家族を壊すのは、大ゲンカではなく「たった一言」だった
夫婦で「互いの実家」について話しているとき、
夫が常々言うことがあって、
それは
「俺の実家は、とにかく余計な一言が多い」
というものだ。
余計な一言というのは、
相手に対する、ちょっとしたクレームだったり、
「まったく、なんであなたはこうなのかねぇ」などという、
相手の性格や人格に対するディスだったり。
ちょっとした一言だから、
相手が受け流してくれることもあるが、
ときに、激しい口論になって、
その場のおだやかな空気が一変することもある。
そんな なにげない風景は、
家族がそろった
おめでたい席でも起こる。
元旦の朝、
夫の父親が、
お雑煮を一口すすって
「……冷めてるな」
と一言 こぼした。
なんの悪意もない、ただの感想である。
思ったから、そう言っただけ。
だが、
何日も前から、お正月の準備を整えてきた家族たちの手間や気持ちをすこしも想像せずに、
わずかに冷めてしまったお雑煮に対し、
「冷めている」という事実を口にする。
普段の食事なら、流されてゆく一言も、
新しい年のはじまりだったからこそ、
家族の顔がくもり、音のないため息が漏れる。
「今 温め直してくるわ」と立ち上がる女性陣。
お雑煮は 再び温め直せても、
家族の気持ちは、冷めたままである。
日々のつまらぬ一言は、
何万語、何十万語と積み重なって、
ある時、その人に、戻ってくる。
思ったことを、
思ったように言い続けた
夫の父親は、
後年、
家族から、別れを告げられた。
***
このような文化は、
私の実家でも、似たようなものであって、
日頃から、息を吐くように、相手に皮肉や嫌味を投げつける。
先日も、私が実家に顔を出したとき、
母が「一言日記」をつけはじめたと言うので、
私が「おお、すごいじゃない」などと喜んでいると、
父がその横で
「どうせ続かないよ、もう書いてないだろ!?」
などとチャチャを入れた。
ちょっとした冗談、軽口である。
若い頃には、そんな一言を軽く受け流していた母だったが、
関係性というのは、日々刻々と変わってゆくのだ。
母に、それを受け流すキャパも気力も、
なくなってしまっていることに、父は気づけない。
母がイラっとした様子で、
「なによ、ちゃんと書いているわよっ!」と言って、
傷ついた表情を浮かべた。
そうして、
母は 父に仕返しをするように、
「いいわね、自分の部屋でテレビを観てれば、ごはんが出てくるんだから」
と一言。
わたしが実家に帰ると、
5分と経たずに、
こうした言葉の数々が、飛び交う。
互いの心を、
互いに毛羽立たせて、
なんてつまらない時間を過ごしていることだろう。
父も母も、
家の中では、
何を言っても許されると錯覚している。
親しい家族だから「言ってもいい」というロジック。
本当は、大切な家族だからこそ「言ってはいけない」のだが?
「家族は、なんでも言いあえてこそ」という言葉の意味を、
はき違えたまま、多分一生を終える。
とても残念だ。
***
ちょっとしたディスや、軽口は、
親しさのあらわれでもあり、
関係性が親密ゆえに成り立つコミュニケーションの一種だろう。
だが、言っても許されるのは、
あくまでも相手にその度量や余裕があるときに限られるのであり、
そんな 不安定なものに、
私たちは、
いつも甘えさせてもらって、生かされているのだ。
人は歳もとるし、
関係性にくたびれもする。
小さなディスのたびに、
心をかすかに引っ掻かれて、
笑って流していたことも
いつか、大きなケンカになった際、
「あの時も、あの時も、あなたは、こう言った!」
言われた側は、しっかりと覚えていて、
もう笑えなくなっている。
私たち人間は、
互いに、余計な一言を言い合って、
互いに、不愉快な気分になり
互いに、つまらない時間を過ごし、
互いに、被害者になる。
書けば書くほど、わからなくなる。
これは、いったい なんの遊びなのだろう?
悪魔か何かが、
人間をこのように作ったのだろうか?
***
けれども、この遊びにも、ちゃんと意味はあるのだ。
それは、
本当に話し合うべきこと、
本当に伝えるべきこと、
これらの「本当」を避けて、
その場その場で、
刹那的に、
冗談めかして、
ちゃちゃを入れて、
自分の憂さを晴らす
という意味が。
本当は、
向き合わなければならない話がある。
けれど、それは面倒で、重たくて、
どこから話せばいいのかも分からない。
だから私たちは、
その場で思いついた軽口をゲップのように吐いて、憂さを晴らすのだ。
***
感じたことを、
そのまま吐き出せば、
私たちは一瞬だけ、スッキリするだろう。
だから、言った側は、一瞬だけ気が晴れる。
だが、その直後に、
受けた相手に反撃されるか、
もしくは、
数十年後に、仕返しをされるか。
なんにせよ、
いつも、うっすらと「あなたには 問題があるよ」
というメッセージを間接的に伝え合う関係性が、
良好になる道理はない。
時間が経つほどに、
冗談めかして伝え合った軽口のディスが、
ぐちゃぐちゃに絡み合ってゆく。
糸を丁寧にほどいていけば、
芯にあるのは、
おそらく以下のような気持ちである。
本当は、あなたと仲良くしたいし、
あなたを愛してもいる。
互いに
尊重し合って、
理解し合って、
楽しく過ごしたい。
私たちが、大切な人と関わるとき、
根底にある気持ちは、
みな、このような気持ちである。
だが、私たちは、やがて思うようになる。
あなたは、
わたしを
尊重してもくれないし、
理解してもくれない。
いくら説明しても、
あなたはこちらの気持ちを分かろうともしないし、
改善しようともしてくれない。
あなたは、いつも自分の主張ばかり。
こちらは、いつもガマンを強いられてばかり。
だから、もう、どうしようもないのだ。
***
私たちは、
縁あって相手と出会い、パートナーになり、
子供を成して、家族というのをやっていく。
この「暮らし」というのは、
結構やっかいにできていて、
朝が来たら、誰かが朝ごはんをつくり、
誰かが会社に行くように、
家事や仕事や子育てに追われ、
慌ただしく一日は過ぎてゆき、
わずかにある余暇さえも、
余暇用に用意された
世界中のしょうもないコンテンツに振り回されながら
私たちは年老いてゆく。
このような圧倒的な現実を目の前に、
どうして
たった一言の言葉を「すこし考えてから放つ」というような、
気遣いなどできようか。
そんな説教めいたつまらない教訓は、
部屋の隅に追いやられ、
ホコリを被ったまま、
もはや、中身も忘れ去られたまま 巨大な粗大ごみとなって
家族の皆に、煙たがられる存在になるだけだ。
そうやって、
朝が来て、
夜が来て、
気づけば、30年、40年と 時は流れていく。
「生きるって、そんなもんですよ……」
悪魔が仕掛けるワナに、まんまとハマった私たち人間は、
「ヤマアラシのジレンマ」さながらに、
親しくなった相手と近づきすぎて、針を刺し合って、
「イタイイタイ」とうんざりしている。
***
お雑煮をすすって、
「冷めてるな」
と なにげなくボヤいた 夫の父親が
もしも、
「冷めているから、今、温め直してくるよ……皆のお椀も寄こしなさい」
そう言って立ち上がろうとしたなら。
女たちが、父を制し、
代わりに気持ちよく立ち上がって、
再び仕切り直したことだろう。
あり得ない光景だからこそ、思わず夢想する。
私の実家でも同じだ。
日記を書き始めた母に対し、
「どうせ続かないよ」と軽口をたたくのではなく、
「へぇ、そうなんだ」と静かに肯定し、
「どうして書こうと思ったの?」なんて、一言を添えられたなら。
長く一緒にいることに あぐらをかいて、
相手のすべてを知った気になる私たち。
相手と一心同体化してしまう前に、
相手が他者であることに気づけたなら、
再び、ひとりの人間同士の関わり合いとして、
わたし達に、大きな充足と実りを与えてくれることだろう。
***
それでも、また一方で
夫の実家にも、
私の実家にも、
きっと それぞれに、良さもあったのだろうと信じたい。
互いの言葉によって、傷ついて大ゲンカをしても、
翌朝、また誰かがメシをつくり、まだ誰かが金を稼ぎに出かけてゆく。
そういう二人のもとで、わたしは大きくさせてもらった。
果てしない感謝の気持ちと、
言葉にならない無念の気持ちとが、
わたしの気持ちを押しつぶしながらも、
はたと、
自らが、まったく同じワナにハマっていることに気づいて、
悪魔のせせら笑いがいよいよ大きくなる。
***
言うべきじゃなかったのに、言ってしまった言葉。
言うべきだったのに、言わなかった言葉。
その一言一言に、
ブー
という不正解の音も、
ピンポンピンポーン!
という正解の音も、いちいち鳴ってはくれない。
静かに、
言葉は積み重なり、
結果的に、
家族をあたためもするし、冷やしもする。
一度冷えた関係性をあたため直すには、
おそらく気が遠くなるほどの、長い時間が必要だろう。
命が尽きそうである(笑)
***
わたしは、しょっちゅう余計な一言を言っている。
自戒をこめて、
せめて今日一日だけでも、
いや、1時間だけでも、
しょうもない無駄口を叩くなと、自分に言い聞かせる。
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