超短編小説 歩くような速さで
タバコは残り一本。
さっさと買いに行きたいが、今から出かけるというのに、わざわざ先にタバコだけ買いに行くのも面倒だ。
どうして女というのは、こんなに準備に時間をかける生き物なんだ。
どれだけ化粧を厚く塗ろうが、皺が埋まるわけでもないだろうに。
予約時間まで、あと20分。
家からコンビニに寄ってタバコを買う時間が無くなってしまう。
私は苛立ちを抑える為に、温存していた最後の一本に火を着けた。
もう40分は待った。
せっかくの休みを朝から潰すというのに、開始早々に「待ち時間」で浪費するという悲しさ。
積み上がった吸い殻を眺めながら、ゆっくりと煙を吐き出す。
思えば、昔からこうだった。
初めてのデートの時に、家の前で待たされた記憶が蘇る。
あの時は私もまだ若かった。
待つという行為が「期待」で埋め尽くされていた、淡い淡い記憶。
「苦痛」に変わると知っていれば、あの時私は30分も待ったりはしなかっただろう。
隣の部屋に聞こえるように、わざと車の鍵をジャラジャラと鳴らしてみる。
足音が聞こえる。
焦っているのだろう。
良い気味だ。
きちんと準備をしておかないから、こういう事になる。
今日は朝からゆっくり本を読むつもりだった。
やっと子供達が巣立って静かになったこの家で、あの忌々しい「結婚記念日」などという余計な事を聞かされなければ、もう少しのんびりと眠れていたはずなのに。
こっちは、「休日」が特別な日なんだ。
こんな事なら、無理にでも仕事の予定を入れておくべきだった。
「記念日」などというものを忘れていた先週の自分が恨めしい。
惰性も諦めも多分に混ざっていたとはいえ、よくこんな生活に35年も耐えたものだと我ながら感心する。
気が短い男と、気にしない女。
水と油も長時間同じ空間に入れておけば、それなりに混ざるのかもしれない。
タバコを強く揉み消す。
積もった灰がテーブルに飛び散り、苛立ちに拍車をかける。
煙と共に深く吸い込んで押し殺していた言葉が、喉元までせり上がって来る。
「急げ」と口元で言葉にしようとした瞬間、寝室のドアが開く。
「あなたが悪いのよ?レストランを予約しただなんて急に言い出すから。本当、いつもいつも全部突然なんだから。」
懐かしい。
淡いベージュのカーディガンに、紺色のロングスカート。
胸元には、褪せたハートのネックレス。
あの日と、同じ。
あの日私に「期待」を抱かせたまま30分も待たせた女は、今日もまだ目の前に居る。
「ごめんね。久しぶりだから、上手に作れてるか不安だけど。」
そう言って、私の腕にカラフルなビーズで出来たブレスレットを嵌める。
私はもう今年で58だぞ。
こんなブレスレットを、年寄りに渡そうとするなんて。
「懐かしいわね。あなた、ずっとそれ付けたままだから。どうせならいい加減、新しい方がいいんじゃないかと思って。あなたが急かすから、少し間に合わなかったけれど。」
少々不恰好でカラフルなビーズ達が、陽の光を浴びてキラキラと輝いて見える。
いや。
輝いて見えるのは、涙で焦点が合わないからなのかもしれない。
ねぇ。古い方のそれ、もう外したら?
いや、良いんだ。
ふふ。そう。お好きにどうぞ。
なぁ。
どうしたの?
レストランで言おうと思ってたんだが。
何よ。深刻な顔して。
ありがとう。35年も一緒に居てくれて。
あなたらしくないわね。でも、こちらこそ。
明日も私は待たされるだろう。
切れたタバコを買いに行く時間は無かったし、ライターも家に忘れて来た。
それでも、この少しだけ噛み合わない時間を歩いていけるなら、それも良い。
白無垢も喪服も、共に。
歩くような速さで。
