トンボのメガネと、魔女の一撃
虫取りに行ったら、全員に爆笑された話
数年前。
あの日の空は、青くて静かだった。
◯09:44 出撃準備─
風もほとんどなく、
虫たちには都合のいい天気。
空中戦において、風の読みはすべてだ。
けれどその日は、風すら眠っていた。
私は虫網。
全長約90センチ、白く丸い捕獲面。
ホームセンター生まれの、量産型。
しかしこの手に握られたときから、
私は兵器としての使命を帯びた。
使い手は、40代男性。
やや腰に違和感を感じつつも、
あの日、彼は私を握った。
目的は「虫取り」。
ターゲットは、バッタ。
そして後に登場する赤い機体
──赤トンボ部隊。
…なんて言ったが、正直に言えば、
使い手の足元がちょっと心配だった
朝から足と腰に違和感を感じている使い手。
しかし、数日前よりの息子との約束の履行を迫られ、渋々出撃を決めたようだ。
◯10:11 作戦開始─
当初、作戦は地上戦だった。
使い手は息子と共にバッタを探し、
しゃがみ、
這い、
手当たり次第に草をかきわけた。
私の出番は、なかった。
◯10:43 目標捕捉─
だが、空を見上げた瞬間、すべてが変わった。
――敵がいた。
赤くて細くて、ふわふわと優雅に飛んでいた。
赤トンボだ。
目標は、
地表1.7メートル。……届く。
「パパ、あれ! あれ取って!」
キラキラと目を輝かせる少年。
使い手の目に、戦意が灯る。
「よーし、任せろ」
私は構えられ、振り上げられ、空に舞った。
一撃目、空振り。
二撃目、カスった。
三撃目――命中。
その瞬間、私は感触を覚えた。
トンボの羽根が、私の縁にかすった。
機体はバランスを失い、回転しながら地表へ。
そして、ピクリとも動かなくなった。
その現実を確認するのに、
しばし、時間がかかった…
少年は手を合わせた。
使い手もしゃがみこみ、静かに手を合わせた。
少年は、ごめんねと小さくつぶやいた。
まつげに光るものが、そっと揺れていた。
私は思った。
「…これは、捕獲じゃない。殉職だ」
◯10:59 戦線崩壊─
それからしばらく、
しゃがみ込んでいた使い手と、少年。
「じゃあ、帰ろうか。」
使い手が、少しだけ腰をひねって、
立ち上がろうとした──そのときだった。
──ピキィィィィィィィィィィンッ!!!
背中で、何かが、
だが、はっきりと「壊れた」音がした。
風が止まった。
鳥も黙った。
私も、止まった。
次の瞬間、使い手の動きが、ゆっくりスローモーションになった。
「ん゛っ……………あぁ゛っっっ!!!!!」
側から見ると、
映画『ショーシャンクの空に』のラストシーンのようだ。
顔が、くしゃっと歪む。
それはもう、トンボじゃなくて、顔面が獲物だった。
「ぐっ、ぐぅぅぅぅぅぅ……ッッ!!」
声にならない声。
その場でプルプル震えながら、
木に手を伸ばす。
だが、
その動作でさらに深く抉られたらしい。
「ぬぅぅ゛ぅぅうぅう゛っっ!!!」
もはや怪獣の咆哮。
私は使い手の手から、ふっと抜け落ちた。
空中で一回転してから、地面に静かに着地。
……これはもう、戦線崩壊だ
私はそう思った。
しかしそのとき、私は理解した。
──魔女の一撃。
これは伝説の「ギックリ腰」だ。
◯11:01 負傷兵アリ─
以降は、ほぼ地面からの観察記録となる。
少年は立ち尽くし、
父の異様な姿を見上げていた。
口が「へ」の字になっている。
ただただ怪訝な顔で使い手を見る。
そこへ、おじいさん登場。
「どしたんや?」と優しく声をかける。
使い手、
脂汗を浮かべながら振り返る。
「ぎっ…ギックリ腰……で……」と答えた瞬間
「──ハッハッハッハッハ!!!」
おじいさん、腹を抱えて笑い始めた。
その笑いは、止まらなかった。
むしろ、加速していった。
「ギックリって!!トンボで!?いやそらアカンて!!」
ちょっと待って、と言いながらベンチを指差す。
「とりあえず座りぃ、あかんて、いったん座って冷静になろうや」
使い手、へたり込むように座ろうとする。
「……んぎぎぎぎぃぃぃいイィ」
「──ッッ!!」
「座っても痛いんかい!!」
「もはや、立っても座っても地獄やないか!!」
「中間の姿勢ないんかい!!」
おじいさんの笑い声は、もはや通報レベルだった。
スマホを取り出す使い手。
「……あ、もしもし……あのぉ……じぃつは……ぎ……ぐああああっっ!!」
義実家に通報。
息も絶え絶えの通話に、義父が爆笑。
「トンボで!?ほんまかいな!!」
笑いながら病院へ連れて行かれる使い手。
妻、帰宅後。
状況を見て、言葉を失う。
「えっ、ちょ、なに? どうしたん?」
「……え? トンボ取ろうとして? え? ギックリ? …ちょっと待って、トンボって……」
沈黙のあと、口元がぷるぷる震える。
「ひ、ひぃっっっ!!!ははははは!!!」
「なんでよ!? 赤トンボってそんな破壊力あったっけ!?」
彼女の笑い声は、
部屋のカーテンまで揺らしていた。
私の使い手は、一切笑っていなかった。
◯11:34 after report─
そして私は見送った。
彼が義父の車に担ぎ込まれ、遠ざかっていく後ろ姿を。
私は思った。
あの赤トンボと、彼は似ていた。
期待に応えようとして、空に向かって飛び出して、そして――墜落した。
……でも、飛ばなきゃ見えない景色が、あったんだろうか。
私は今も、物置のすみにいる。
子どもの傘に挟まれながら、静かに時を待っている。
もう一度、
彼の手に握られる日が来るのだろうか。
そのときは、
彼がちゃんとストレッチをしてから出発しますように。
なんのはなしですか
ストレッチはだいじですよ
とんぼは軽い。
でも、パパの腰は重かった。
――ストレッチ、それは未来への投資。
とっぴんぱらりのぷぅ
