「noteは、SNSなのか?」
「noteは、SNSですか?」
そう聞かれたとき、
わたしはちょっとだけ、言葉に詰まってしまう。
SNSって、
誰かとつながる場所だ。
写真をシェアしたり、
何気ない日常を実況したり、
誰かの投稿に「いいね」やリプライを残したり。
じゃあ、noteは?
たしかに「スキ」はあるし、フォローもできる。
けれど、あんまり“にぎやか”じゃない。
誰かの言葉に反応したくても、
少し躊躇う空気がある。
なんというか
──noteって、“声をかけすぎない優しさ”で
できている場所のような気がしている。
◆ 見られたくない。でも、読まれたい。
noteに文章を投稿するとき、
わたしはいつも、ちょっとだけ緊張する。
「届いてほしいな」と思って書いている。
でも、「あまり見られたくないな」とも思っている。
SNS的な“バズ”は、たぶん怖い。
読まれたい。
けど、晒されるのは嫌だ。
届いてほしい。
でも、誤解されるのはつらい。
その微妙な揺れが、
noteという場の空気にも表れている気がする。
たとえば、
いいねの数だったり、
コメント文化がTwitterよりも静かだったり。
この場所は、
「読むこと」よりも「書くこと」に主語がある。
わたしはこの、
“ひとりごとが許されている感覚”が好きだ。
◆ ユニークでありたい。でもウザくなりたくない。
じつはわたし、
「ユニークな人間になりたい」と思っている。
誰にも似ていない、というよりも、
どこかちょっとズレていて、
でも、なんだか元気になる人。
辛いとき、きついとき、厳しいとき──
そういうときに、ふっと笑わせてくれるような存在。
「話すと、なんか少し元気になるんだよね」
そんなふうに言われる人になりたい。
noteに書くときも、
少しだけ、そういう気持ちを込めている。
でも、それってとても難しい。
ひとつ間違えば、ウザくなる。
面白くしようとして空回る。
励まそうとしてズレる。
“ユニークさ”と“出しゃばり”のあいだに、
いつもひとつ、線が引けないままでいる。
noteのなかでなら、
その線の上を、そっと歩けるような気がする。
◆ わたしは、ユニークになりたいと思っていた?
でも、ユニークってなんだろう。
誰かと違っていたい?
面白い人でいたい?
“あの人と話すと、元気になる”って言われたい?
正直、
自分のことをユニークだとは思っていない。
目立つのは苦手だし、声も大きくない。
空気を和ませたいと思って話したことが、
逆に空気を冷やしてしまったこともある。
忘れられたい、
と思ったこともある。
世界に何かを残したいわけじゃない。
わたしという存在を
誰かが記憶してくれなくてもいい。
でも、書く。
書いた言葉だけが、
誰かの一日にふっと触れるなら。
それが、わたしにとっての“ユニーク”なのかもしれない。
わからないまま書いている。
わからないまま、noteにいる。
◆ noteは「距離のとりかた」が問われる場所かもしれない
SNSには、
距離が近すぎることによる疲れがある。
ちょっとした言い回しに、過剰な反応が返ってくる。
意見を書いただけで、「それって無責任じゃない?」と噛みつかれる。
リプ欄が、
まるで公開討論の場みたいになる日もある。
いつからだろう。
ただ感じたことを言葉にしただけなのに
いつの間にか、「戦うか、黙るか」しか選べなくなっていた。
でも、noteには──
“近づきすぎない関心”
みたいなものが流れている。
どちらかと言えば、
言いっぱなしの投げジャーマン。
つながっているけれど、
べったりじゃない。
読まれているけれど、
監視されているわけじゃない。
反応があってもなくても、
書いた言葉は自分のものでありつづける。
noteがSNSかどうかは、正直どうでもいい。
でも、ここに書くたびに、
「自分が何者としてここにいたいか」を
ちょっとずつ問われているような気がする。
◆ わたしにとってのnote
誰にも届かなくてもいい
──そう思って書いたはずなのに、
「スキ」がひとつでもついていると、やっぱり嬉しい。
それが、
読まれたくないのに読まれたい
という矛盾を証明してしまう。
でも、その矛盾ごと書けるのが、noteだ。
笑ってもらいたいと思うくせに、笑われるのが怖い。
誰かを元気づけたくて、言葉を選びすぎる。
そんな
“めんどくさい自分”でいられる場所として、
この場を手放せずにいる。
たぶん、今日もわたしは
「わからないまま、書く」んだと思う。
……あなたは?
なんのはなしですか
たまには、”じぶん”とはなしてみよう
ーー日々好日の書斎より、
とっぴんぱらりのぷぅ。
