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創作実話怪談 「呪術合戦 ー終わりの家ー」

呪術合戦 終わりの家

あらすじ

ある町には、七つのお化け屋敷が点在していた。地図で見ると、それらは一軒の焼け跡を起点に北東へ一直線に並んでいる。

起点となる家は「終わりの家」と呼ばれていた。五十年前、火災で七人が死に、今は黒焦げの柱と厠だけが残る忌み地である。草も生えず、虫も避け、鳥すら落ちる。

その隣には、白塗りの三階建て屋敷がある。住んでいるのは盲目の拝み屋、鏑木一茶。彼は「もう終わったことだ」と言う。

しかし霊障は終わっていなかった。

民俗学者・時田幸三と助手・丘まりあは調査に入り、やがて憑き物師・深見胡堂を呼ぶ。深見は言う。

「この地は祓いでは終わらん。終わりの地なら、作り替えるしかない」

そして白き祓い師・白寿霊仙が、移動式迷い塚を展開する。

その瞬間、五十年前に終わったはずの呪術合戦が、令和の町に再起動する。


登場人物

深見胡堂

六十五歳。憑き物師、怪異収集家。黒いスーツに山高帽。背には細長い黒箱を背負う。
怪異を祓わず、捕まえ、飼い、使う男。善人ではないが、弱者には妙に甘い。

時田幸三

民俗学者。現地調査と構造分析を担う。七つの屋敷の配置と、過去の豪商同士の争いに隠された呪術構造を読み解く。

丘まりあ

時田の助手。記録、聞き取り、地図照合を担当。現場感覚が鋭く、異常の発生点を直感的に見抜く。

白寿霊仙

白き祓い師。攻撃術を持たない守りの術師。島根県西部の本式結界「迷い塚」と連動する小型結界を展開できる。

鏑木一茶

盲目の拝み屋。終わりの家の管理者。白塗りの三階建て屋敷に住む。五十年前の呪術合戦の勝者側に連なる人物。

漆黒の憑きもの使い

南西のお化け屋敷に棲むとされる陰陽師筋の残党。黒い憑き物を使い、七つの家の怨念を再配置しようとする。


第一章 七つのお化け屋敷

怪異は祓うものではない。

祓えば散る。
散れば増える。
増えたものは、名を失う。

名を失った怪異ほど厄介なものはない。

だから俺は集める。
集めて、名を付けて、箱に入れる。
使い道があれば使う。
なければ飼う。

それが俺、深見胡堂の仕事だ。

俺の住む古いアパートの一室には、普通の人間なら一晩で気が狂うほどのものが置いてある。

瓶の中で笑う赤子の声。
鏡にしか映らない女。
夜中だけ濡れる人形。
昨日の傷を開く小石。
呼ぶと返事をする髪束。
開けると知らない駅に繋がる切符箱。
それから、背中の黒箱。

黒箱だけは別格だ。

長さ一メートル。
幅は十センチ四方。
古い卒塔婆を削って組んだ箱で、表面には墨ではなく、焼けた骨を擦った粉で札が書いてある。

中には、俺の一番古い憑き物がいる。

煤喰い。

火事場に残った思念を食う。
焼けた梁、黒焦げの畳、逃げ遅れた者の息、助けを呼ぶ声、焦げた髪の臭い。
そういうものを好んで食う。

ただし代償がある。

一度使うたび、俺の記憶が一つ焦げる。

その夜、煤喰いが箱の中で笑った。

「……ほれ、やっぱりなぁ」

俺は畳の上に座ったまま、黒箱を見た。

箱の内側から、爪で引っかくような音がした。

ぎり。
ぎり。
ぎり。

「お前さん、腹が減っとるのか」

返事はなかった。

かわりに、部屋の隅に置いていた濡れ人形が、ぽたりと水を垂らした。

その水が黒かった。

炭を溶かしたような黒。
火事のあと、雨水が焼け跡を舐めた時の色だ。

「火の匂いか」

俺は立ち上がった。

その時、玄関のチャイムが鳴った。

深夜二時十二分。

まともな客が来る時間ではない。

俺は山高帽を被り、黒いスーツの襟を直した。扉を開けると、そこに立っていたのは民俗学者の時田幸三だった。

その後ろに、助手の丘まりあ。

二人とも顔色が悪い。

時田はいつものように調査ノートを抱えていたが、指先がわずかに震えている。

「深見さん」

「夜中に学者が来る時は、たいてい碌でもない」

「碌でもありません」

「帰れ」

俺は扉を閉めようとした。

まりあが足を差し込んだ。

「待ってください。七つのお化け屋敷の件です」

「知らん」

「地図上で一直線に並んでいました」

「線など、引けばどこにでもできる」

「北東です」

俺の手が止まった。

時田が言った。

「起点の家は五十年前に焼失。死者七人。今も黒焦げの柱と厠だけが残っています。土地には草が生えず、虫も避ける。鳥が上を飛ぶと落ちるという証言もあります」

黒箱が、背後で鳴った。

ごん。

まりあが肩を震わせた。

「今の音は?」

「俺の家では、音のするものにいちいち驚くな。寿命が縮む」

時田は続けた。

「その焼け跡は、地元で“終わりの家”と呼ばれています」

黒箱の蓋が、内側から一度だけ押された。

ごん。

俺は舌打ちした。

「名前を聞いただけで反応するか。面倒な土地じゃ」

「やはり、何か知っていますか」

「知らん。だが煤喰いが腹を鳴らしとる。火事場の残り香があるんじゃろう」

「普通の火事ではありません」

時田は一枚の地図を差し出した。

古い住宅地図だった。
赤い丸が七つ。
それらは、町を斜めに切るように並んでいる。

南西から北東へ。
大通りを越え、河川を挟み、古い商店街の裏手を抜け、最後に焼け跡へ至る。

「七つの家は、すべて現在空き家、もしくは廃屋です」

まりあが補足した。

「しかも、その線に挟まれた家だけ、不幸が集中しています。病死、自殺、行方不明、火事、離婚、破産。偶然にしては偏りすぎています」

「偶然ではない」

俺は地図を見ながら言った。

「呪術線じゃ」

時田の眉が動いた。

「やはり」

「やはり、ではない。お前さんら、何を掘った」

まりあが視線を伏せた。

時田は正直だった。

「終わりの家の隣に、白塗りの三階建て屋敷があります」

「ほう」

「そこに、盲目の拝み屋が住んでいます。名前は鏑木一茶」

「管理者か」

「本人はそう名乗りました」

俺は鼻で笑った。

「管理者を名乗るやつほど、だいたい管理されとる側じゃ」

まりあが小さく頷いた。

「鏑木は言いました。“もう終わったことだ”と」

俺は地図を畳んだ。

「終わっとるなら、お前さんらはここに来とらん」

黒箱がまた鳴った。

今度は中から、焦げた子供の笑い声がした。

まりあの顔が青ざめる。

時田は息を呑んだが、逃げなかった。そこだけは学者らしい。

「深見さん。これは、もともと豪商同士の争いだったようです」

「金持ちの喧嘩ほど汚いものはない」

「一方は拝み屋を雇い、もう一方は陰陽師を雇った。互いに呪いを掛け合い、やがて両家は断絶。勝ち残ったのは、豪商ではなく、拝み屋だった」

「そして五十年後も土地が腐っとる」

「はい」

俺は山高帽を深く被った。

「断る」

まりあが目を丸くした。

「え?」

「俺の仕事ではない。土地の呪いは大きすぎる。祓い屋に頼め」

「祓いでは駄目だと思ったから来たんです」

「賢い娘じゃ。だが賢いなら、なおさら帰れ」

俺は扉を閉めた。

その直後、部屋の中から火の匂いがした。

振り向くと、畳の上に黒い足跡がついていた。

小さな足跡。
子供のものだった。

それが黒箱から窓際へ向かい、そこで途切れている。

窓ガラスの内側に、焦げた指で文字が書かれていた。





俺はしばらく見ていた。

「……ほれ、やっぱりなぁ」

外で時田が言った。

「深見さん?」

俺は扉を開けた。

「車はあるか」

まりあが頷く。

「あります」

「なら行くぞ」

「引き受けてくれるんですか?」

「違う」

俺は黒箱を背負った。

「俺のもんに、向こうが触った。なら話は別じゃ」


第二章 終わりの家

町に着いたのは、午前三時半だった。

夜の住宅街は静かだったが、静かすぎた。

普通、夜にも音はある。
エアコンの室外機。
犬の寝返り。
遠くの車。
川の流れ。
電線の唸り。

だが、その町は音を吸っていた。

時田の車が大通りを曲がった瞬間、黒箱が重くなった。

背中に、濡れた死人を背負ったような重さが来る。

「深見さん、大丈夫ですか」

まりあが助手席から振り返った。

「大丈夫に見えるか」

「見えません」

「なら聞くな」

時田が前を見たまま言った。

「まず南西の屋敷から見ますか。それとも終わりの家へ」

「終わりの家だ」

「危険では」

「危険だから行く」

車は川を越えた。

橋の上で、フロントガラスに何かが落ちた。

鳥だった。

小さな鳥が、上から落ちてきて、ガラスにぶつかった。血は出ていない。ただ、羽を広げたまま、ぺたりと張り付いている。

まりあが息を止めた。

ワイパーを動かすと、鳥は乾いた葉のように端へ流れた。

時田の声が低くなった。

「証言通りです」

「証言より悪い」

俺は窓の外を見た。

橋の向こうに、黒い空白があった。

住宅街の中に、そこだけ夜が濃い。街灯があるのに、光が入らない。

終わりの家。

車を降りた瞬間、靴の裏がざり、と鳴った。

土ではない。
灰だ。

五十年経っても、まだ灰が残っている。

敷地は狭くない。昔は立派な家だったのだろう。だが今は、黒い柱が数本、腐った歯のように立っているだけだった。

奥に厠が残っている。

焼け残った古い汲み取り式の厠。
戸は半分外れ、月のない夜に、そこだけ白く見えた。

「変ですね」

まりあが言った。

「何がじゃ」

「あの厠だけ、焼け方が違います」

時田がライトを向けた。

柱は黒い。
梁も黒い。
地面も黒い。
だが厠の戸だけ、白く残っている。

「火が避けたか」

時田が呟いた。

俺は首を振った。

「逆じゃ。火がそこから出た」

黒箱の中で、煤喰いが笑った。

かり、かり、かり。

箱の内側を爪で擦る音。

「出たいか」

俺は背中から黒箱を下ろした。

時田が一歩下がる。

まりあも下がった。

賢い。

俺は箱の蓋に貼ってある札を一枚だけ剥がした。

「煤喰い。食い残しだけだ。生きたものには触るな」

箱の隙間から、黒い煙が漏れた。

煙は地面を這い、焼け跡へ広がった。やがて、子供の形を作った。

顔はない。
ただ、黒焦げの輪郭だけがある。

それが四つん這いになり、灰を食い始めた。

ざり。
ざり。
ざり。

まりあが口元を押さえた。

「食べてる……」

「火事場の残留思念じゃ。煤喰いの餌だ」

時田は目を逸らさなかった。

「何が分かりますか」

「待て」

煤喰いは敷地を這い回り、黒い柱を舐め、焼け跡を吸い、最後に厠の前で止まった。

そして、震えた。

「ほう」

俺は目を細めた。

「怖がっとる」

まりあが信じられないという顔をした。

「深見さんの怪異が?」

「怪異にも格がある。煤喰いは火事場の残りものには強い。だが火そのものを産むものには弱い」

時田が言った。

「この厠が、火元ですか」

「火元ではない。口じゃ」

「口?」

厠の戸が、内側から鳴った。

こん。

こん。

こん。

誰かが、中から叩いている。

まりあが小さく悲鳴を漏らした。

時田はライトを向けた。

「誰かいますか」

「聞くな」

俺は言った。

「返事をするぞ」

遅かった。

厠の中から、女の声がした。

「います」

まりあの肩が跳ねた。

声は若かった。
だが、息が焦げていた。

「まだ、います」

煤喰いが俺の足元まで戻り、黒い煙になって箱へ逃げ込もうとした。

俺は蓋を閉めた。

「おっと、逃げるな。こいつはおとなしくせんかい、ワシのもんじゃ」

煤喰いが箱の中で暴れた。

その瞬間、背後から拍手が聞こえた。

ぱち。
ぱち。
ぱち。

振り返ると、白塗りの三階建て屋敷の門前に男が立っていた。

白い着流し。
黒い杖。
閉じた両眼。
痩せた顔に、薄い笑み。

盲目の拝み屋。

鏑木一茶だった。

「深見胡堂さんですね」

「そういうお前さんは、目が見えんわりに人の名をよく見る」

「名は目で見るものではありません」

「気に入らん言い方じゃ」

鏑木は微笑んだ。

「ここは終わった土地です。どうぞ、お帰りください」

「終わっとる土地が、なぜ喋る」

「残響です」

「五十年も残る残響は、残響とは言わん。呪いと言う」

鏑木の笑みが少しだけ消えた。

時田が前に出た。

「鏑木さん。私たちは、この町で起きている霊障について調べています」

「調べても何も出ません」

「七つの廃屋があります」

「古い町には、古い家が残ります」

「それらは北東線上に並んでいます」

「人は地図を見ると、線を引きたがる」

鏑木の声は穏やかだった。

穏やかすぎる。

こういう声の男は、人を殺したことがある。直接でなくても、祈りで、札で、呪いで、誰かの人生を折ったことがある。

俺は厠を指した。

「中の女は誰じゃ」

鏑木の杖が止まった。

「聞こえましたか」

「聞こえんものを商売にしとるわけではない」

「なら、聞かなかったことにしてください」

「できん」

「なぜ」

「俺の煤喰いが怖がった」

鏑木がゆっくりこちらを向いた。

閉じた目の奥で、何かがこちらを見た。

「憑き物師は、まだそんなものを飼っているのですか」

「拝み屋は、まだ終わったふりをして土地を腐らせとるのか」

風が止まった。

終わりの家の黒柱が、ぎし、と鳴った。

まりあが時田の袖を掴んだ。

時田は小声で言った。

「深見さん、ここで始めるのはまずい」

「始めるのは俺ではない」

鏑木が杖を一度、地面に突いた。

その音が、町全体に広がった。

こん。

すると、七つの方角から、同時に戸が開く音がした。

ぎい。

ぎい。

ぎい。

ぎい。

ぎい。

ぎい。

ぎい。

七つのお化け屋敷が、目を覚ました。

鏑木は言った。

「お帰りください。これは警告です」

俺は笑った。

「警告にしては、ずいぶん大袈裟じゃ」

「あなたが危険だからです」

「違うな」

俺は黒箱を背負い直した。

「危険なのは、この土地じゃ。お前さんではない。お前さんは門番にすぎん」

鏑木の顔から、完全に笑みが消えた。

その時、南西の空から黒いものが飛んだ。

鳥ではない。
煙でもない。
獣でもない。

影が、空を走った。

時田が叫んだ。

「南西の屋敷です!」

鏑木が初めて、焦った顔をした。

「まさか」

俺は笑った。

「ほれ、やっぱりなぁ……お前さん、呪われとるわ」

影は終わりの家の上空で割れ、黒い獣の群れになって降ってきた。

憑き物だ。

南西の陰陽師筋が、まだ生きている。

あるいは、死んでも使っている。

俺は右手を黒箱にかけた。

「時田、丘まりあ。下がれ」

まりあが震えながら聞いた。

「何を出すんですか」

「影を食う犬じゃ」

「犬?」

「ただし、噛むのは影だけでは済まん」

黒箱の第二札を剥がした。

箱の中から、低い唸り声が漏れた。

「行け、黒狗」

黒い犬が飛び出した。

犬と言うには、首が長すぎる。
脚が多すぎる。
口の中に、また口がある。

黒狗は空から降る憑き物の影に食らいついた。

夜空で、見えないもの同士が噛み合う音がした。

ぎゃり。
ばき。
ずる。

鏑木が叫んだ。

「やめなさい! ここで憑き物を使えば、線が開く!」

「もう開いとる」

俺は言った。

「お前さんらが五十年前に閉じ損ねただけじゃ」

終わりの家の厠が、ゆっくり開いた。

中から、白い手が出た。

焦げていない手だった。

それが戸の縁を掴み、女の顔が覗いた。

若い女。
濡れた髪。
白い肌。
だが目だけが、真っ黒に焼けている。

女は俺を見た。

「まだ、います」

そして笑った。

「七人、まだ、います」

黒狗が悲鳴を上げた。

空から降ってきた黒い憑き物より、厠の中の女を恐れたのだ。

俺は悟った。

終わりの家は、焼け跡ではない。

収蔵庫だ。

五十年前の呪術合戦で出た死者、怨念、憑き物、呪い返し、祈り損ねた願い。

それらすべてを、あの厠の奥に押し込めている。

鏑木一茶は管理者ではない。

蓋だ。

そして蓋は、もう割れかけている。

俺は煙草を一本取り出し、火を付けずに咥えた。

「面白くなってきたのう」

まりあが信じられない顔をした。

「面白い状況ですか、これ」

「面白いかどうかで言えば、最悪に面白い」

時田が低く言った。

「深見さん、これは祓えますか」

俺は首を振った。

「祓いでは無理じゃ」

鏑木がこちらを睨むように顔を向けた。

「なら、どうするつもりです」

俺は厠の女を見た。

「終わりの家。終わりの地。なら、新たに再生するしかない」

白い女が、笑みを止めた。

俺は続けた。

「ただし、俺好みに……と言いたいところだが、今回はうってつけがおる」

時田が気づいた。

「白寿霊仙ですか」

「ああ」

俺は黒箱を叩いた。

「白き祓い師、迷い塚の女。あいつの独壇場じゃ」

南西の空で、漆黒の憑き物がまた膨れ上がった。

鏑木が呟いた。

「白寿霊仙をここへ呼ぶつもりですか」

「呼ぶ」

「この土地に結界を打てば、五十年前の合戦が再開します」

「もう再開しとる」

俺は笑った。

「邪魔する野郎は、俺が取って喰うだけさ」

厠の女が、初めて俺の名を呼んだ。

「深見、胡堂」

俺は咥えた煙草を落とした。

本名を呼ばれたわけではない。
だが、名の奥を撫でられた。

煤喰いが箱の中で泣いた。
黒狗が影を吐いた。
鏡の女が、遠いアパートの部屋でこちらを見た気がした。

俺は理解した。

これは、ただの土地の呪いではない。

俺の収蔵品のいくつかが、五十年前、この町から流れてきたものだ。

つまり俺は、知らぬ間にこの呪術合戦の残骸を飼っていた。

「ほれ、やっぱりなぁ……」

俺は自分に言った。

「俺も、とっくに噛まれとったか」

夜明け前の町で、七つのお化け屋敷が一斉に鳴った。

ぎい。
ぎい。
ぎい。

終わりの家の厠の奥から、七人分の笑い声が聞こえた。

そして南西の闇から、誰かが言った。

「拝み屋を殺せ」

その声は、古い陰陽師の声だった。

同時に、鏑木一茶の背後で白い屋敷の窓がすべて開いた。

中から無数の札が舞い上がる。

鏑木が杖を構えた。

「深見胡堂。あなたは、こちら側ですか。それとも、あちら側ですか」

俺は黒箱に手を添えた。

「俺は俺側じゃ」

そして、七つの家を結ぶ呪術線の上で、五十年ぶりの合戦が始まった。


第三章 白き祓い師

白寿霊仙は、電話に出ない女だった。

携帯電話を持ってはいる。
持ってはいるが、鳴っても出ない。

理由は簡単だ。

「あれは人間の都合で鳴るものでしょう」

そう言って、あの女はいつも無視する。

だから俺は電話をかけなかった。

代わりに、黒箱の底から白い骨片を一つ取り出した。

小指の爪ほどの骨。
表面には、薄い赤で梵字のようなものが刻まれている。

白寿から昔もらったものだ。

「本当に困った時だけ折りなさい」

そう言われていた。

俺は迷わず折った。

ぱきん。

折れた瞬間、骨片から白い煙が立った。

煙は俺の前で渦を巻き、やがて女の声になった。

「深見胡堂」

「久しぶりじゃのう、霊仙」

「困った時だけ、と言いました」

「困っとる」

「あなたが困る時は、たいてい周りがもっと困っています」

「正解じゃ」

白い煙の向こうで、ため息が聞こえた。

「どこです」

「鳥取県西部の古い町。七つのお化け屋敷。終わりの家。五十年前の火災。死者七人。北東線。南西に陰陽師屋敷。隣に盲目の拝み屋」

沈黙。

白寿霊仙は、くだらん怪談には反応しない。
だが本物の構造を聞くと、静かになる。

「……迷い塚が要りますね」

「俺もそう思う」

「土地は死んでいますか」

「死んでおらん。腐っとる」

「では、まだ戻せます」

「頼もしいのう」

「あなたは余計なことをしないでください」

「無理じゃ」

「でしょうね」

煙が切れた。

その三秒後、終わりの家の空気が変わった。

風が吹いたわけではない。
温度が下がったわけでもない。

ただ、夜の黒さの中に、白い筋が一本入った。

それは道の向こうから歩いてきた。

白装束。
白い髪。
白い肌。
赤みのある瞳。

三十代前半に見えるが、年齢を数えることに意味のない女。

白寿霊仙。

その背後に、小さな石塔のようなものが三つ浮いていた。

移動式迷い塚だ。

まりあが息を呑んだ。

「きれい……」

「近づくな」

俺は言った。

「美しいものほど、触ると痛い」

霊仙は俺の前で止まった。

「また、黒いものばかり増やしましたね」

「白いものはお前さんが持っとればええ」

「相変わらず口が悪い」

「相変わらず目に痛い」

白寿霊仙は終わりの家を見た。

その瞬間、彼女の表情から人間味が消えた。

祓い師の顔ではない。

土地を見る者の顔だった。

「これは家ではありません」

「だろうな」

「墓でもありません」

「では何じゃ」

「失敗した結界です」

時田が鋭く反応した。

「結界?」

霊仙は頷いた。

「死者七人を杭にして、火災を使い、厠を門にした。北東へ呪いを流す構造です。しかし途中で線が乱れています。だから七つの家が、お化け屋敷として残った」

時田は地図を開いた。

「やはり、七軒は呪術線上の節点ですか」

「節点であり、瘡蓋です」

まりあが顔をしかめた。

「瘡蓋……」

「剥がせば血が出ます。放置すれば膿みます」

俺は笑った。

「今は膿みきっとる」

霊仙は厠を見た。

中の女はまだいた。

白い手を戸にかけ、真っ黒な目でこちらを見ている。

霊仙が小さく頭を下げた。

「閉じ込められた方ですか」

女は答えた。

「まだ、います」

「出たいのですか」

「出たい」

「どこへ」

女は笑った。

「燃えていない家へ」

霊仙の眉がわずかに動いた。

時田が低く言った。

「燃えていない家……鏑木の白い屋敷か」

鏑木一茶が杖を強く握った。

「違います」

俺は鏑木を見た。

「何が違う」

「その女は、人ではありません」

「人だったものじゃろう」

「違う。あれは火の口です。七人の声を真似ているだけです」

厠の女がくすくす笑った。

「嘘つき」

鏑木の顔が硬直した。

俺は鼻を鳴らした。

「賑やかじゃのう。死人も拝み屋も、よう喋る」

南西の空で、黒い影が再び膨れた。

黒狗が唸る。

空に浮かぶ影は、獣の形をしていない。
無数の細い紐が絡まり合い、時々、人の腕や牛の頭、狐の尾、鳥の脚のようなものが浮かぶ。

憑き物を何体も束ねたものだ。

雑だが、強い。

「漆黒の憑きもの使いか」

俺は呟いた。

時田が聞いた。

「姿は見えますか」

「まだ見えん。だが性格は見える」

「性格?」

「あれは飼っとらん。混ぜとる」

俺は吐き捨てた。

「下手くそが」

霊仙が言った。

「深見さん。怒らないでください」

「怒っとらん」

「怒っています」

「憑き物を雑に扱うやつが嫌いなだけじゃ」

「それを怒っていると言います」

黒い影の束が、終わりの家へ降下した。

狙いは厠ではない。

鏑木一茶だった。

「拝み屋を殺せ」

また声がした。

鏑木は杖を掲げた。

白い屋敷から無数の札が舞い、彼の周囲に円を作る。

札は古い。
墨は褪せている。
だが一枚一枚に、血の跡がある。

鏑木が唱えた。

「火伏せ、鬼伏せ、怨伏せ、名伏せ」

札が一斉に立ち上がった。

黒い憑き物の束が札に触れる。

ばちん。

夜空に火花が散った。

鏑木の術は強い。

盲目というのは嘘ではない。
だが見えない代わりに、呪いの流れだけを見ている。

「なるほどな」

俺は言った。

「こいつは門番としては上等じゃ」

「褒めている場合ですか」

まりあが叫んだ。

「褒めておる。敵の札を見るのも仕事じゃ」

黒い束が二つに割れた。

一つは鏑木へ。
もう一つは、時田とまりあへ。

俺は舌打ちした。

「弱い方を狙うか。ますます気に入らん」

黒箱の第三札を剥がす。

箱の中から、細い女の声がした。

「名を、ください」

「まだやらん」

「名を、ください」

「働いたらな」

俺は箱の口を少し開けた。

「名奪い札」

黒い紙片が数十枚、箱から飛び出した。

それは蝶のように舞い、まりあと時田へ向かう憑き物の束に貼り付いた。

貼り付いた瞬間、憑き物たちの形が崩れた。

名前を奪われた怪異は、輪郭を保てない。

狐だったものが煙になり、牛だったものが骨の音だけになり、鳥だったものが羽根の影にほどけた。

まりあが座り込んだ。

「今の、何ですか」

「名前を剥がす札じゃ」

時田が息を整えながら言った。

「怪異は名で固定される。名を奪えば、形を失う」

「学者は説明が長い」

だが時田の理解は正しい。

怪異とは、現象に名が付いたものだ。
名があるから怖がられる。
怖がられるから力を持つ。
なら、名を剥がせばよい。

ただし、この札にも代償がある。

使えば俺の名前も少し削れる。

俺は舌の上に苦みを感じた。

深見胡堂。

その四文字のうち、一画だけ、どこかへ取られた気がした。

霊仙が俺を見た。

「無理をしていますね」

「まだ序の口じゃ」

「あなたはいつも、序の口で寿命を削ります」

「寿命など、怪異にくれてやるほど余っとる」

「余っていません」

白寿霊仙は短く言い、三つの小型迷い塚を地面に置いた。

石塔は手のひらほどの大きさだった。

だが地に触れた瞬間、周囲の灰が白く乾いた。

黒い土地に、円が生まれる。

霊仙が静かに唱えた。

「迷うものは、ここへ。帰れぬものは、ここへ。名を失ったものは、ここへ。恨みを抱いたものは、ここで眠れ」

三つの石塔が白く光った。

終わりの家の敷地に、薄い結界が広がる。

すると、厠の女が悲鳴を上げた。

「いや」

鏑木も叫んだ。

「やめなさい!」

霊仙は止めなかった。

「迷い塚、仮据え」

白い光が、焼け跡の中心へ伸びた。

その時だった。

七つのお化け屋敷すべてから、同時に人の声が上がった。

泣き声。
笑い声。
怒鳴り声。
念仏。
祝詞。
赤子の産声。
老人の咳。

それらが町全体を満たした。

時田が地図を握りしめる。

「七つの節点が反応しています」

まりあが震える声で言った。

「これ、浄化じゃないんですか」

「浄化だ」

俺は言った。

「ただし、膿んだ傷を洗えば痛む」

終わりの家の厠の戸が完全に開いた。

中は、暗くなかった。

赤かった。

火の色ではない。
夕焼けでもない。

人の怨念が、内側から煮えている色だった。

その奥に、七つの影が立っていた。

大人が三人。
老人が一人。
子供が二人。
そして、女が一人。

だが、全員の足元がない。

厠の穴の奥から、吊られているように揺れていた。

霊仙が息を呑んだ。

「これは……」

鏑木が低く言った。

「だから、終わったことにしておくしかなかった」

俺は鏑木を睨んだ。

「終わったことにしたのは、誰の都合じゃ」

鏑木は答えなかった。

南西の闇が裂けた。

そこに、男が立っていた。

黒い狩衣。
顔を覆う黒布。
肩に無数の紐。
紐の先には、小さな鈴や獣の骨、古い歯、鳥の爪が結ばれている。

陰陽師、というよりは、その残骸だった。

五十年前の術者が生きているはずはない。

ならば、あれは子孫か。
弟子か。
あるいは、憑き物に人の形を取らせたものか。

男が言った。

「鏑木の家を、返せ」

鏑木の顔が歪んだ。

「まだ言うのか」

「返せ」

「もう主家はない。豪商もない。争う理由はない」

「理由など、五十年前に燃えた」

黒布の男は、こちらを見た。

「深見胡堂。お前は邪魔だ」

「初対面でよく分かっとる」

「お前の箱に、我らのものがある」

やはりか。

俺は笑った。

「拾ったものは俺のもんじゃ」

「盗人」

「放し飼いにして腐らせた飼い主に言われたくないのう」

黒布の男の肩の紐が一斉に鳴った。

ちりん。
ちりん。
ちりん。

憑き物の鈴だ。

音を合図に、南西から黒い獣が三体走ってきた。

狐。
犬。
猿。

ただし、すべて顔がない。

顔を削られ、口だけが縦に裂けている。

「まりあ、目を合わせるな」

「顔がありません!」

「なら口を見るな!」

黒狗を出すには早い。
煤喰いは火の口に怯えている。
名奪い札は、これ以上使うと俺の名が削れる。

俺は黒箱の底を叩いた。

「出ろ、縄女」

箱の中から、濡れた縄がずるりと出た。

それは地面を這い、三体の憑き物の足に絡みついた。

縄には女の髪が編み込まれている。

首吊り縄の怪異。

生前、誰かを恨んで吊った女の執念を、俺が縄ごと飼っている。

縄女は獣の脚を締め上げた。

ぎり。

獣たちが転ぶ。

だが黒布の男は指を鳴らした。

三体の憑き物は、自分の脚を噛み切って進んだ。

「ほう」

俺は感心した。

「痛みを切れるようにしてあるか」

霊仙が前に出た。

「深見さん、下がって」

「攻撃術はないんじゃろう」

「守ることはできます」

彼女の足元の迷い塚が白く光った。

三体の憑き物が結界に触れる。

すると、動きが鈍った。

迷い塚は攻撃しない。
燃やさない。
斬らない。
縛らない。

ただ、迷わせる。

憑き物たちは、自分が何を恨んでいたのか、誰を噛もうとしていたのか、どこへ向かっていたのかを忘れ始めた。

狐が立ち止まる。
犬が後ろを向く。
猿が自分の手を見つめる。

その隙に、俺は縄女を引いた。

三体の首が同時に締まる。

「おっと、こいつはおとなしくせんかい、ワシのもんじゃ」

黒箱の口を開ける。

縄女が三体をまとめて引きずり込んだ。

箱の中で、獣が暴れた。

だが蓋を閉めれば俺の勝ちだ。

黒布の男が沈黙した。

俺は笑った。

「下手な憑き物ほど、よく吠える」

「返せ」

「嫌じゃ」

「ならば、お前の箱を割る」

黒布の男が両手を広げた。

南西の廃屋から、巨大な黒い柱のようなものが立ち上がった。

いや、柱ではない。

髪だ。

無数の黒髪が束になり、夜空を突いた。

まりあが叫んだ。

「南西の家が……!」

遠くに見える廃屋が、内側から髪で膨らんでいた。

時田が地図を見て叫ぶ。

「まずい。南西の屋敷は呪術線の反対端です。あそこが開けば、終わりの家と直結します!」

鏑木が顔色を変えた。

「開けてはならない」

黒布の男が言った。

「開けるために、五十年待った」

白寿霊仙が迷い塚を押さえた。

「深見さん、時間がありません。迷い塚を本式に接続します」

「どれくらいかかる」

「仮据えから本式接続まで、最低でも十五分」

「長いのう」

「土地が腐りすぎています」

「十五分、持たせればええんじゃな」

「できますか」

俺は黒箱を背負い直した。

「できるかではない」

俺は南西の闇を見た。

「やるんじゃ」

鏑木が言った。

「私も出ます」

俺は鼻で笑った。

「蓋が動くな」

「私は蓋ではない」

「なら何じゃ」

鏑木は少し黙った。

そして答えた。

「鍵です」

その言葉で、終わりの家の厠の女が笑った。

「違う」

女は言った。

「あなたは、錠前」

鏑木の杖が震えた。

俺は笑みを消した。

なるほど。

鍵ではなく、錠前。

なら鍵は別にある。

そして鍵は、おそらく南西にいる。

黒布の男か。
陰陽師筋か。
それとも、七つの家のどこかに隠された別の死者か。

時田が言った。

「深見さん。構造が見えました」

「言え」

「終わりの家は北東の火口。南西の屋敷は呪詛の発射点。その間の五軒は、呪いの通過点ではなく、失敗した受け皿です」

「つまり」

「五十年前、南西から北東へ向けて呪いを飛ばした。鏑木側はそれを終わりの家で受け、火災に変換して封じた。しかし完全には封じきれず、途中の家々が被害を受けた」

まりあが続けた。

「だから、その家に挟まれた人たちにも不幸が起きる。呪いの流れがまだ残っているから」

「上出来じゃ」

俺は黒箱を叩いた。

「学者と助手は、後ろで頭を使え。前は俺と霊仙で受ける」

霊仙が迷い塚の前に座った。

白い髪が風もないのに浮く。

「接続を始めます」

三つの小型迷い塚から、白い糸が伸びた。

糸は地中へ潜り、西へ、さらに西へ向かう。

島根県西部の隠れ家にある本式迷い塚へ繋がろうとしている。

その瞬間、黒布の男が叫んだ。

「白を入れるな!」

南西の髪柱が裂けた。

中から、巨大なものが這い出した。

牛の頭。
人の胴。
狐の尾。
鳥の翼。
犬の脚。
蛇の舌。

憑き物を無理に縫い合わせた怪物。

黒い複合憑き。

俺は顔をしかめた。

「美しくない」

まりあが叫んだ。

「そこですか!」

「そこじゃ。怪異にも作法がある」

複合憑きが、こちらへ突進した。

道路が割れる。
街灯が消える。
七つの家が同時に震える。

俺は黒箱の奥へ手を入れた。

箱の中で、何かが俺の指を噛んだ。

血が出る。

「痛いのう」

俺は笑った。

「だが、今日はお前の出番じゃ」

箱の奥から、小さな赤い瓶を取り出した。

瓶の中には、黒い舌が入っている。

喋る舌。

嘘を食い、真名を吐かせる怪異。

代償は、使った者の声が一日濁る。

「時田」

「はい」

「記録しろ。今から、あいつの名を剥く」

俺は瓶の栓を抜いた。

中の舌が、ぬるりと伸びた。

そして夜空に向かって言った。

「お前の名は何だ」

複合憑きが止まった。

黒布の男が叫ぶ。

「答えるな!」

舌は笑った。

「お前の名は何だ」

複合憑きの体から、無数の声が漏れた。

「狐」
「犬」
「牛」
「蛇」
「火」
「髪」
「井戸」
「門」
「恨み」
「返せ」
「殺せ」
「燃やせ」

俺は舌打ちした。

「混ざりすぎじゃ」

舌が三度目を問う。

「お前の、本当の名は何だ」

複合憑きの腹が裂けた。

中から、小さな子供の声がした。

「おわり」

終わり。

それが名だった。

俺の背筋に冷たいものが走った。

この怪異は、終わりの家から生まれたものではない。

終わりという概念そのものに、五十年かけて肉を与えたものだ。

終わりの家。
終わりの地。
終わったこと。
終わらせたい者。
終わらなかった者。

それらが名を結び、怪異になった。

「霊仙」

俺は言った。

「早くしろ」

「あと九分」

「長い」

「持たせてください」

「簡単に言う女じゃ」

複合憑き――終わりが、こちらへ走った。

俺は黒箱を開いた。

今度は札を剥がさない。

箱の口を、完全に開けた。

中から、今まで封じていた憑き物たちの声が漏れる。

煤喰い。
黒狗。
縄女。
名奪い札。
鏡の女。
濡れ人形。
切符箱。
髪束。
昨日の傷石。

全部がざわめく。

まりあが叫んだ。

「深見さん、それは危険です!」

「危険なものを危険な時に使わず、いつ使う」

黒箱の奥で、最も古い声がした。

「開けるのか」

俺は笑った。

「少しだけじゃ」

「少しで済むと思うか」

「済ませる」

「お前はまた、人間を削る」

「まだ残っとる」

「残っていると思っているだけだ」

俺は答えなかった。

その声は、俺が最初に捕まえた怪異だった。

名を、まだ付けていない。

付ければ支配できる。
だが付けた瞬間、俺もそいつに支配される。

だから、箱の最奥に沈めてある。

黒布の男が笑った。

「開けろ、深見胡堂。お前もこちらへ来い」

「黙れ、下手くそ」

俺は黒箱に手を突っ込んだ。

中から、冷たい手が俺の手首を掴んだ。

一瞬、俺の視界が暗くなる。

代わりに、違う目が開いた。

町の七つの家が見えた。

終わりの家。
白い屋敷。
川向こうの空き家。
大通り裏の商店跡。
赤い屋根の廃屋。
蔦だらけの二階家。
南西の陰陽師屋敷。

全部が、一本の黒い臍の緒で繋がっていた。

そしてその中心に、見えない八軒目があった。

地図にはない家。

七つのお化け屋敷ではない。

八つ目。

「時田!」

俺は叫んだ。

「地図にない家がある!」

時田が驚愕した。

「八軒目ですか」

「ああ。七つではない。七つは見せ札じゃ。本命は八つ目じゃ」

まりあが地図を覗き込む。

「でも、線上にはもう家は……」

「ある」

俺は黒い目で見た。

「川の下じゃ」

時田が息を止めた。

「河川改修で消えた家……」

鏑木が呟いた。

「やめろ」

俺は鏑木を見た。

「知っとるな」

「それを掘れば、町が終わる」

「掘らんでも終わりかけとる」

霊仙が言った。

「あと六分」

複合憑きの終わりが、迷い塚の結界に爪を立てた。

白い光に、黒い亀裂が入る。

俺は黒箱の奥の手を握り返した。

「貸せ」

声が笑った。

「何を」

「お前の口じゃ」

「代償は」

「俺の影を半分」

「安い」

「なら記憶も一つ付ける」

「どの記憶を」

「母の顔以外なら何でもええ」

声は沈黙した。

そして言った。

「母の顔を残したいのか」

「悪いか」

「お前にも、まだ人間が残っている」

「うるさい」

黒箱の奥から、巨大な口が開いた。

現実の空間ではない。
俺の影の中に、口が開いた。

それは黒く、深く、歯がなかった。

歯がないかわりに、闇そのものが噛む。

複合憑きが結界を破ろうとした瞬間、俺の影の口がその足に食らいついた。

終わりが叫んだ。

その声は七人分ではない。
もっと多い。

この五十年、線上で不幸に遭った者たちの声だ。

俺の影が、ばりばりと音を立てて怪異を食う。

同時に、俺の中で何かが消えた。

誰かと見た夕方の海。
若い頃、笑った誰かの声。
畳の上で聞いた雨音。

どれが消えたのか分からない。

分からないまま、消えたことだけが分かる。

霊仙が叫んだ。

「深見さん、もう十分です!」

「まだじゃ」

「影が削れています!」

「影など、また伸びる」

「伸びません!」

終わりの家の厠の女が笑った。

「深見胡堂。あなたも、こちらへ」

「断る」

「終われば楽になる」

「俺は楽が嫌いじゃ」

「では、なぜ集める」

俺は複合憑きの足を影で噛み砕きながら答えた。

「祓えば散る。散れば増える。だから集める」

「集めた先に何がある」

「知らん」

「あなたも迷っている」

その言葉に、迷い塚が強く光った。

白寿霊仙が目を開いた。

「接続しました」

遠く、西の方角から、白い風が吹いた。

本式迷い塚の力が届いたのだ。

小型の三つの石塔が、一気に大きく見えた。

実際の大きさは変わらない。
だが、そこに数百メートル規模の浄化圏が重なった。

白い光が町を覆う。

七つの家の声が、次々に小さくなる。

複合憑きの終わりが、膝をついた。

黒布の男が絶叫した。

「白を入れるな!」

俺は影の口を引き戻した。

足元を見ると、俺の影は半分になっていた。

右側しかない。

左側には、別の影が立っていた。

小さな厠の戸の形をした影。

「……代償にしては、趣味が悪いのう」

霊仙が息を整えながら言った。

「まだ終わっていません」

「ああ」

俺は南西を見た。

黒布の男は逃げていない。

むしろ、笑っていた。

「迷い塚を待っていた」

その言葉に、霊仙の顔が凍った。

黒布の男が両手を広げる。

南西の屋敷から伸びる髪柱が、白い光を飲み始めた。

「浄化は、反転できる」

鏑木が叫んだ。

「やめろ!」

黒布の男が笑った。

「五十年前、お前たちがしたことだ」

白い迷い塚の光が、黒く濁った。

霊仙が片膝をつく。

「本式に……逆流が……」

俺は初めて、顔をしかめた。

こいつらは、白寿霊仙を誘い込んだ。

終わりの家を餌にして、迷い塚の本式へ呪いを逆流させるつもりだった。

「深見さん」

霊仙の声が揺れた。

「迷い塚を切ります」

「切ればどうなる」

「この町は戻せません」

「繋いだままなら」

「本式が汚染されます」

「島根西部の隠れ家ごと腐るか」

「はい」

俺は笑った。

「上等じゃ」

霊仙が俺を見た。

「何をする気ですか」

「逆流するなら、途中で横取りすればええ」

「無茶です」

「無茶はいつものことじゃ」

俺は黒箱を開いた。

今度は、自分の影に向かって言った。

「食え」

影の厠戸が、ゆっくり開いた。

その奥から、俺ではない声がした。

「ようやく、俺の番か」

俺は笑った。

「少しだけじゃ」

「少しで済まんぞ」

「知っとる」

南西から黒い呪いが、迷い塚の白い糸を伝って流れてくる。

俺はその前に立った。

時田が叫んだ。

「深見さん!」

まりあも叫んだ。

「駄目です!」

鏑木は黙っていた。

霊仙が立ち上がろうとした。

俺は振り返らずに言った。

「邪魔するな」

黒い逆流が、俺に到達した。

瞬間、全身が冷えた。

血が墨になる感覚。
骨の中を虫が這う感覚。
耳の奥で七つの家が笑う感覚。

俺は口を開けた。

俺ではない口も開いた。

黒い呪いを、俺の影が喰らった。

喰う。
喰う。
喰う。

吐き気がした。

だが吐かない。

吐けば散る。
散れば増える。

だから飲む。

飲んで、名を付けて、箱に入れる。

それが俺の仕事だ。

黒布の男の笑いが止まった。

「何者だ、お前」

俺は答えた。

「怪異収集家じゃ」

そして黒箱の蓋を、全開にした。

「終わりの家の呪い。五十年分。全部、俺が預かる」

霊仙が叫んだ。

「深見さん、それは収集ではありません!」

「ああ」

俺は笑った。

「横領じゃ」

黒い逆流が、俺の影へ、黒箱へ、そして俺自身の中へ流れ込んだ。

意識が一瞬飛んだ。

最後に見えたのは、厠の女の顔だった。

彼女は泣いていた。

笑っていたのではない。

泣いていた。

「まだ、います」

その声が、今度は違って聞こえた。

助けを求めていた。

俺は黒い闇の中で答えた。

「知っとる」

そして、俺の中の何かがまた一つ、焦げて消えた。


第四章 八軒目

気がつくと、俺は畳の上に寝ていた。

知らない家だった。

いや、正確には、もう存在しない家だった。

古い梁。
煤けた天井。
障子の穴。
柱に刻まれた子供の背丈の印。

外では川の音がしていた。

だが、その川は現在の流れではない。

五十年前、河川改修で埋められる前の流れだ。

俺は八軒目の家に入っていた。

「ほれ、やっぱりなぁ……」

声が濁っていた。

喋る舌の代償か。
それとも呪いを飲んだせいか。

部屋の奥に、女が座っていた。

終わりの家の厠にいた女ではない。

もっと若い。
十代後半か二十歳そこそこ。
白い着物。
膝の上に、小さな黒い箱。

俺の黒箱に似ている。

女は言った。

「あなたが、最後の憑き物師ですか」

「最後かどうかは知らん」

「なら、終わらせてください」

「誰を」

「私たちを」

「名は」

女は少し黙った。

「鏑木 千世」

鏑木。

俺は舌打ちした。

「一茶の身内か」

「祖母です」

「五十年前に死んだのか」

「死にました。でも、終わりの家ではありません」

「八軒目か」

千世は頷いた。

「ここが本当の始まりです」

彼女の膝の黒箱が、かたかた震えた。

「豪商同士の争いは、表の話です。本当は、拝み屋と陰陽師の争いでした。どちらが土地の神を扱えるか。どちらが死者を使えるか。どちらが町を支配できるか」

「ありがちな話じゃ」

「ありがちだから、終わりませんでした」

千世は黒箱を撫でた。

「南西の陰陽師は、憑き物を増やしました。鏑木の拝み屋は、それを受ける器を作りました。器にされたのが、私です」

「終わりの家の七人は」

「犠牲者です。でも杭でもあります」

「ひどい話じゃ」

「はい」

千世は俺を見た。

「あなたは、ひどい人ですか」

「相当な」

「なら、頼めます」

「善人には頼めん話か」

「善人は祓おうとします。祈ろうとします。許そうとします」

千世の声が冷たくなった。

「でも、これは許してはいけないものです」

俺は黙った。

千世の黒箱が開いた。

中にあったのは、一本の鍵だった。

古い鉄の鍵。

「錠前は一茶です。鍵は、私です」

「お前さんを使えば終わるのか」

「終わります。ただし、終わりの家に閉じ込められた七人も、途中の家に染み込んだ死者も、南西の陰陽師筋も、鏑木の屋敷も、すべて一度開きます」

「大惨事じゃな」

「はい」

「それで」

「開いた瞬間に、白寿霊仙の迷い塚で受ける。そして、あなたが残ったものを箱に入れる」

俺は笑った。

「簡単に言う」

「できる人を待っていました」

「五十年もか」

「はい」

外の川音が強くなった。

障子の向こうに、黒い布の男が立っていた。

南西の漆黒の憑きもの使い。

奴も、この八軒目に入ってきた。

「千世」

黒布の男が言った。

「鍵を渡すな」

千世は振り返らなかった。

「あなたは、誰ですか」

男は黙った。

千世が言った。

「陰陽師の名を継いだだけの人。憑き物に動かされているだけの人。もう、あなた自身の恨みではないでしょう」

黒布の男の肩の鈴が鳴った。

「返せ」

「何を」

「奪われたものを」

「何を奪われたか、覚えていますか」

黒布の男は答えなかった。

名を失いかけている。

憑き物を増やし、混ぜ、継がせるうちに、使い手の方が器になったのだ。

俺は立ち上がった。

「千世、鍵を寄越せ」

「はい」

彼女は俺に鉄の鍵を渡した。

触れた瞬間、手のひらが焼けた。

鍵なのに、火傷した。

「熱いのう」

千世が言った。

「火で作った鍵です」

「趣味が悪い」

「鏑木の家系ですから」

少しだけ、彼女は笑った。

黒布の男が動いた。

影が床を走る。

俺は黒箱を構えた。

だがその前に、畳を突き破って白い石塔が現れた。

迷い塚。

霊仙の声がした。

「深見さん、聞こえますか」

「遅い」

「あなたが勝手に落ちたんです」

「助けに来たのか」

「いいえ。目印を付けました」

「上等」

白い石塔の光で、八軒目の家が揺らいだ。

現実と過去の境目が薄くなる。

黒布の男が叫んだ。

「やめろ!」

俺は鍵を握った。

「終わりの家は厠が口。鏑木一茶は錠前。千世が鍵。南西は発射点。八軒目は始点」

俺は笑った。

「ようやく詰将棋になってきた」

千世が言った。

「深見さん」

「何じゃ」

「終わらせてください」

「終わらせるのは嫌いじゃ」

俺は鍵を黒箱に差し込んだ。

本来、俺の箱に鍵穴などない。

だが鍵は、箱の表面に吸い込まれるように刺さった。

がちり。

その音が、町全体に響いた。

現実の終わりの家で、厠の戸が開く音がした。

白い屋敷で、鏑木一茶が膝をつく音がした。

七つのお化け屋敷で、閉じ込められた声が起き上がる音がした。

南西の屋敷で、黒髪の柱が裂ける音がした。

そして川の下で、八軒目の家が浮かび上がる音がした。

黒布の男が俺に飛びかかった。

俺は黒箱を開いた。

「おっと、こいつはおとなしくせんかい」

箱の中から、縄女が飛び出す。
黒狗が噛みつく。
煤喰いが火の残り香を食う。
名奪い札が男の黒布に貼り付く。

黒布が剥がれた。

下から現れた顔は、若い男だった。

だが目だけが古い。

何代もの憑き物使いの目が、重なっている。

「お前の名は何だ」

俺が問う。

男は震えた。

「名は……」

「言え」

「名は……ない」

俺は首を振った。

「それが敗因じゃ」

名を失った使い手は、怪異に使われる。

俺は黒箱を男へ向けた。

「名無しの憑きもの使い。仮名をくれてやる」

男が怯えた。

「やめろ」

「名がないと、箱に入れにくい」

俺は笑った。

「お前の名は、黒継ぎ」

名を与えた瞬間、男の輪郭が固定された。

固定されれば、捕まえられる。

縄女が首を取り、黒狗が影を噛み、煤喰いが背後の火を食う。

黒継ぎは叫んだ。

「俺は、返すだけだ!」

「何を」

「家を!」

「誰の」

「……誰の?」

その一瞬の迷いで、迷い塚の白い光が男を包んだ。

黒継ぎは膝をついた。

俺は黒箱の蓋を開けた。

「お前さんは、もう十分使われた。今度は俺が使う」

黒継ぎの体が黒い紐になってほどけ、箱へ吸い込まれていく。

最後に、男の声がした。

「終わらないぞ」

俺は答えた。

「知っとる」

蓋を閉めた。

八軒目の家が崩れ始めた。

千世が立ち上がる。

「ありがとうございます」

「礼は早い」

「いいえ。私はここまでです」

「お前さんも箱に入るか」

千世は静かに笑った。

「私は迷い塚へ行きます」

「祓われるのか」

「迷うだけです」

「それは救いか」

「分かりません。でも、ここに残るよりはましです」

白い光が千世を包んだ。

その姿が薄れていく。

俺は聞いた。

「鏑木一茶に言い残すことは」

千世は少し考えた。

「目を閉じても、罪は消えない」

そう言って、彼女は消えた。

次の瞬間、八軒目の家は川音に飲まれた。

俺の意識は、現実へ引き戻された。


目を開けると、俺は終わりの家の前に倒れていた。

霊仙が俺の胸元を掴んでいた。

「戻りましたね」

「乱暴な起こし方じゃ」

「死んだかと思いました」

「死んだら箱に入れろ」

「嫌です」

「薄情じゃのう」

まりあが泣きそうな顔でこちらを見ていた。

時田は地図を広げ、震える手で線を引いている。

「八軒目……本当にありました。古い河川台帳に、改修前の住宅記録が残っているはずです」

鏑木一茶は、白い屋敷の門前で膝をついていた。

その顔は、老人のように老けていた。

「千世……」

俺は起き上がった。

手の中には、鉄の鍵が残っていた。

黒く焼け、半分溶けている。

「鏑木一茶」

俺は呼んだ。

鏑木は顔を上げた。

「お前さんは錠前じゃ。鍵はもう使った」

「では、開くのですね」

「ああ」

「何が出ますか」

「五十年分じゃ」

「止められますか」

俺は白寿霊仙を見た。

霊仙は迷い塚の前で立っていた。

白い光は強い。
だが、その周囲に黒い亀裂が走っている。

「受けることはできます」

霊仙は言った。

「ただし、全部は無理です」

「残りは俺か」

「あなたが飲めば、戻れなくなります」

「戻る場所など、とうにない」

「あります」

霊仙の声が少し強くなった。

「あなたは、それを忘れているだけです」

俺は笑った。

「忘れたなら、ないのと同じじゃ」

終わりの家の厠が、完全に開いた。

七人の影が、外へ出てきた。

同時に、町の七つのお化け屋敷から黒い煙が立ち上る。

南西の屋敷は崩れ始めた。

白い屋敷の窓が割れた。

川の下から、見えない家の柱が軋む音がした。

五十年前の呪術合戦が、完全に再開した。

そして今度は、終わらせる番だった。

俺は黒箱を背負い直した。

「霊仙。迷い塚を広げろ」

「どこまで」

「町ごとじゃ」

「無茶です」

「聞き飽きた」

「深見さん」

「なんじゃ」

「死なないでください」

俺は少し黙った。

それから言った。

「約束はせん」

白寿霊仙は目を細めた。

「最低ですね」

「知っとる」

俺は終わりの家へ踏み込んだ。

厠の女が待っていた。

七人の影が、その背後に立っている。

女が言った。

「まだ、います」

俺は頷いた。

「なら、全員連れてこい」

黒箱が震えた。

俺は蓋に手をかけた。

「祓いは霊仙がやる。記録は時田がやる。泣くのは丘まりあが後でやれ」

まりあが怒鳴った。

「泣きません!」

「上等」

俺は笑った。

「喰うのは俺がやる」

厠の奥から、五十年分の闇が噴き出した。

そして俺は、その闇へ口を開けた。


第五章 町ごと喰う

闇には味がある。

古い怨みは鉄の味がする。
濡れた恐怖は泥の味がする。
祈り損ねた願いは、腐った米の味がする。

終わりの家から噴き出した五十年分の闇は、その全部が混ざっていた。

俺はそれを喰った。

喰うと言っても、口で飲むわけではない。
俺の影に開いた厠の戸が、闇を吸い込んでいる。

だが、味は俺の舌に来る。
臭いは俺の鼻に来る。
痛みは俺の骨に来る。

「深見さん!」

まりあの声が遠い。

「近づくな!」

俺は怒鳴ったつもりだったが、声は濁っていた。

喋る舌を使った代償が残っている。
声の底に、別の誰かの声が混じる。

白寿霊仙の迷い塚が、終わりの家の周囲に白い輪を作っていた。

その輪は少しずつ広がっている。

白い光が、灰を白い砂に変えていく。
黒焦げの柱が、乾いた音を立てて崩れていく。
厠の戸だけが、まだ残っている。

そこから七人の影が出てくる。

一人目は老人だった。

背を丸め、焼けた杖を持っている。
目も口も黒い穴だった。

「返せ」

老人が言った。

「何を」

俺が聞く。

「店を」

豪商の家の誰かだろう。

焼ける前、金を数え、土地を買い、人を動かしていた男。
最後には自分の家も守れなかった。

老人の影が俺に掴みかかる。

その手が俺の胸に触れた瞬間、俺の中に帳簿の幻が流れ込んだ。

名前。
借金。
担保。
嫁入り。
奉公。
土地。
井戸。
厠。
火伏せ料。
呪詛返し料。

人間の人生が、数字になって並んでいた。

「人の業ってやつは深いもんじゃ」

俺は老人の腕を掴んだ。

「放っとくと、すぐ腐りおる」

黒箱を開ける。

だが、白寿霊仙が叫んだ。

「その人は箱ではありません!」

「分かっとる」

俺は老人を迷い塚の方へ押した。

白い光が老人を包む。

老人は抵抗した。
だが、やがて膝をつき、帳簿を抱え込むようにして消えた。

迷い塚は祓わない。

迷わせる。

行き場のないものに、行き場を思い出させる。

二人目は女だった。

髪を結い、腹に赤子を抱えていた。

だが赤子は黒い塊で、泣き声だけがある。

「まだ、生まれていません」

女は言った。

「燃えたのか」

「はい」

「誰が火を付けた」

「分かりません」

「嘘じゃな」

女の顔が歪んだ。

「分かっています」

「誰だ」

女は白い屋敷を見た。

鏑木一茶が杖を握りしめた。

「言うな」

女は言った。

「火は、内側から出ました」

時田が息を呑んだ。

「内側……つまり、火災は事故ではない」

鏑木が叫んだ。

「違う! あれは封じるためだった!」

「封じるために、七人を焼いたのか」

俺が聞くと、鏑木は黙った。

厠の女が笑った。

「終わったこと」

その声は鏑木の声に似ていた。

俺は二人目の女を見た。

「お前さんは、何を望む」

「生まれなかった子に、名前を」

「名か」

俺は舌打ちした。

名を与えるのは危険だ。
名を与えたものは、こちらを向く。

だが、名のない赤子は怪異になりやすい。

「時田」

「はい」

「この地域の水に関する古い呼び名は」

時田は即座に答えた。

「改修前の川は、地元で“白瀬川”と呼ばれていた記録があります」

「なら、白瀬」

俺は赤子の黒い塊に言った。

「お前の名は、白瀬じゃ」

赤子の泣き声が止まった。

黒い塊が、薄い光になった。

女は泣いた。

「ありがとうございます」

「礼はいらん。名前をなくすな」

女と赤子は、迷い塚の中へ消えた。

その瞬間、俺の頭の中で誰かの名前が一つ消えた。

俺は少し立ち止まった。

誰の名だったか分からない。

だが大切だった気がする。

「深見さん」

霊仙がこちらを見ていた。

俺は顔を背けた。

「見るな」

「代償が出ています」

「代償なしで済む仕事なら、お前さんだけで足りる」

三人目は子供だった。

煤喰いが箱の中で暴れた。

子供の影は、笑っていた。

火事で死んだ子供は、泣くとは限らない。
笑うものもいる。

恐怖が限界を超えると、人間は笑う。

子供は黒焦げの毬を持っていた。

「遊ぼう」

「嫌じゃ」

「遊ぼう」

「年寄りを誘うな」

「遊ぼう」

その声が、町のあちこちに反響した。

七つのお化け屋敷の窓が、一斉に開く。

中から、同じ声が返る。

遊ぼう。
遊ぼう。
遊ぼう。

まりあが耳を塞いだ。

時田が言った。

「これは危険です。誘い込み型の怪異化を起こしています」

「子供の怪異は面倒じゃ」

俺は黒箱を叩いた。

「煤喰い」

箱の中から、か細い声がした。

「いやだ」

「出ろ」

「こわい」

「火事場の子供が怖いか」

「食べたくない」

「食うな。遊べ」

箱が沈黙した。

煤喰いは火事場の残留思念を食う怪異だ。
だが、もとは火事で死んだ子供の影に近い。

似たものは、似たものを呼ぶ。

俺は札を一枚剥がした。

煤喰いが黒い子供の形で出てくる。

終わりの家の子供が、毬を転がした。

煤喰いが、それを受けた。

二つの黒い子供が、焼け跡で毬を転がし合う。

まりあが呆然とした声で言った。

「戦っていない……」

「戦うだけが怪異の使い方ではない」

俺は言った。

「遊びで死んだものは、遊びでほどけることもある」

煤喰いが毬を返すたび、黒い煤が少しずつ白くなる。

終わりの家の子供は笑っていた。

最後に、毬が迷い塚の中へ転がった。

子供はそれを追いかけ、白い光の中へ入った。

煤喰いも追いかけようとした。

俺は首根っこを掴んだ。

「お前はこっちじゃ」

煤喰いがじたばた暴れる。

「遊びたい」

「また今度じゃ」

「嘘つき」

「そうじゃ」

煤喰いを箱に戻す。

代償として、俺の記憶が一つ焦げた。

子供の頃に遊んだ場所の記憶だった。

空き地だったか。
神社だったか。
川辺だったか。

もう分からない。

四人目と五人目は、夫婦だった。

二人は手を繋いでいた。

だが繋いだ手の間に、焼けた縄が絡まっている。

「離れられんのか」

俺が聞くと、妻の方が頷いた。

「生きている時からです」

夫が言った。

「死んでからもです」

「恨み合っとるのか」

二人は同時に答えた。

「はい」

「なら面倒じゃ」

夫婦の怨みは、よく絡む。

他人への恨みより深い。
愛情の腐ったものは、呪いとして強い。

妻は言った。

「この人が、火伏せの金を出し渋った」

夫は言った。

「この女が、陰陽師に話を流した」

妻は言った。

「この人が、子供を蔵に隠した」

夫は言った。

「この女が、蔵の鍵を捨てた」

俺はうんざりした。

「時田」

「はい」

「夫婦喧嘩を民俗学でどう扱う」

時田は一瞬だけ困った顔をした。

「家制度、財産継承、婚姻関係、親族間の権力構造として見ます」

「役に立たん」

まりあが小声で言った。

「でも、二人とも自分の罪を相手の罪に混ぜています」

「ほう」

「縄を切るより、それぞれの罪を分けた方がいいと思います」

俺はまりあを見た。

「泣く係にしては、頭が回る」

「泣きません」

「よし」

俺は名奪い札を二枚出した。

「夫の名。妻の名。それぞれ剥がす」

時田が顔を強張らせた。

「深見さん、それを使えばあなたの名も」

「一画くらい、また削れるだけじゃ」

「積み重なっています」

「知っとる」

札を夫婦の間の縄に貼る。

夫の恨み。
妻の恨み。

混ざっていた黒い縄が、二本に分かれた。

夫婦は同時に悲鳴を上げた。

自分の罪だけを、自分の手に戻されたからだ。

人間は、罪を混ぜる。

自分だけが悪いわけではない。
相手も悪い。
時代も悪い。
家も悪い。
金も悪い。
呪いも悪い。

そうやって薄める。

だが怪異にするなら、分けた方が早い。

夫婦の影は、互いに手を離した。

そして別々に迷い塚へ歩いた。

最後に妻が振り返った。

「恨んでいました」

夫が答えた。

「知っていた」

それだけで、二人は消えた。

六人目は老人の女だった。

七人目は、厠の女だった。

老人の女は何も喋らなかった。

ただ、終わりの家の地面に座り、両手で灰をすくっていた。

その灰を、自分の口へ入れている。

「何をしとる」

返事はない。

まりあが震える声で言った。

「食べてる……」

「灰を食う者は、家を食っとる」

時田が言った。

「家そのものへの執着ですか」

「たぶんな」

老人の女は、灰を食いながら、白い屋敷を睨んでいた。

鏑木一茶が杖を落とした。

「母……」

俺は鏑木を見た。

「お前さんの母か」

鏑木は答えなかった。

代わりに、老人の女が初めて口を開いた。

「守れ」

鏑木は震えた。

「守りました」

「守れ」

「五十年、守りました」

「守れ」

「もう、無理です」

老人の女は灰を食べ続けた。

守れ。

その一語だけが、呪いになっている。

親が子に残す呪いは強い。

愛情の顔をしているから、解きにくい。

俺は鏑木に言った。

「お前さんがやれ」

「私が?」

「お前さんの母じゃろう」

「私は……」

「錠前なら、最後まで錠前らしく閉まっていろ。人間なら、母親に一言くらい言え」

鏑木は立ち上がった。

ふらつきながら、終わりの家へ入ってくる。

霊仙の結界が一瞬揺れた。

「鏑木さん、それ以上は危険です」

「承知しています」

鏑木は老人の女の前に膝をついた。

盲目の目を閉じたまま、両手をつく。

「母上」

老人の女は灰を食べる手を止めた。

「守れ」

鏑木は言った。

「私は、守れませんでした」

老人の女の顔が歪んだ。

「守れ」

「家も、名も、土地も、死者も、何一つ守れませんでした」

「守れ」

「だから、もう命じないでください」

風が吹いた。

終わりの家の灰が舞う。

鏑木の白い着流しに、黒い灰が降り積もる。

老人の女は、初めて鏑木の頬に手を伸ばした。

その指は焼けていた。

「目は」

鏑木は答えた。

「見えません」

「なぜ」

「見たくなかったからです」

老人の女は笑った。

ひどく寂しい笑いだった。

「そうか」

それだけ言って、老人の女は灰になった。

迷い塚の白い光が、その灰を包む。

鏑木はしばらく動かなかった。

俺は言った。

「一人終わったな」

鏑木が低く答えた。

「まだ、一人います」

厠の女。

七人目。

だが俺には分かっていた。

あれは七人目ではない。

七人全部の口。
終わりの家の門。
八軒目の鍵穴。
火災の中心。

そして、おそらく最も人間に近いもの。

女は厠の戸口に立っていた。

「まだ、います」

俺は言った。

「知っとる」

「私が、います」

「名は」

女は黙った。

「名を言え」

女は笑った。

「名を言えば、あなたは私を箱に入れる」

「入れるかもしれん」

「迷い塚には行けません」

「なぜ」

「私は、燃やした側だから」

鏑木が顔を上げた。

「違う」

女は鏑木を見た。

「違わない」

時田が小声で言った。

「火は内側から出た。封じるため。だが実行した者が必要です」

まりあが言った。

「この人が……火を?」

女は頷いた。

「私は、火を点けました」

霊仙の表情が硬くなった。

「誰の命令ですか」

女は白い屋敷を見た。
南西を見た。
川の方を見た。

「全員です」

その一言で、町の空気が沈んだ。

女は続けた。

「豪商は勝ちたかった。拝み屋は封じたかった。陰陽師は返したかった。家族は守りたかった。私は、終わらせたかった」

「だから火を点けたのか」

俺が聞く。

「はい」

「七人が死ぬと知っていて」

「はい」

「自分も死ぬと知っていて」

「はい」

女は笑った。

「でも、終わりませんでした」

俺はしばらく黙った。

祓えるわけがない。

許されたい者は、迷い塚へ行ける。
恨みたい者も、迷い塚へ行ける。
迷っているからだ。

だが、この女は違う。

自分の罪を知っている。
知ったまま、終われない。

こういうものは、怪異になる。

俺の仕事だ。

「名は」

女は言った。

「火乃」

「ひの」

「はい」

俺は黒箱を開いた。

霊仙が言った。

「深見さん」

「止めるな」

「その人は、まだ人です」

「人だったものじゃ」

「迷い塚に入れる余地があります」

火乃は首を振った。

「ありません。私は、白いところへは行けません」

「なら、どうしたい」

俺が聞くと、火乃は俺を見た。

「覚えていてください」

「俺に頼むには、一番悪い願いじゃ」

「なぜ」

「俺は記憶をよく失くす」

火乃は少し笑った。

「なら、箱に」

「入れば、俺のものになる」

「はい」

「使うぞ」

「はい」

「碌な使い方はせん」

「はい」

俺は黒箱を火乃へ向けた。

「火乃。終わりの家の火口。七人目。火を点けた女。以後、俺の箱に入れ」

火乃の姿が赤く揺れた。

厠の戸が燃えるように光る。

だが炎は出ない。

火乃はゆっくり黒箱へ歩いた。

その背後で、終わりの家の厠が崩れ始める。

「まだ、います」

火乃は最後に言った。

「でも、もう閉じ込めません」

そして、箱へ入った。

蓋を閉めた瞬間、俺の左胸が焼けた。

服の下、皮膚に厠の戸の形をした痣が刻まれる。

俺は膝をついた。

「深見さん!」

まりあが駆け寄ろうとする。

霊仙が止めた。

「触らないで」

「でも!」

「今触ると、巻き込まれます」

黒箱の中で、火乃が泣いていた。

煤喰いが怯え、黒狗が唸り、縄女が黙り、名奪い札が震える。

新しい怪異が入った時、箱の中では序列が乱れる。

俺は箱を叩いた。

「静かにせんかい。ワシのもんじゃ」

箱の中が少し静まる。

だが完全には鎮まらない。

火乃は強い。

終わりの家の核だったから当然だ。

その時、南西の屋敷が完全に崩れた。

黒布の男――黒継ぎは、すでに俺の箱にいる。

だが、南西の屋敷そのものはまだ残っていた。

そこから、黒い柱が一本、空へ伸びた。

そして白寿霊仙の迷い塚に向かって倒れてきた。

霊仙が両手を広げる。

「迷い塚、二重据え」

白い結界が重なる。

黒い柱がそれにぶつかった。

町全体が揺れた。

時田が叫ぶ。

「南西の発射点が最後の呪詛を放っています!」

「誰が撃っとる」

「術者ではありません。構造そのものです!」

つまり、装置が自動で動いている。

五十年前に作られた呪術合戦の残骸が、術者を失っても最後の一撃を放っている。

俺は立ち上がった。

足がふらつく。

影は半分しかない。
胸には火乃の痣。
舌は濁り、名前は削れ、記憶は焦げている。

十分すぎるほど、ぼろぼろだ。

霊仙が叫んだ。

「深見さん、もう下がって!」

「無理じゃ」

「今度は本当に死にます!」

「何度も聞いた」

俺は黒箱を下ろした。

「終わりの家は取った。火口も取った。黒継ぎも取った。だが、呪術線が残っとる」

時田が言った。

「線を断つには、南西と北東の関係を切る必要があります」

「どうやって」

まりあが地図を見て叫んだ。

「川です!」

「川?」

「八軒目は川の下にありました。河川改修で消えた家が、線の中心にあります。川が流れを変えたから、呪いの流れも歪んだんです」

時田が続ける。

「つまり、線を切るのではなく、流す。旧河道に戻す必要がある」

「町を掘る気か」

「物理的には無理です。でも、民俗的にはできます」

「言え」

「水の名です。白瀬川。さっき赤子に白瀬と名を与えました。あの名が、旧河道への導線になります」

俺は笑った。

「丘まりあ」

「はい!」

「お前さん、泣かんだけではなく、役に立つ」

「泣きませんし、役に立ちます!」

「よし」

俺は黒箱を開いた。

「白瀬」

箱ではない。

迷い塚の中から、赤子の泣き声がした。

火事で生まれなかった子。
白瀬と名付けた赤子。

その声が、町の下を流れた。

見えない川音が強くなる。

アスファルトの下。
住宅の下。
大通りの下。
橋の下。
七つの家の下。

旧白瀬川が、記憶として流れ始めた。

霊仙がすぐに合わせた。

「迷い塚、流し据え」

白い光が円ではなく、川の形に変わる。

南西から北東へ走っていた黒い呪術線に、横から白い流れが入る。

黒い柱が揺らいだ。

時田が叫んだ。

「効いています!」

鏑木一茶が立ち上がった。

「私が錠前なら、最後に閉めます」

「できるのか」

俺が聞く。

「千世が鍵を使ったなら、私には閉じる役目が残っています」

「閉じれば、お前さんはどうなる」

鏑木は薄く笑った。

「ようやく終わるでしょう」

「逃げか」

「償いです」

「似たようなものじゃ」

鏑木は白い屋敷の方へ向いた。

割れた窓。
剥がれた札。
崩れかけた門。

五十年、終わりの家を見張ってきた屋敷。

栄えたように見えた家。

だが実際は、呪いの管理小屋だった。

鏑木は杖を掲げた。

「鏑木一茶。錠前として、閉じる」

白い屋敷から、残った札がすべて飛んだ。

札は終わりの家の上空で円を描き、南西の黒い柱に巻き付いた。

黒い柱は暴れた。

鏑木の体から血が流れる。

目からではない。
閉じた瞼の奥から、黒い涙が流れた。

まりあが叫んだ。

「鏑木さん!」

鏑木は答えた。

「見えない目で、ようやく見ました」

「何を」

「母の罪。家の罪。私の逃げ」

黒い柱が細くなる。

だが、まだ折れない。

霊仙の迷い塚も限界に近い。

白い髪に、黒い筋が混じっていた。

「霊仙」

俺は言った。

「あとどれくらい持つ」

「一分」

「十分じゃ」

「何をする気ですか」

「最後の収集じゃ」

俺は黒箱の最奥に手を入れた。

あの名のない怪異が、待っていた。

「また来たか」

「来た」

「何を払う」

「俺の影、残り半分」

「足りん」

「なら、声もやる」

「まだ足りん」

「記憶を三つ」

「どの記憶を」

俺は少し考えた。

本当は考えたくなかった。

「若い頃、初めて怪異を捕まえた夜」

「それはお前の始まりだ」

「くれてやる」

「白寿霊仙と出会った日の記憶」

「それは、あの女が怒る」

「知るか」

「母の顔」

俺は黙った。

名のない怪異は笑った。

「それを出せば、力を貸す」

「それは駄目じゃ」

「なぜ」

「俺が俺でなくなる」

「まだ、そう思っているのか」

俺は歯を食いしばった。

その時、白寿霊仙の声が聞こえた。

「深見胡堂」

珍しく、霊仙が俺をフルネームで呼んだ。

「母の顔は渡してはいけません」

「聞こえとったか」

「聞こえます」

「勝手に聞くな」

「あなたは、そういうものを守るために怪異を集めている」

俺は笑った。

「俺を善人にするな」

「善人ではありません」

「なら何じゃ」

「まだ人間です」

黒い柱が結界を割った。

時間がない。

俺は名のない怪異に言った。

「影の残り。声。始まりの記憶。霊仙と出会った日の記憶。これで足りんか」

「足りん」

「なら、お前に名をやる」

箱の奥が静まった。

「何だと」

「名をやる。だから働け」

「名を付ければ、俺はお前を喰うかもしれん」

「やってみろ」

「お前は後悔する」

「後悔なら腐るほど集めた」

俺は黒箱の奥へ向かって言った。

「お前の名は、終喰い」

しゅうぐい。

終わりを喰うもの。

名を与えた瞬間、俺の黒箱が内側から膨らんだ。

山高帽が吹き飛ぶ。
黒いスーツの袖が裂ける。
俺の足元の影が完全に消える。

代わりに、背後へ巨大な口が現れた。

歯のない口。
底のない口。
閉じることを知らない口。

終喰い。

そいつは笑った。

「ようやく、名が付いた」

「働け」

「何を喰う」

「呪術線の終わりじゃ」

「よかろう」

終喰いの口が、南西から北東へ伸びる黒い線に噛みついた。

町全体が悲鳴を上げた。

七つの家の窓が割れ、屋根が沈み、壁が剥がれる。

だが、それは破壊ではない。

膿が抜けている。

黒い線が、ばりばりと音を立てて喰われていく。

南西の屋敷から終わりの家まで、五十年続いた呪いの道が、終喰いの腹へ落ちる。

俺の声が消えた。

喉から音が出ない。

記憶が二つ消えた。

初めて怪異を捕まえた夜。
白寿霊仙と出会った日の記憶。

消えた瞬間、霊仙の顔を見ても、なぜ懐かしいのか分からなくなった。

ただ、失ってはいけないものを失った感覚だけが残った。

霊仙が泣きそうな顔をした。

「深見さん……」

俺は声が出なかった。

だから、手を振った。

まだ終わっていない。

終喰いが黒い柱を噛み砕く。

鏑木の札が最後の輪を作る。

迷い塚の白い流れが、旧白瀬川へ呪いを流す。

黒い柱は、ついに折れた。

南西の空が白んだ。

夜明けだった。

五十年ぶりに、終わりの家へ朝日が入った。

厠は完全に崩れていた。

黒柱も倒れている。

灰だらけの地面に、一本だけ小さな草が出ていた。

まりあがそれを見つけて、口元を押さえた。

「草……」

時田が静かに言った。

「忌み地が、戻り始めた」

白寿霊仙は膝をついた。

小型迷い塚の一つに、黒い亀裂が入っていた。

鏑木一茶は、白い屋敷の門前で倒れていた。

俺は黒箱を閉めた。

終喰いが中で笑っている。

声はない。

影もない。

胸には火乃の痣。

箱には黒継ぎ、火乃、そして終喰い。

報酬にしては重すぎる。

怪異を捕まえるということは、そいつがしてきたことを、半分だけ背負うということだ。

今回は、半分では済まなかった。

俺は倒れた鏑木のそばへ行った。

鏑木はまだ息をしていた。

「深見……さん」

俺は返事をしようとしたが、声が出ない。

鏑木は笑った。

「声を……失いましたか」

俺は頷いた。

「私も、目を失いました。見たくなかったからです」

鏑木は震える手で、自分の胸元から小さな札を取り出した。

「これを」

俺は受け取った。

古い札だった。

表には、鏑木千世の名があった。

「母ではなく……祖母でもなく……本当は、最初の器だった人です」

鏑木の声が細くなる。

「忘れないでください」

俺は札を握った。

忘れないでくれ。

それが一番困る願いだ。

だが俺は頷いた。

鏑木は少し笑った。

「あなたは……ひどい人だが……嘘は少ない」

そして、目を閉じたまま動かなくなった。

まりあが泣いた。

本人は泣かないと言っていたが、泣いた。

俺は何も言わなかった。

言えなかった。

時田は帽子を脱ぎ、終わりの家に向かって一礼した。

白寿霊仙は、迷い塚の亀裂を撫でていた。

「終わりました」

まりあが涙声で言った。

「本当に、終わったんですか」

俺は首を振った。

終わりは喰った。

だが、終わりを喰ったものが箱にいる。

つまり終わりは、俺の中で続く。

それでも土地は戻る。

人が住めるかは分からない。
家が建つかも分からない。
だが、草は生えた。

虫も来るだろう。
鳥も落ちずに飛ぶだろう。

それで十分だ。

白寿霊仙が俺の前に立った。

「深見さん」

俺は彼女を見た。

白い髪。
白い肌。
赤みのある瞳。

知っている女だ。

だが、出会った日の記憶がない。

霊仙はそれに気づいたのだろう。

少しだけ、目を伏せた。

「私のことは分かりますか」

俺は頷いた。

白寿霊仙。
白き祓い師。
迷い塚の使い手。
腐れ縁。

情報としては分かる。

だが、感情の根が一本抜けていた。

霊仙は静かに言った。

「あなたは、また大事なものを払いました」

俺は肩をすくめた。

声が出ないから、そうするしかない。

霊仙は俺の胸の痣に手を近づけ、触れずに止めた。

「火乃が入っていますね」

俺は頷いた。

「黒継ぎも」

頷く。

「終喰いも」

俺は少し迷い、頷いた。

霊仙の顔が厳しくなった。

「名を付けたのですか」

頷く。

「馬鹿です」

俺は笑った。

声は出ない。

だが笑えた。

白寿霊仙は怒っていた。

怒っているのに、泣きそうだった。

「帰ったら、三日は箱を開けないでください」

俺は首を振った。

「開ける気ですね」

頷く。

「最低です」

頷く。

まりあが涙を拭きながら言った。

「会話できてる……」

時田が疲れた声で言った。

「長い付き合いなのでしょう」

霊仙は答えなかった。

俺には、その長い付き合いの始まりが分からない。

だが、続いていることだけは分かった。


第六章 収蔵

事件の後、町は騒ぎになった。

七つの廃屋のうち、三つが自然倒壊した。
二つは内部の柱が腐り落ちていた。
一つは朝になってから壁一面に古い札が浮かび上がった。
南西の屋敷は完全に潰れた。

終わりの家には、五十年ぶりに草が生えた。

新聞には載らなかった。

載ったのは、老朽化した空き家の連続倒壊と、古い土地問題の再調査だけだ。

それでいい。

本当のことを新聞に載せても、誰も読まない。
読んでも信じない。
信じても、次の日には忘れる。

俺たちは夜が明けきる前に町を出た。

鏑木一茶の遺体は、白い屋敷の中へ運ばれた。

時田が警察や役所向けの説明を組み立てた。
丘まりあが記録を整理した。
白寿霊仙は迷い塚の亀裂を布で包んだ。

俺は何もしなかった。

声が出ないからだ。

いや、声だけではない。

影がない。

朝日を浴びても、俺の足元には何も伸びない。

まりあがそれに気づいて、何度も足元を見ていた。

「深見さん、影が……」

俺は手で制した。

余計なことを言うな。

時田は深刻な顔で言った。

「今回の記録は、公開できません」

俺は頷いた。

「公開すれば、終わりの家が観光地化します」

頷く。

「人が集まれば、また怪異が名を得る」

頷く。

「だから、民俗資料として封印します」

俺は親指を立てた。

まりあが言った。

「でも、完全に隠すと同じことが起きませんか」

時田は少し考えた。

「地名、家名、配置を伏せたうえで、構造だけは残す」

俺は頷いた。

それでいい。

怪異は忘れすぎても駄目だ。
覚えすぎても駄目だ。

名を消せば、形を失って散る。
名を広めれば、形を得て増える。

だから、輪郭だけを残す。

民俗学者の仕事は、案外そこに近い。

俺の仕事とも、少し似ている。

気に入らんが。


三日後。

俺は自分のアパートに戻った。

部屋は荒れていた。

濡れ人形は押し入れの前で倒れ、鏡の女は鏡の中で背を向けていた。
切符箱は勝手に開き、知らない駅の風を吹かせている。
髪束は俺の帰りを待っていたように、畳の上で丸くなっていた。

俺は黒箱を部屋の中央に置いた。

声はまだ出ない。

だが、収蔵はしなければならない。

俺は筆を取った。

札を書く。

まず一枚目。

黒継ぎ。
南西陰陽師筋の憑きもの使い。
名を失い、憑き物に使われた者。
用途、複合憑きの分解。
危険度、甲。

二枚目。

火乃。
終わりの家の火口。
火災実行者。七人目。
罪を知る女。
用途、封鎖空間の開口。火災残留思念の誘導。
危険度、特甲。

三枚目。

終喰い。
名なしの最奥怪異に命名。
終わりを喰うもの。
用途、未定。
危険度、測定不能。
備考、使用禁止。

書いてから、自分で笑った。

使用禁止と書いたものほど、いつか使う。

そういうものだ。

黒箱の中から声がした。

「深見胡堂」

終喰いだ。

俺は返事をしなかった。

できなかった。

「声を失ったか」

俺は筆で紙に書いた。

一時的だ。

「本当にそう思うか」

俺は紙を丸めて捨てた。

黒箱の中で、火乃が小さく泣いている。

煤喰いがそれを怖がりながらも、近くにいる気配がある。

黒狗は黒継ぎを警戒している。
縄女は沈黙。
名奪い札は、新しい名を舐めるように震えている。

収蔵庫は、少し混んできた。

俺は棚に新しい小瓶を置いた。

瓶の中には、終わりの家の灰を少し入れてある。

ラベルを書く。

終わりの家。
北東火口跡。
草一本発生後採取。
再生確認。

それから、鏑木千世の札を別の箱に入れた。

これは怪異ではない。

記録だ。

忘れないためのもの。

俺は忘れる。
代償で記憶を失う。
だから物に書く。
札に残す。
箱に入れる。

人間は記憶でできていると言うが、俺の記憶は穴だらけだ。

なら俺は、札と箱でできているのかもしれん。

机の上に、小さな白い封筒が置いてあった。

白寿霊仙からだ。

中には短い手紙。

「三日は箱を開けるなと言いました。あなたは必ず開けるので、せめてこの札を貼りなさい」

白い札が一枚入っていた。

迷い塚の小札。

俺は少し迷ったが、黒箱の蓋に貼った。

箱の中で終喰いが笑った。

「女に守られるのか」

俺は筆で紙に書いた。

黙れ。

「声がないと不便だな」

不便ではない。静かでいい。

「嘘だ」

俺は紙を破った。

その時、部屋の隅の鏡が揺れた。

鏡の中の女が、こちらを見ていた。

そして、一拍遅れて笑った。

俺も笑った。

だが、鏡の中の俺は笑っていなかった。

俺の影はない。

その代わり、鏡の中の俺の背後に、厠の戸が立っていた。

白い戸だ。

終わりの家に残っていた、あの戸。

戸の隙間から、火乃の赤い目が覗いた。

「まだ、います」

俺は筆を取った。

紙に書く。

知っとる。

火乃は笑った。

「あなたの中にも、まだいます」

俺は筆を止めた。

何がいるのか、聞くべきではない。

聞けば名が付く。

名が付けば、形を持つ。

形を持てば、箱に入れなければならない。

だが、箱に入れられないものもある。

俺自身だ。

夜が来た。

アパートの外で、虫が鳴いている。

終わりの家では、もう虫が回り道をしないだろう。
鳥も落ちない。
草も増える。

なら、仕事は終わった。

そう思いたかった。

黒箱の中で、終喰いが囁いた。

「俺は終わりを喰った」

俺は黙っていた。

「次に喰うものが必要だ」

俺は黒箱を叩いた。

「お前は俺のもんじゃ」

声は出なかった。

だが、口の形だけで言った。

終喰いは笑った。

「そうだ。俺はお前のものだ」

少し間を置いて、そいつは続けた。

「では、お前は誰のものだ」

俺は答えなかった。

答えられなかった。

棚には、新しい瓶が増えた。
黒箱には、新しい怪異が増えた。
胸には、厠の戸の痣が残った。
足元には、影が戻らなかった。

俺は怪異を集めている。

だが最近、思うことがある。

集められているのは、俺の方かもしれない。


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