁の光とともに、風の気配も入り込んでくる。この先は、野天となっているのだろうか。
「到着したよ」
 いいながら、主が引戸を開けた。うわあ、と千浪が歓声をあげる。音弥は光のまぶしさに目を細めた。
「縁側だよ! ねえ、音弥」
 眼前にあるのは、こぢんまりとした座敷だった。障子の引戸が開け放たれており、先には板敷の細い通路が見える。その向こうに広がるのは、幾分荒れた風情の庭だ。午後の陽のにおいをはらんだ風が、庭から座敷へと緩やかに抜ける。
 座敷に駆け込んだ千浪は包みを置き、さっそく縁側に立った。
「君は、こういう家は初めてだろう」
 視線は千浪を捉えたままで、主が問うてくる。
「ここは、いったいどこなんだ」
 音弥は答えず、先刻からの疑問を口にした。
「私が生まれ育った家だよ。あの屋敷に移るまで、ずっと住んでいたんだ」
「移るまでって──繋がってるじゃねえか」
「これは、今日だけ特別さ」
「何のために」
「何がだい」
 主は整った面を、つと音弥に向けた。その瞳に浮かぶ色を読み切れず、幾らか怯みながらも音弥は更にいい募った。
「何のために、特別なことをする必要があるんだ」
「千浪にねだられたからだよ」
「本当にそれだけか」
「何をそんなに心配しているのかな。ここは安全だよ。君だって、千浪は可愛い。彼の喜ぶ姿を見るのは嬉しいはずだろう」
 確かに、なぜこんなにも胸騒ぎがするのか、その理由は音弥自身にもまったく不明だった。そもそも種族の違うこの主の傍にいるだけで落ち着かないのだ。わけもわからず連れ出され、ただそのせいで苛立っているだけなのかとも思えてくる。物珍しげに庭を眺め、頻りに音弥を呼ぶ千浪の様を見ればなおのこと、主に返す言葉が見つからなかった。
 音弥は目を伏せ、黙ったまま主の傍を離れた。千浪の横に並び、屋敷で見たのと同じ色の高い空を仰ぐ。
「風が気持ちいいね」
「そうだな」
「秋のにおいがするよ」
「ああ。よかったな、縁側のある家に来られて」
「うん」
「思っていたのと、同じような感じなのか」
「うん、すごく似てる」
 思い描いていた家が記憶に基づく現実のものなのか、あるいは主から借りた書物によって生じた心象に過ぎないのか、恐らくは千浪にもわからないだろう。ほんの幼い頃に主に拾われてきて、そのときの記憶さえない彼であるが、潜在的に何かを覚えている可能性はある。屋敷とは違う、こういった造りの家屋への憧れは、生家を懐かしむ気持ちであるのかもしれない。
 主にいわれたように、音弥自身はこのような家に入ったのは初めてだった。だが千浪に何度か本を見せられ、馴染の風景となりつつはあったところだ。実際訪れてみると、日蔭にいながらも光や風に触れる不可思議な感覚は、屋敷の露台とは違う新鮮さがある。うんざりするほど魔除けの類の植物が並んだ屋敷の庭園とは違い、小ぶりの木々と野草のような草花が疎らに配置されているだけの庭は、静かな趣があった。幾らか寂れて見えるのも、あるいは主の意図に依ってのことかもしれない。
 とはいえ──
「音弥も、こういう家で暮らしてみたいと思うでしょ」
 満面の笑みで千浪にいわれ、周囲を見渡した音弥は肩を竦めた。
「どうかな。この家は不用心過ぎる気がするぞ。そこの障子は、扉と違って簡単に開けられるだろう。外から何かが入ってきたらどうするんだ」
「ここは、雨戸が立てられるんだと思うよ」
 縁側の端の戸袋を、千浪は指さす。しかし雨戸にしたところで、所詮、木の引戸だろう。壊すのも外すのも容易なはずだ。その向こうに何の気配もないとはいえ庭の垣も低く、石造りの堅牢な家で幼少時代を過ごした音弥にとっては、ここはひどく無防備な場所としか思えなかった。
「大丈夫だよ。よくないものが来たら、僕を守ってくれるって約束だったでしょ」
「何が大丈夫なんだ。約束をした覚えはないぞ」
「でも、守ってくれるよね」
 音弥は再び肩を竦める。千浪にとって一番危険なのは俺自身だ、と音弥は思っている。その意味では、そう、守ることはできるだろう。
「まあ、何とかするさ」
「僕は、ただ一緒にいられれば、不用心な家でも全然構わないんだよ」
 不意に千浪が、小さな声でいう。きらめく陽射しを避けるように伏せられた睫毛の奥で、黒鳶の双眸が僅かに潤んでいた。
「それに、僕にも何かできることがあるかもしれないし」
「俺が何とかするっていってるだろ。信用しないのか」
「ううん、するする。音弥はいつだって頼りになるものね」
 吹き抜ける風のような軽やかさで、あっさり表情を変え、千浪はまた笑い出した。お茶にしよう、と主の声がする。いつの間にか茶の用意をした盆に片手に、二人の後ろに立っていたのだ。目を輝かせて、千浪が頷いた。
「ねえ、後で家の中を見て回ってもいい」
「残念ながら、見せられるのはここだけでね。あとは荒れ放題なのだよ。今日のところは、縁側で我慢しておくれ」
 そういえば、座敷にもまったく調度がない。縁遠い様式のため、こんなものかと気に留めずにいたが、あまりに殺風景な様は改めて見れば奇妙にも映る。この部屋から運んだと思しき道具は、あの屋敷にありはしないのだ。ひょっとするとここは、現実には存在しない家なのかもしれないと音弥は思った。
 千浪も何か覚ったものか、そっか、仕方ないね、とすぐに諦め、今度は盆の上の茶菓子らしきものに感興を移している。
「包みには、これが入っていたんだね。ねえねえ、何のお菓子なの」
「今、開けてあげるよ。とにかくお座り。座布団もなく、不調法ですまないが」
「平気だよ。ねえ、僕に持たせて」
 菓子が気になって仕方ない千浪は、主から盆を受け取って下に置く。促されるまま、音弥もその場へと座った。
 盆の上にあったのは、日本茶用の一式だった。茶菓子も、どうやら羊羹であるらしい。屋敷ではほとんど見ない品々だ。珍しいね、と千浪がいう。音弥も、主は紅茶以外の茶は口にしないのだとばかり思っていた。
「ここではやはり、煎茶が合うだろうと思ってね」
「羊羹って、前に一度食べた気がする」
「よく覚えているね、千浪。そうだ、あれは客人の土産だったな」
 主は湯を冷まし、茶を淹れる。千浪はその様子を、物珍しげに見つめ、僕、猫舌じゃないから大丈夫だよ、などといっている。
「この茶葉には、少し冷ました湯がいいのだよ」
「羊羹、食べてもいい」
「お食べ。以前のものとは少し違うが、わかるかな」
「栗が入ってるよね。それに、何だかもちもちしてる」
「蒸し羊羹なのだよ。さあ、音弥も。甘いものは嫌いではないだろう」
 二人が賑やかにしている脇で、音弥は庭に何ものかの気配があるのに気を取られていた。今ほどまでは、何も感じなかったのに。立って確かめようとした矢先、何か小さなものが縁側から上り込んできた。
 音弥がはっと身構えるのと、わ、と千浪が声をあげるのと、ほとんど同時だった。それは数歩進んでつと止まり、微かな声で鳴いた。
「おや、おまえは──」
 さして気にするふうもなくそちらに目をやった主が、珍しく驚いたらしい顔になる。それは再び歩き出し、当然のように主の膝の上に乗った。
 それは、小さな猫だった。仔猫というほどでもないが、まだ幾分あどけなさがあって成猫でもないように見える。腰を浮かせかけた音弥は、拍子抜けして座り込んだ。千浪は大喜びで、主の傍へにじり寄った。
「何で、猫なんか」
「昔から、庭によく訪れていたのだよ」
 主は何かを懐かしむような目をして、頭から尻尾まで丁寧に猫を撫でる。猫は目を閉じ、嬉しげに喉を鳴らした。
「いい子だね。くつろぐといい」
 主の様は何やら普段と別人のようにも思え、音弥は束の間、彼らをぼんやり眺めていた。
「あんたも猫が好きだったのか」
「そうだよ。しかし困ったな。おまえにあげられるものが何もないね。刺身でもあればよかったんだが」
 うふふ、と千浪が笑い声を漏らした。
「大丈夫だよ。僕ね、牛乳を持ってきたんだ」
 上着の隠しから小瓶を出し、得意気に掲げる。更に反対側からは、小皿まで取り出した。
「これはまた、ずいぶんと用意がいいね」
「庭が広いっていってたから、もしかしたらと思ったんだよ」
 千浪は瓶の栓を抜いて、小皿に牛乳を移す。さ、僕の処にもおいでよ、と招くと、猫は現金にも主の膝を下り、千浪が差し出す皿の前へと座った。
「おやおや、空腹だったらしいね。まったく、千浪には敵わないな」
 主はくすくすと笑っている。猫は熱心に牛乳を舐め始め、千浪がそっとその背を撫でる。音弥は無言で、その様を見つめていた。
 やがて皿が空になると、猫は今度は毛繕いを始めた。千浪も流石に猫から離れ、再び羊羹を食べ始める。目の前に置かれた茶と羊羹に、音弥も手を伸ばした。主の淹れる紅茶の渋みが苦手で普段は珈琲しか飲まないのだが、初めて口にする煎茶は不思議な甘さと旨みがあって、まろやかな味わいだった。羊羹は以前食べたものより柔らかく弾力があり、甘みはあっさりとしている。秋のにおい、と千浪がいった、風に潜む微かな移ろいに障らぬ風味だ。内か外かよくわからぬこんな場所で供するには、確かに相応しい茶菓なのかもしれない。
 いつしか空の色は、日暮れの予兆をはらんでやや暗く、紺青へと変わりつつあった。
「風が少し冷たくなってきたね。向こうへ移ろうか」
 主の言葉で、座敷へと移動する。障子はまだ開け放たれていたが、直接当たる風さえ避ければ、斜めに射す陽を受けた畳はまだ温かく、くつろぎには十分だった。
 入念な毛繕いを終えた猫も、皆を追って座敷へ来る。再び主の膝を目指すのかと思いきや、すうっと音弥の方へ近づいてきた。まさか、と思う間もなかった。猫は、畳に慣れず片膝を立てて行儀悪く座る音弥の足の上に、ちょこんと乗ってしまった。
「何だよ、こいつ」
 狼狽して立ち上がろうとした音哉だが、素早く千浪に止められた。
「駄目だよ、動いちゃ。猫が落ちちゃうでしょ」
「けど」
「懐かれてるんだよ、音弥。ほら、喉鳴らしてるもの。撫でてあげてよ」
 そういいながら、千浪も既に猫の背の後ろの方を撫でている。どうにも人間というのは、猫を撫でずにはいられぬ生き物のようだ。音弥は溜息をつく。こんなはずはない。春に屋敷の庭に来た猫は、音弥が近づくと必死に千浪の腕から逃げ出したではないか。猫だけではない。音弥のみのせいとはいえないが、あの屋敷にはまともな生き物はまず近寄らない。鼠一匹、烏の一羽でさえもそうだというのに──
 俺が怖くないのか、と音弥は思う。何で、と呟くと、ここの猫は特別なのだよ、と主が応じた。
「今日は、やけに特別が多いんだな。どう特別なんだ」
「怖いもの知らずなのだよ」
「え、だったらこの子を連れて帰りたいな。お屋敷の中で飼えるんじゃない」
「それはいけないね」
「どうして」
「どんな生き物にも、それぞれいるべき場所があるからね。そこを離れたら、生きてはいけない。自然の摂理に逆らうのはよくないことだ。屋敷にだって、ときにはやって来るだろう」
「だけど、春に来たきりなんだもの」
「そのうち、また現れるよ」
 千浪は勝手に会話を引き取り、その挙句しょんぼりしている。それ以上追究する気も失せて、音弥はただ猫を見下ろした。
 猫の身体は、見た目の印象よりも少し重く、ずいぶんと温かかった。千浪に背つかれ頭を撫でてみたが、触れてさえ、やはり逃げ出す気配はない。むしろ心地よさそうに目を閉じ、ますます喉を鳴らすのである。
 奇妙な感じだった。この小さな生き物が膝にいるだけで、まるで世界中に許されたような、そんな心持になるのだ。馬鹿げている、と音弥は舌打ちしたくなった。別に誰にも何ものにも、許しを得る必要などありはしないのに。
 やがて猫は身体を丸め、ぐっすり寝入ってしまった。寝ちゃったね、と千浪が小声でいう。穏やかに上下する腹を見ながら、音弥は自分がずっと猫の頭を撫で続けていたことに気づいた。
「何だか、僕も眠くなってきちゃった」
 穴のあくほど猫を見ていたせいか、その微睡が移ったらしい。千浪は欠伸をして、畳の上に俯せになった。昼寝とは、まるで幼子のようである。顔に畳の跡がつくんじゃないのか、と音弥は呆れていった。
「じゃあ、音弥の膝を貸してよ」
「猫が乗ってる」
「じゃあ、起きる」
 そういいながらも起き出す素振りはなく、直に静かな寝息が聞こえてきた。おい、と声をかけても、目を開ける様子はない。これは、目覚めたときにとんでもないことになっていそうだ。俺はちゃんと教えたからな、と音弥は我知らず笑みを漏らした。
「どうかしたのかい」
 背後から主の声がした。顧みれば、主はのんきに読書などしていた。書物も包みに入れてきたらしい。ずいぶんと分厚いものだ。まったく、これでは荷物が重いはずである。
「何でもねえよ」
「猫もいいものだろう」
 主は本から顔も上げずにいう。また気づかぬうちに猫を撫でていた自身の手を止め、別に、と音弥は呟いた。
「人になれば、いつでも好きなときに、そうして膝に乗せて愛でることができる」
「あんた、何がいいたいんだ」
「千浪のことだよ。結局、あれきりになっているようだが」
「猫のために千浪を喰えっていうのか。冗談じゃねえぞ」
「そういうことではない。わかっているはずだよ。何ならここで──」
「やめろ」
 つい、大きな声になった。千浪が目覚めたのではと、音弥は慌ててそちらに顔を向ける。だが千浪の安穏とした寝顔は、先ほどと少しも変わりなかった。猫の方も、まるで目覚める気配はない。
「俺はいいんだ、このままで」
 声を落として音弥はいう。主は何を考えているのかまるでわからぬ顔つきで、しばらく音弥を眺めていた。面白がっているのか、憐れんでいるのか。どうとでも勝手に思えばいい、と音弥は考えた。人になど、ならなくていい。あの屋敷だけの狭い世界が自分の全てでも、独りきり囚われのまま生きるのだとしても、別に構いはしない。千浪と引き換えに得られる平穏などあるはずもない。たとえ引き換えになることが、千浪の真の望みなのだとしてもだ。
「なら、好きにするといい」
 主はおもむろに書物を置き、立って縁側へと行った。黙したまま、しばし空を仰いでいる。それから、ああ、雨が来そうだね、と独り言のようにいった。
「そろそろ戻らないといけないな」
 しかし庭はまだ、秋の透明な陽に柔く照らされている。猫のせいで立ち上がれぬ音弥は、身を屈めて空を確かめたが、雨の兆しの鈍色は見出せなかった。
「雨なんて、降るようには見えないぞ」
「この時期のここは、雨が多いのだよ。今日は晴れて幸いだった」
「もう少し、いいだろ。千浪が眠ったばかりだ」
 主は振り返って千浪を見下ろす。
「そうだね。では、あと少しだけ」
 こちらを向いた主の表情は、逆光のせいで窺えない。金の髪だけが鮮やぎ、あやかしのようさえ見えるその姿から目を逸らし、音弥は千浪へと視線を向けた。
 縁側から射し込む陽が、千浪に当たっていた。まるで陽の色の布が千浪を覆っているようだった。光を透かした巻毛はいつもの茶よりも薄く、栗色がかって見える。手を伸ばしてそっと撫でれば、それは猫よりも柔らかで温かかった。

 雨の音が聞こえる。いつの間に降り始めたのだろう。あんなに晴れていたはずだったのに。
「……弥、音弥」
 名を呼ばれ、音弥は目を開けた。どうやら眠っていたらしい。光にくらみ、手で遮りながら窓の外を見れば、雨の気配などどこにもない。空の、硬質な蒼さが目に染みた。
「ずいぶんよく眠っていたね。夜、休めていないのかな」
「別に──」
 そんなことはない、と思う。そもそも今だって、それほどぐっすり寝ていたわけではない。少し、うとうとしただけだ。何か夢を見ていた気もする。艶やかな巻毛。その向こうに見え隠れする瞳。弟の夢だったろうか。
 思い出そうとすればするほど、心象は遠ざかっていった。だが所詮、夢は夢に過ぎないのだ。気にしたところでどうにもならない。音弥は長椅子から立ち上がった。
 改めて見れば、そこは主の部屋だった。名前のわからぬ鳥や小動物の剥製。艶やかな瞳の色の義眼を詰めた硝子瓶。巨大な巻き貝の化石。あちらこちらに置かれた得体の知れぬ品々が、音弥を見つめている。何だってこんなところで眠ってしまったのかと、幾らか情けなくなった。未だにじっとこちらに視線を向けている主の瞳は、妙に悲しげである。柄にもなく何なのだ、と音弥はその端正な面を軽く睨んだ。
 主はついと目を逸らし、猫の声がするね、と呟いた。そのまま窓辺へと歩いていく。音弥には何も聞こえなかったが、主が何かを見つけた態で表情を緩めて庭を見下すので、何となし隣に並んでみた。しかし幾ら眺めたところで、猫は疎か他の何ものの姿も、庭には認められなかった。
「何も居ないじゃねえか」
「そうかな。鳴き声が聞こえるだろう」
 音弥は耳をそばだててみる。
「いいや」
「そうか」
 その返事も上の空に、主はいつまでも秋陽に照り映える庭を眺めている。音弥は空っぽのそこを見渡し、肩を竦めた。
「やけに熱心だな。あんた、猫が好きだったのか」
「ああ、そうだよ。知らなかったのかい」
「知るかよ、そんなこと」
 音弥は窓辺を離れた。そのまま部屋を出ようとする。しかし扉まで来たところで、主に呼び止められた。
「そういえば、君にあげようと思っていたものがあるのだよ」
 主はゆるりと暖炉飾りに近づき、その上にあった小さなものを手に取った。さあ、と音弥に差し出す。
 戻って眺めてみれば、それは天体模型だった。真鍮の細い板の片側に地球、もう一方には太陽が配置されている。地球の傍には月。太陽の周りにあるのは水星と金星だ。星々は歯車に依って回転し、天でのそれぞれの位置を再現するのだ。太陽系儀か、と問うと、主は頷いた。
「そう。天球儀があったろう。あれと対なのだよ。同じ人間が作ったものでね」
「天球儀?」
 いわれてみれば、以前に見たことがあるような気はした。しかし暖炉飾りの上を改めて見ても、それらしきものはそこにはない。部屋の中を見回したが、やはり天球儀など見当たらなかった。
「そんなもの、あったか」
「あるはずなんだよ。どこかにね」
 音弥は再び、肩を竦めた。大方、山積する怪しげな品々の中に埋もれてしまったのだろう。
「あんたと対で何かを持つなんて、ぞっとしないな」
「いいから、持っておゆき。飾っておくのには、別に悪くない品だろう」
 仕方なく受け取れば、それは大きさの割に重みがあって、手の中で不思議な存在感を示した。真鍮のくすんだ色合いが、妙に懐かしさを誘う。太陽系儀とは、地動説を基に作られたものなのだ。そんな古めかしさが、ふと好ましくも思えてくる。部屋のどこに置こうかと既に考え始めている自身に忌々しさを覚えつつ、今日は主に逆らわぬことにした。
 音弥はそのまま部屋を辞す。出がけに不意に猫の声が聞こえた気もしたが、無論、空耳だろう。足音も立てずに廊下を行く。硝子の向こうの空は丹色を宿し、暮れ方の始まりを告げていた。