カナイと八色の宝石⑨
後方から団長の叫び声が響いて、シュリもカナイも走る速度を上げた。それでも、背が高いチンとエレが走れば、追いつかれるのは時間の問題だ。カナイが気にして後ろを振り返るのを、シュリが止めろと厳しく注意する。
そんな中、前方を走っていたシスカが、部屋の中に入った。少し間があって出てきた彼女は、膝の高さまである白いつぼを引きずっている。カナイとシュリがシスカを追い抜いたところで、シスカはチンとエレに向かって白いつぼを転がした。白いつぼには黒ずんだ液体が入っていて、チンとエレは液体を避けようと飛び跳ねる。シスカはカナイとシュリの横に並ぶと、二人に走るように促した。
「つぼが目に入ったのだけれど、まさか雨水が溜まっているとは思わなかったわ。きっと、窓から入り込んだのね」
カナイが後ろを振り返ると、チンとエレは白いつぼを避けきれず、転がるところだった。次いでシスカを見ると、彼女は「うまくいったでしょ」と片目をつむってみせた。
「それにしても、テンデは足が速いのね」
「逃げ足はね」
テンデの姿は、もはや廊下のどこにも無い。対して、軽口で返したシュリと、横で話を聞いているカナイに、笑う余裕は無くなっていた。特にカナイは、泳ぎは得意でトットといつまでも遊んでいられるが、長い距離を走るのは大の苦手だった。
カナイは横腹が痛くて辛かったが、懸命に足を動かして、なんとかシュリとシスカに付いていく。それでも、口で大きく息をしているうちに、喉が引きつるような痛みを覚えた。渇いたし、痛いし、辛い。二人に先に逃げてもらおう、という考えが、何度もカナイの頭を過ぎる。
ついにカナイが諦めようと速度を緩めかけた時、目の前に分岐路が現れた。廊下が、正面と左右の三つに分かれている。カナイがどうしようかと考える間もなく、シスカが左の道を指差した。
「私は右の道に行くから、二人は左に行って。後で無事だった方が、村に助けを呼びに行きましょう」
カナイとシュリが何か言う前に、シスカは右の道を走っていってしまった。シュリの頭の上を、チチが飛び跳ねて急かす。
『私達モ、早ク行カナイト。追イツカレチャウワヨ』
「行こう、カナイ」
シュリに手を引っ張られ、カナイはまた走り出した。しかし、既に疲れてしまった足は、なかなか言うことをきいてくれない。心臓の音は速くなっているのに、走る速度は遅くなる一方だ。
シュリの頭の上で、チチが飛び上がった。
『チョット。軟体人間ガ、コッチニ来ルワヨッ』
チンとエレは、足が遅いカナイを真っ先に狙ったのだろう。頭の上から『速ク、速ク』とチチが急かすが、足は動かない。カナイは半分泣きながら、ただ前だけを見ていた。
カナイ達が走る道の先には、両開きの扉があった。徐々に、扉が迫る。
「とりあえず、あそこに入ろう」
シュリはカナイの手を離すと、扉を押し開けた。扉は軽い石でできているのか、成人していないシュリでも難なく開いた。
扉の正面には、何もはめ込まれていない窓がある。カナイとシュリが両手を伸ばして、ようやく端に届くような大きな窓だ。窓から入る日の光が、床一面を照らしている。床には、白い絵の具で円が描かれていた。円の中には、記号のようなものが並んでいる。
「魔方陣? まあ、いいか」
シュリはカナイの手を引いて部屋の中に入ると、内側から扉を閉めた。カナイは扉にもたれながら、床に座り込む。息はなかなか整わないし、頭も横腹も足も痛い。ゆっくりと休みたいところだが、どれだけ体重を扉に掛けても、開かれるのは時間の問題だろう。
「シュ、リ、どうし、よ」
カナイがシュリを見上げると、彼は胸元にある白い石を見ていた。白い石からは、小さな光が零れている。カナイが目を擦った瞬間に、部屋の中央から白い光が生まれた。
白い光は、瞬く間にカナイとシュリを飲み込んだ。あまりに強い光に、カナイはたまらず両目を閉じる。それでも、まぶたの裏側まで白い。カナイは両膝を抱えて、その上に顔を伏せた。
***
どれだけの時間が経った頃だろうか。シュリとチチに名前を呼ばれ、シュリに揺すられて、ようやくカナイは顔を上げた。もう光は無くなっていて、シュリの顔がぼんやりと見える。
「あれ? ここ、どこ?」
カナイは目を瞬かせた。
部屋の中は、たくさんの物が置いてある。座る部分が柔らかそうな椅子に、足の部分に彫刻が施された机。ひらひらした服を着せられた、女の子の人形。遠い異国の話にしか出てこないような、鉄の鎧。円盤に十二の数字が書かれ、針が二本付いたもの。何冊も積まれた、分厚い書籍。
どれも、カナイが見たことのない物ばかりだ。そもそも、軟体人間に追いかけられて入った部屋には、こんなにも多くの物が置いてあっただろうか。
しかし、床に描かれた白い円と記号は、光に包まれる前に見たものと同じだ。
「よく分からないけど、使われていない物置みたいだよ。どれも、薄っすらとだけど、ほこりを被っているし」
シュリはカナイの手を掴んで、彼女を引っ張り起こした。チチは、シュリとカナイの頭の上を行ったり来たりしている。
『トニカク、無事デ良カッタワヨ。イツノ間ニカ、夜ニナッチャッテルケドネ』
カナイは驚いて、窓の外を見た。何もはめ込まれていない窓の外には、くっきりとした満月が浮かんでいる。カナイが部屋の様子を知ることができるのは、月明かりのおかげだった。
「本当だ。なんで? それに、寒いっ」
足元から冷気が昇ってきて、震え上がったカナイは両腕で自分の体を抱いた。寒さで震え上がる夜など、カナイが記憶する限り、片手で足りるほどしかない。走り続けてかいた汗が、冷えたのだろうか。
縮こまるカナイを見て、チチは首を傾げた。
『ナンダカ、妙ネ。私、外ヲ見テクルワ』
「待って、チチッ」
カナイが止めるのも聞かずに、チチは窓の外へと飛び立っていった。月明かりの中を飛んでいくチチの姿は、瞬きを三度するうちに森の影の中へと消えてしまう。
「もう、枝にぶつかっても知らないからねっ」
チチに向かって叫ぶカナイの隣りで、シュリが窓の外へ身を乗り出した。
「池を見て、カナイ」
カナイはシュリの横顔を一度見てから、彼と同じように身を乗り出して池を見下ろした。月明かりを映して揺らめく池の底には、大きな建物が沈んでいるように見える。それはカナイ達が見慣れた城ではなく、遺跡だった。
「え? だって、今、遺跡の中にいるよね?」
カナイは目を擦って、もう一度池を見た。やはり、遺跡はただ水面に映っているのではなく、底に沈んでいるように見える。
「遺跡の中じゃ、ないかもしれない。あれを見て」
