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サンジに謝れ—新宿2丁目という名のオールブルー


第1章:悪魔の風脚(ディアブルジャンブ)は冷え性に効かない

男の価値は、その足跡で決まる。

星野瞬(ほしの しゅん)——

いや、この乾いた現代社会において彼をそう呼ぶ者はいない。

彼は自らを『シュンジ』と定義していた。

高校1年生の春。

五月の生ぬるい風が吹き抜ける県立高校のグラウンドで、シュンジは一人、深紅の夕日を見つめていた。

彼の頭部には、ネットで2980円で購入した、化学繊維特有の不自然な光沢を放つ金髪のウィッグが鎮座している。

風が吹くたび、地肌の生真面目な黒髪がチラチラと覗くが、シュンジの鋭い眼光がそれを相殺していた。

「……おい、星野。お前またそれか」

背後から、ひどく平坦な、それでいて凍りつくような低音ボイスが響いた。

野球部マネージャーの如月凛(きさらぎ りん)である。

彼女は手にしたスコアブックから1ミリも目を離さず、淡々と続けた。

「鬼頭監督がキレてたぞ。『人数合わせで無理やり入部させたのは悪かったが、さすがに金髪のヘルメットは入らん』って。

あと、部室の後ろにココアシガレットの空き箱をピラミッド状に積むのをやめろ。アリが湧く」

シュンジは動じない。

ゆっくりと振り返り、ポケットからおもむろに「ココアシガレット」を1本抜き取った。

それをニヒルな笑みとともに口にくわえ、親指の爪で架空のライターをカチリと点火する。

風に乗って漂うのは、本物の煙草の煙ではない。

チープなハッカ粉と、人工甘味料が混ざり合った、どこか哀愁を誘う駄菓子の甘い香りだった。

「……レディ。そんなにトガるなよ。おれの手は、戦うためには作られていない。美味い料理を、飢えた奴らに食わせるためにあるんだ」

「星野くん、あなた料理できないですよね。

家庭科の調理実習で、ジャガイモを彫刻刀の三角刀で彫り込んで、ただの『木彫りの熊』みたいにして家庭科室を出禁になったの、先週の話ですよ」

「それは、ナイフの『素材』がナミさんの肌のように繊細ではなかったからだ」

「あとそれ、タバコじゃなくてハッカ味の砂糖菓子ですよね。さっさと噛み砕いてトンボかけに行ってください。試合の人数が足りないんです」

凛の指摘は、冬のシベリアよりも冷酷だった。

だが、シュンジの心は折れない。

なぜなら、彼の魂は『ONE PIECE』の黒足のサンジによって完全に支配されていたからだ。

男なら、騎士道を貫け。女の嘘は、許すのが男だ。

シュンジはその教えを、血の滲むような覚悟で家庭内でも実践していた。

自室の電気を消すたび、足技の基本である踵落とし(コンカッセ)の軌道でスイッチを正確に蹴り砕くため、壁のプラスチックカバーはすでに粉々に吹き飛んでいる。

散らかったココアシガレットの空き箱をゴミ箱へ片付ける際は、ノールックのサマーソルトキックで背後へ跳ね上げようとして天井のシーリングライトに直撃させ、部屋中を割れた蛍光灯のガラスまみれにした。

さらに極めつけは、昨夜の夕食時である。

母親から「そこのお醤油取って」と頼まれた際、シュンジは手を使わず、足の甲でボトルをすくい上げ、鋭いバックスピンをかけて食卓へパスしようとした。

結果、醤油ボトルはヘリコプターのように激しく回転しながらリビングを飛び交い、壁紙に劇的なマダラ模様(醤油のシミ)を描き出したのだった。

「誰がお醤油を『首肉(コリエ)シュート』でパスしろって言った!?

壁紙の張り替え代、バイトして稼いできなさい!」

という母親のガチギレ。

これらすべては、サンジに近づくための、気高き試練であった。

しかし。

シュンジには、致命的な、あまりにも致命的な弱点があった。

(……くそっ、やっぱり駄目だ……!)

シュンジは、巨大な木製トンボを引きずり、グラウンドの土を執拗に平らにならしながら、心の中で血の涙を流していた。

先ほどから、凛が1メートル以内に近づくたびに、彼の心臓はドラムマニアの上級モードのごとく乱れ打ちを始め、指先は極度の緊張で冷え切っていた。

そうなのだ。

シュンジは、女子とまともに会話ができない「ド級の陰キャ」であった。

サンジさんなら、ここで「メロリ〜〜ン!」と叫び、目をハートにして狂喜乱舞するはずだ。

レディのピンチには命をかけ、その美しさを全力で讃える。それが至高の騎士道。

なのに、今の自分はどうだ。

凛に話しかけられただけで過呼吸の一歩手前になり、口に含んだココアシガレットの砂糖成分が唾液で溶けて、甘い汁が喉にへばりついている。

「おい、星野! 何をボサッとしとるかァ!」

グラウンドから、鬼頭監督の怒声が飛ぶ。昭和の生き残りのような、熱血漢の塊だ。

「トンボかけが遅い! そんなことだから万年補欠なんだ!ほら、気合を入れろ!」

「……す、すんません……」

シュンジは、蚊の鳴くような声で逆らわずに謝罪した。

金髪のウィッグが痛々しく傾く。

サンジのフリをしている時だけは強くなれる気がした。

だが、一皮剥けば、そこには女子が苦手で、野球のルールもろくに知らない、ただの冴えない高校1年生がいるだけだ。

「おれは、サンジさんにはなれない……」

部室の裏。

夕闇がすべてを覆い隠す中、シュンジはくわえていたココアシガレットを、ボリボリと音を立てて虚しく噛み砕いた。

ハッカの刺激が、鼻の奥をツンと刺す。

サンジさんは、選ばれし本物の「男」だ。

自分のような紛い物の男には、あの領域へたどり着く資格すらない。

絶望が、シュンジの細い肩を重く包み込んでいった。

彼の背負った偽りの金髪が、夜の静寂の中で、寂しく光を失っていく。

——彼が、あの「奇跡の生命体」と出会うのは、まさにこの30分後のことであった。

(第1章・完)


第2章:地獄(カマバッカ)からの使者

夜の帳(とばり)が下りた歓楽街は、昼間の生真面目な世界とは違う匂いがする。

星野瞬——いや、シュンジは、雨上がりの冷たいアスファルトを力なく歩いていた。

部活帰りのエナメルバッグが、やけに肩に食い込む。

ネットで2980円で購入したウィッグは、くしゃくしゃに丸められてバッグの底に沈んでいた。

ネオンサインが濡れた路面に反射し、まるで怪しげな万華鏡のように揺らめいている。

今の彼は、金髪という鎧を失った、ただの「パッとしない高校1年生」だった。

「結局、おれは偽物だ」

ポケットからココアシガレットの箱を取り出す。残りはあと1本。

それを震える指先で口にくわえたが、もはや親指の爪で架空のライターを点火する気力すら湧かなかった。

サンジさんのような、世界中のレディを愛し、愛される本物の男。

それに比べて自分は、女子マネージャーに話しかけられただけで喉にハッカの甘い汁を詰まらせる、ただのド級の陰キャ。

その時だった。

「——ちょっとォ、そこのボーイ」

路地裏の自販機の影から、地鳴りのような重低音と、耳を劈(つんざ)くような不自然なソプラノが混ざり合った、未知の波動(こえ)が響いた。

シュンジの全身の毛穴が、一瞬で収縮する。

ゆっくりと振り返った彼の目に飛び込んできたのは、人間の網膜を直接破壊しかねないほどの「異物」だった。

そこに立っていたのは、人間の頭部における標準的な規格を明らかに無視した、圧倒的な巨顔の人物であった。

頭頂部には、深夜のクラブミラーボールのように怪しく輝く、紫色のスパンコール付きアフロヘア

まぶたには、夜間の中央高速道路よりも深く濃いブルーのアイシャドウが塗られ、バサバサと蠢くつけまつげが、まばたきをするたびに「ファサッ、ファサッ」と風を切る音を立てている。

服装は、伸縮性の限界に挑むかのような、パツパツの紫色のレオタード。

その股下からは、泥を蹴り上げるために生まれてきたかのような逞しい生足が、目の粗い黒網タイツに包まれて伸びていた。

「エンポリオ・岩田」

この街の夜の深淵に君臨する、スナック『ニューカマー』のママであった。

岩田ママは、雨に濡れたアスファルトの上で、音もなく完璧なキャットウォークを披露しながらシュンジに近づいてきた。

その距離、わずか30センチ。

銀座の夜を思わせる超高級ブランド香水の濃厚な芳香と、ドラッグストアで叩き売りされているファンデーションの粉っぽさが、不規則な霧のようにシュンジの顔に降りかかる。

二人の間に、重苦しい「間」が流れた。

沈黙。

三秒。

二秒。

一秒。

自販機の「あったか〜い」と書かれた赤いランプが、二人の真顔を等しく紅潮させていた。

カメラアングルは、微動だにしない。

岩田ママは、シュンジの口元をじっと見つめていた。

「……それ、タバコじゃないわねナブル?」

「……え」

「ハッカ味の砂糖菓子でしょ、それ。ココアシガレット。ヴァターシ、目がいいのよ。ブルーベリーのサプリ、毎日3粒飲んでるから」

岩田ママは、シュンジの唇からココアシガレットをひょいと奪い取ると、自らの分厚い唇の端に挟み直した。

そして、劇画調の渋い面持ちで、重く立ち込める夜空を見上げた。

もちろん、火はついていない。なぜなら砂糖菓子だからだ。

「……シケたツラしてんじゃないわよォ、ボーイ。そんな顔してっと、幸せの神様が逃げちゃうナブルよ?」

「……おれには、資格がないんです」

なぜだろうか。

初対面の、しかも深夜の路上において遭遇した圧倒的に不審なオカマを前にして、シュンジの口から本音が漏れた。

野球部で女子相手には1文字も喋れないのに、この規格外の生命体を前にすると、不思議と緊張が消えていた。

性別という概念が、目の前の肉体によって完全にゲシュタルト崩壊していたからかもしれない。

「男らしくなろうとしたんです。おれの憧れのヒーローみたいに、格好よくて、レディを命がけで愛せるような、本物の男に。

でも、おれには才能がなかった。女子と目が合うだけで、心臓が爆発しそうになる。おれは、男として欠陥品なんです」

シュンジはうつむいた。涙が、ローファーのつま先に落ちて弾けた。

岩田ママは、しばらく無言だった。

やはりカメラは動かない。

ママはくわえたココアシガレットを「ボリッ」と静寂を切り裂くような大音量で噛み砕き、そのまま飲み込んだ。

そして、網タイツに包まれた巨躯を震わせ、大真面目な顔で天を仰いだ。

「——ヒーーーハーーーーーー!!!!」

夜の路地裏に、野生の猛獣のような咆哮が響き渡る。

自販機の空き缶がかすかに共鳴して震えた。

「な、なんですか……!?」

「バカ言んじゃないわよォ!!!」

岩田ママは、シュンジの両肩を、丸太のような腕でガシッと鷲掴みにした。

その表情は、人類の行く末を案じる哲学者のようにシリアスだった。

「男らしさ? 女らしさ? そんなの、誰が決めたドレスコードよ!

ヴァナタ、そんなちっぽけな境界線に縛られて生きてて、楽しい!?

ヴァターシを見てごらんなさい!

男だの女だの、そんな概念はとっくに超越(スルー)して、今、この夜の街を一番自由に泳いでるわ!!!」

岩田ママのブルーのアイシャドウが、街灯の光を浴びて妖しく、そして神々しく輝いた。

「自分を偽って、型にハメようとするなんてナンセンス!

奇跡はね、諦めない奴の頭上にしか降りて来ないのよォ!!!」

岩田ママの言葉が、シュンジの脳髄にダイナマイトを仕掛けて爆破したかのような衝撃を与えた。

(……境界線を、超越する……?)

シュンジの脳内で、今までバラバラだったパズルのピースが、あり得ない角度でガチリと噛み合った。

サンジさんは男だ。だからレディを愛した。

だが、自分には女性を愛する才能がない。

ならば——。

「おれ自身が、レディ(女)になればいいのではないか……!?」

そうすれば、女子と喋れない陰キャという問題は完全に消失する。

なぜならおれ自身が女子枠になるからだ。

さらに、サンジさんの「女を絶対に蹴らない」という高潔な騎士道を、「自分自身を絶対に傷つけないという究極の自愛(完全防御)」として自分の体にインストールできる。

完璧だ。これ以上ないほどに合理的で、美しいロジックだ。

悪魔の風脚(ディアブルジャンブ)——

つまり、腰のひねりから放たれる炎の蹴り技だ。

サンジさんの場合、炎が宿る。

おれの場合——オカマ・ターンが宿る。

これ以上のロジックが、どこにある?

サンジさんを超えるための答えは、カマバッカ(新宿2丁目)にあったのだ。

「ママさん……おれ、修行がしたいです。おれを、あなたのよう、いや、あなた以上のニューカマーにしてください!」

泥水に膝をつき、大真面目に懇願する金髪(偽)の少年。

岩田ママは、くわえていたココアシガレットの空き箱を天高く放り投げ、満足そうに微笑んだ。

「いい覚悟よォ、ボーイ。

……いえ、これからは『シュンジ』と呼ばせてもらうわ。

ようこそ、新世界(ニューカマー)へ!!!」

街灯の光に照らされながら、二人の奇妙な師弟関係が、深夜の路地裏で静かに結ばれた。

シュンジの瞳には、かつてないほどの狂気と、そして**「本物のハードボイルド」**の炎が静かに燃え盛っていた。

(第2章・完)


第3章:地獄の洗礼(ニューカマー・エンポリオ)

地獄の門は、案外身近な場所に開いている。

放課後の新宿2丁目に佇むスナック『ニューカマー』の重い扉の向こうで、シュンジの「修行」は始まっていた。

夜な夜な岩田ママから叩き込まれるのは、骨盤を極限までくねらせるキャットウォーク、発色にこだわったメイクの塗り方、そして野生の猛獣をも怯ませる「魂のヒーハー」の発声練習。

それらは、シュンジの脳内において、かつて黒足のサンジがカマバッカ王国で繰り広げた「血の滲むような地獄の試練」と100%同じ意味を持っていた。

「腰よ! 腰のひねりが甘いわシュンジ!

そんな生ぬるいキャットウォークじゃ、2丁目の波には乗れないナブルよ!」

「はい、ママ……!」

汗と安価なファンデーションに塗れながら、泥水をすするような思いでランウェイ(※スナックのカウンター前の細い通路)を往復する日々。

すべては、サンジさんを超えるため。

そしてその「修行の成果」は、ある日の県立高校グラウンドにおいて、恐るべきビジュアルとなって具現化することになる。

「……星野くん」

五月の乾いた風が吹き抜けるベンチ裏。

野球部マネージャー、如月凛の声が、いつにも増して、低く、冷たく響いた。

彼女の視線の先には、いつも通りネットで2980円で購入した金髪ウィッグをかぶり、口にココアシガレットをくわえたシュンジの姿があった。

しかし、今日の彼は何かが決定的に違っていた。

白いはずのユニフォームのズボン。それが太ももの付け根あたりで大胆にたくし上げられ、安全ピンでパツパツに固定されている。

そして、その露出した細い生足には、目の粗い黒の網タイツがぴっちりと穿き込まれていた。

さらに、その顔面は、素人が見ても「やりすぎ」とわかるほどのフルメイクが施されている。

まぶたは真夜中の高速道路よりも深いブルーに塗られ、まつ毛は天を突き、唇には深紅のリップが、これでもかと厚塗りされていた。

凛はスコアブックをパタンと閉じ、真顔のまま、3秒間シュンジを凝視した。

沈黙。

三秒。

二秒。

一秒。

グラウンドでは、フリーバッティングをしていたはずの部員たちが、全員一斉にバットを止め、彫刻のように静止していた。

サードの守備に入っていた部員は、捕球の姿勢のまま微動だにせず、ただ瞳の光彩だけをシュンジの網タイツに向けている。

二人の間にある空気だけは、完全に凍りついていた。

「星野くん、あなた何してるんですか」

「……フッ、見ればわかるだろう、レディ」

シュンジは、網タイツの脚を華麗に交差させ、劇画調の渋い顔でココアシガレットをくわえ直した。

「これは、おれがサンジさんを超えるための、合理的かつ究極のファイティング・スタイルだ」

「野球部のユニフォームを安全ピンで改造して網タイツを穿く合理性を5文字以内で説明してください」

「『完(かん)』『全(ぜん)』『防(ぼう)』『御(ぎょ)』だ」

シュンジは、無駄にキレのある動きで腰をくねらせ、ポージングを決めた。

「いいか、よく聞け、レディ。サンジさんは女性を絶対に蹴らない。だが、今の陰キャなおれには、女性を愛する資格も、守る力もない。

ならば……おれ自身が『女性(ニューカマー)』になればいい。

そうすれば、おれは世界中の誰からも蹴られない、無敵の絶対防御(自愛)を手に入れたことになる。これ以上の合理主義(ロジック)があるか?」

大真面目だった。

シュンジの瞳には、一切の迷いがない。

彼は本気で、この狂ったロジックが世界の真理であると信じ込んでいる。

凛は、手元のスコアブックの余白を見つめながら、感情を一切排除した声で言った。

「それ、ただの現実逃避ですよね。

あと、そのストッキングの網目が野球のバックネットより粗いので、グラウンドの黒土がダイレクトに侵入して、さっきから普通に痛そうなんですけど」

「痛覚など、とうに捨てた。おれが今見つめているのは、新世界(2丁目)だけだ」

「あと、右のつけまつげが半分剥がれて、カブトムシの足みたいになってます。鬼頭監督に見つかったら、今度こそバットで殴られますよ」

「フッ、監督のストレートなど、おれの『キャットウォーク・ステップ』の前には、止まって見えるさ……」

シュンジは、そのままグラウンドへとキャットウォークで繰り出していった。

スパイクの代わりに通学用のローファーを履いているため、カツカツと奇妙な音がグラウンドに響く。

背後では、完全に静止していた部員たちが、一斉に、無言のまま、手に持っていたバットを静かに地面へと置いた。

それを見送る凛の表情は、どこまでも冷ややかだった。

「星野くん。あなた、野球のルール、まだ『3回空振りしたら終わり』しか知らないですよね」

凛の正論は、虚空へと消えた。

直後、グラウンドからは、「おい! なんだあの金髪で網タイツのバケモノは! 誰の許可を得てグラウンドに新生物を放した!」という鬼頭監督の絶叫が響き渡る。

だが、シュンジは止まらない。

彼は今、確かに修行の階段を上っている。

男らしさという呪縛から解き放たれ、ただの補欠から、最強の「異物」へと変貌を遂げつつあった。

——そして、この狂った「修行」が、まさか夏の大会予選で**『奇跡』**を起こすことになるとは、この時の凛も、監督も、終始ポーカーフェイスの部員たちも、まだ知る由がなかった。

(第3章・完)


第4章:奇跡のニューカマー・ラン

男の戦場には、時に言葉を超えた奇跡が必要だ。

夏の高校野球、予選。

猛烈な熱波が、満員のスタンドとグラウンドの黒土を容赦なく焦がしていた。

セミの声すら熱気にかき消される中、県立緑ヶ丘高校野球部のベンチは、文字通りの「地獄」と化していた。

「だ、駄目だ……もう、おしまいだ……」

ベンチの定位置で、鬼頭監督が真っ白な灰のように燃え尽きようとしていた。

スコアは12対0

5回裏、対戦相手の私立強豪校に手も足も出ず、部員たちはあまりの暑さと圧倒的な実力差に完全に戦意を喪失していた。

さらに追い打ちをかけるように、昭和の猛将・鬼頭監督が、過度のプレッシャーと現代の猛暑による熱中症で、過呼吸を起こして卒倒しかけていたのである。

「はぁ、はぁ、お、おれの野球人生が……コールド負け……コンプライアンス……」

「監督! しっかりしてください! 誰か、水分と冷やしたタオルを!」

パニックに陥る部員たち。ベンチに渦巻く絶望の泥濘(ぬかるみ)。

だが、その混沌を引き裂くように、ベンチの最暗部から「カツ……カツ……」と、スパイクのものではない硬質な足音が響いた。

「——下がりなさい、ボーイたち」

全員の視線が、その影に集まる。

そこに立っていたのは、もはやユニフォームの原型を留めていない「新人類(ニューカマー)」だった。

ネットで2980円で購入した金髪ウィッグを脱ぎ捨て、見事な地毛の黒髪をポニーテールに結びあげた星野瞬——いや、シュンジ。

その顔面には、岩田ママ直伝の、汗でも1ミリも流れない「ウォータープルーフ仕様」のバキバキのフルメイクが施されていた。

ユニフォームの裾は胸元でパツパツに結び上げられ、たくし上げられたズボンの下からは、砂にまみれた黒の網タイツが、鈍い光を放っている。

シュンジは、驚愕で固まる部員たちをキャットウォークでかき分け、鬼頭監督の前に大真面目な顔でひざまずいた。

「星野、お前その格好……」

「監督。奇跡はね、諦めない奴の頭上にしか降りて来ないのよォ!!! ヒーハー!!!」

「ヒッ——」

叫ぶや否や、シュンジは丸太のような腕(※ただの細い高校1年生の腕)をしならせ、鬼頭監督の胸元と頬に、猛烈なスピードでビンタと、狂おしいほどのハグを叩き込んだ。

それは解剖学や救急措置を100%無視した、岩田ママ直伝の「オカマの圧倒的包容力による精神注入(マッサージ)」であった。

ベンチ内の全部員が、まるで前衛芸術の緊迫したステージを観賞する観客のように、誰一人ツッコミを入れず、一糸乱れぬポーカーフェイスでその光景を凝視している。

「ヴァターシの、愛を受け止めなさァァァい!!!」

バチィィィン!!!

とベンチ裏に乾いた音が響き渡る。

あまりの精神的恐怖と、強烈な皮膚への外部刺激。

脳が「このままでは死ぬ」と判断したのか、鬼頭監督の自律神経がバグを起こし、次の瞬間、監督は「ヒーハー!」と絶叫しながらカッと目を見開いて立ち上がった。

細胞が強制覚醒したのだ。

「い、生きてる! おれ、今、生きてるぞ!」

「見たか、これがニューカマーの奇跡よ。……さあ、レディ。おれのバットを持ってきて」

シュンジは、ベンチの片隅で凍りついている凛に美しくウインクした。

凛は、手に持ったポカリスエットのボトルをじっと見つめたまま、地を這うような低音で言った。

「星野くん。

監督の熱中症が治ったのは、今あなたがファーストミットを足で踏んで破裂した氷嚢の冷水が、監督の足元にジャストミートでかかったからです。

あと、次の打席、あなた代打ですから、さっさと三振してきてください。暑いので早く帰りたいです」

「フッ、冷たいレディだ。だが、女の嘘は許すのが男……いえ、ニューカマーよ」

シュンジは、凛の手からバットを奪い取ると、劇画調の渋い顔でココアシガレット(※本日4箱目)をくわえ、バッターボックスへと向かった。

グラウンドが、一瞬で静まり返る。

相手ピッチャーも、審判も、観客も、全員が真顔のまま、打席に立つ「金髪なき、バキバキメイクの網タイツ男」を凝視していた。

カメラアングルは動かない。

沈黙。

三秒。

二秒。

一秒。

相手のプロ注目右腕は、あまりの精神的恐怖に手元が狂い、ど真ん中へ絶好球を投げ込んでしまった。

「——悪魔の風脚(ディアブルジャンブ)は、おれの『腰の回転』に宿るのよォ!!!」

シュンジは、ヒールを履いているかのような華麗なステップから、骨盤を極限までくねらせた「オカマ・ターン」を披露。

しなやかな腰のひねりから放たれたバットは、ボールの芯を完璧に捉えた。

パキィィィン!!!

快音を残し、白球は夏の青空をどこまでも高く舞い上がり、そのままバックスクリーンへと消えていった。

劇的な、代打 初打席 初球ホームラン。

湧き上がる(というか深い混乱に陥る)スタンド。

シュンジはバットを静かに放り投げると、ダイヤモンドを「完璧なキャットウォーク」で一周した。

3塁ベースを回る際、相手のサードに「お疲れ様ナブル」とリップサービスを忘れない。

試合は12対1で予定通りコールド負けした。

しかし、緑ヶ丘高校のベンチには、なぜか甲子園で優勝したかのような、謎の感動の涙と、それ以上の「おれたちは一体何を見せられたんだ」という深い困惑が残されていた。

相手チームのエースは、マウンドを降りながら、無言でベンチの壁を見つめていた。

「……なんだ、今の」

それだけ言って、彼はそれ以上何も語らなかった。

汗でドロドロになったメイクのまま、夕日を浴びて立つシュンジ。

その背中は、万年補欠のそれではなく、一つの世界をやり遂げた「真のニューカマー」の威厳に満ちあふれていた。

ベンチの端で、凛はポカリスエットを静かに飲んでいた。

そして、誰にも聞こえないくらい小さな声で、一言だけ呟いた。

「……12対1。でも、なぜか今日だけは、早く帰りたくない気がします」

彼女の表情が、わずかに、本当にわずかだけ、和らいでいた。

(第4章・完)


最終章:くそお世話になりました!!!

男の旅立ちに、華々しいファンファーレは必要ない。

ただ、静かな決意と、ほんの少しのハッカの香りがあればいい。

夏の大会が終わり、日常が戻るはずの星野家。

しかし、その日のリビングには、まるで巨大な台風が直撃する直前のような、重苦しく、そして張り詰めた沈黙が流れていた。

ソファに深く腰掛けた父親は、眉間に富士山のような深いシワを刻み、腕を組んだまま微動だにしない。

その隣で、母親はハンカチを両手で強く握りしめ、今にも泣き出しそうな目で床を見つめていた。

二人の視線の先——夕日が差し込む畳の上に、その「異物」は静かに立っていた。

星野瞬——いや、シュンジ。

今日の彼は、制服の学ランの上から、岩田ママに譲り受けたスパンコール仕立てのド派手な紫のイブニングドレスを纏っていた。

ドレスが動くたびに、夜の繁華街のような怪しい光沢が、畳の上に冷たい光を放つ。

顔面には、もはやハリウッドの特殊メイクアーティストも裸足で逃げ出すレベルの、完璧に洗練された「ウォータープルーフ仕様」のフルメイク。

ブルーのアイシャドウは鋭く、深紅のリップは夕日の光を浴びて怪しく艶めいている。

見事な地毛の黒髪は、凛々しくポニーテールに結び上げられていた。

シュンジは、両親の前にゆっくりと歩みを進めた。

ローファーのヒール(※ママに借りた12センチヒール)が、カツ、カツ、とフローリングを叩く。

沈黙。

三秒。

二秒。

一秒。

テレビの電源は切れている。

リビングには、冷蔵庫が低く唸る「ブーーン」という音だけが響いていた。

誰も喋らない。カメラアングルは、微動だにしない。

シュンジは、劇画調の渋い真顔のまま、ドレスの裾をエレガントにさばき、畳の上に両膝を突いた。

そして、手のひらを綺麗に揃えて畳に置くと、額を深く、深く擦りつけた。

床が抜けんばかりの、完璧な土下座。

「……長い間!!!」

シュンジの声が、リビングの空気を震わせた。

それは、かつての陰キャな少年のものではない。

カマバッカ(2丁目)の地獄の修行を乗り越えた、気高きニューカマーの重低音だった。

「くそお世話になりました!!! この御恩は一生!!! 忘れません!!!」

「うっ、ううっ……」

母親が、ついに堪えきれずに涙を流した。

人数合わせで野球部に入ったはずの真面目な息子が、夏の大会で網タイツを穿いて代打ホームランを放ち、帰ってきたと思ったら、リビングでドレスを着て絶叫しているのだ。

母親の涙は、感動ではなく、脳の処理能力を完全にオーバーしたことによる防衛本能のバーストだった。

父親は、固く拳を握りしめたまま、真顔で、しかし震える声で言った。

「……瞬。お前、どこへ行くんだ。野球部は引退しても、まだ高校生活は残っているんだぞ。赤点も3つある」

シュンジは、土下座をしたまま、静かに首を振った。

「父親(おやじ)さん。おれは、この街を出ます。おれが本当に探すべきものは、この生ぬるいグラウンドにはなかった。おれの心は、もう境界線を越えてしまったんだ」

シュンジはゆっくりと立ち上がり、窓の外、茜色に染まる西の空を見つめていた。

「おれは探します。男だの女だの、そんなちっぽけなドレスコードなんて関係ない。

あらゆる個性が混ざり合い、誰もが自分らしく泳げる伝説の海……

『新宿2丁目』という名の、おれにとってのオールブルーを」

父親は、言葉を失った。

ツッコミの容量が完全に100%を超え、脳内でシステムエラーを起こしてフリーズしていた。

その時、リビングのドアが静かに開き、野球部マネージャーの如月凛が顔を出した。

シュンジが部室に忘れたエナメルバッグ(※底にネットで2980円の金髪ウィッグが眠っている)を届けに来たのだ。

凛は、ドレス姿で夕日に向かってポーズを決めるシュンジと、限界を迎えている両親を、真顔のまま交互に見つめた。

そして、いつもの冷徹な低音ボイスで、淡々と語りかけた。

「星野くん。そこから新宿2丁目までは、JR常磐線と山手線を乗り継いで、新宿駅まで片道約1時間半、運賃は1200円ほどです。

伝説の海にしては、回数券が買えるくらいアクセスが良いので、とりあえずその網タイツとドレスのまま常磐線に乗って、松戸駅あたりで盛大に警察に通報されてきてください。

あと、バッグ置いておきます」

凛はエナメルバッグを床にドサリと置くと、両親に一礼して去っていった。

最後まで、彼女の表情が崩れることはなかった。

「……フッ、どこまでも冷たいレディだ。だが、それもいい」

シュンジは、ポケットから本日最後のココアシガレットを取り出し、ニヒルに笑ってボリボリと噛み砕いた。

ハッカの香りが、夕暮れのリビングに優しく広がる。

その瞬間、ドレスのスリットに入れていたスマートフォンが、一度だけ静かに振動した。

画面を見ると、一件のLINEが届いていた。

差出人:エンポリオ・岩田ママ

「ちゃんとSuicaにチャージしてから行きなさいナブル。 あと、松戸で通報されたら身元引受人、ヴァターシじゃ無理だから凛ちゃんに電話しなさい」

シュンジは、返信しなかった。

ただ、スマートフォンをドレスのスリットに静かにしまい、目を細めた。

師匠は、すべてわかっていた。

最初から。

「お父さん、お母さん。……ヴァターシ、行ってくるわナブル!!!

バサァッ! とドレスを翻し、シュンジは振り返ることなく、ヒールをカツカツと響かせて玄関へと走っていった。

新世界へ向かう彼の背中には、もう「サンジの偽物」というコンプレックスは一切なかった。

あるのは、己の道を突き進む、圧倒的な自由だけだ。

残されたリビングのテーブルには、ハッカ味の砂糖菓子の空き箱が、ぽつんと夕日に照らされていた。



JR常磐線・松戸駅。午後6時45分。

帰宅ラッシュによるサラリーマンと学生の黒い津波でごった返す改札内に、一際異彩を放つ「紫の巨星」が直立していた。

スパンコールのイブニングドレスに、泥を吸い込んだ網タイツ、そして12センチのヒール。

周囲の通勤客たちは、まるでモーセの十戒のごとく見事な放物線を描いてシュンジを避け、遠巻きに「真顔」で彼を凝視している。

だが、シュンジは動じない。

彼はドレスの裾を華麗にさばき、無駄に完璧なキャットウォークで自動改札機へと直進した。

12センチヒールを「カツン」と響かせて立ち止まり、ドレスのスリットからスマートフォンの「モバイルSuica」を取り出す。

そして、一切のブレもない劇画調の渋い真顔のまま、改札のセンサーへ向け、流れるようなステップでタッチした。

——ピピッ。

自動改札機は、都会のスマートな洗礼を証明する冷たい電子音を奏で、緑のランプを灯してシュンジの旅立ちを静かに許可した。

「……オールブルーは、この先にあるナブル」

ココアシガレットの最後のハッカの香りを喉の奥で感じながら、シュンジは夜の新世界へと、一歩、気高く踏み出した。


(『サンジに謝れ —新宿2丁目という名のオールブルー—』・完)


※本作は完全なるフィクションであり、実在の人物・地名・団体とは関係ありません。また、作中に登場する「彫刻刀による桂剥き」や「醤油ボトルのパス」等の調理・格闘技術は大変危険ですので、ご家庭のキッチンでは絶対に真似しないでください。なお、本作品は『ONE PIECE』のキャラクターを用いた非公式の二次創作・パロディ作品です。


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