考える
知人の死から感じたことがあったので記しておきます。
少し前のこと、高齢の知人が亡くなった。
亡くなる1週間ほど前に、入所している施設に顔を見に行ったときには、呼吸が少し苦しく酸素をしていた。
「(死ぬ)ギリギリになったら病院に移る予定なんだ」と、娘さんは話していた。
医師や看護師、施設の方達としっかりと考えを共有されている様子だった。
私の中で、病院に移ってもできる事は大きく変わらず、病院に入院することで面会制限があり、家族と過ごせないよりは、このまま家族のもとで旅立っていく方が良いのではという考えがよぎった。
同時に、「どのような状態になったら病院に行くというイメージはできているのだろうか。」「病院に行くための車の手配とかはどうなっているのか」という、実務的なことを考えていた。
知人は、体調に大きな変化がなく病院に移動することなく施設で過ごしていた。
亡くなるその日も、いつも通り朝から施設に訪れていた家族と過ごしていたが、呼吸が徐々にゆっくりとなり、家族が見守る中、施設で静かに息を引き取った。
葬儀の後、娘さんは「いろいろ想定して準備していたけど、死を決めるのは、家族でもなく医者でもなく、本人なんだなって思ったよ」と、話していた。
この言葉だけを読むと「それはそうだろう」って、思うだろう。
娘さんもそして、施設に面会に行ったときの私が考えたように、
「この後は病院に移動して、看取るのは病院だ」という様なシナリオを考えていたように思う。
体調に変化が起きてから、病院の手配や移動の手配などしていては後手に回ってしまう。
そのため、医療者は今までの経験などから必要な準備をし、病院や移動手段などの手配をする。
それは決して悪いことではなく、むしろそういった調整は慌ててせずに、本人や家族の意向を確認しながら準備しておくのが当然ではある。
『死は本人が決めるもの』
知人は体調が悪化してから、家族への感謝の気持ちと残していく家族にあとは頼むと言い残されていた。
人の命は想定通りにはすすまない。
知人の死は、医療者や家族の想定を超えて、家族が見守ってくれる環境の中で、残された家族にとっても最善の別れであった。
きっと、本人にとっても家族と最期まで過ごせたことは良かったのではないかと思っている。
人の死は人の数だけ違う。
それは終末期の過ごし方も、死に対する考えや受け止めも。
本人・家族にとっての最善は想像以上に多様だ。
明確な答えはでないが、むしろ正解はないと思っているのだが、知人の死は、私に考える機会をくれた。
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