赤ペンを入れる
母から赤ペンが入っている。
学校の作文の下書きをして、外に遊びに行って戻ったら、下書きの横には赤い文字が躍っている。
「もう、余計なことを」
少しだけ、面倒くさいと思った。
せっかく書き終わったのに、また考えなおすんだ。
だけど、赤で書かれた内容を読んでみる。
「この時、どう思った?」「もう少し詳しく」「誰が言ったの」
そうかあ、こうやって書くといいんだ。
ほんの少し、どうやって書いたらいいかが分かってきた。
作文が嫌いじゃなくなった。
友だちと交換日記を書いていた。
その日あったこと、将来のこと、詩を書いたこともあった。
書くことよりも、大好きな友だちに私のことを知ってほしかった。
友だちのことを知りたかったし、なによりまわりの友達よりも特別で、親密で、ふたりだけが知っている秘密の時間だった。
言葉や文章は、その時に置かれた環境やタイミングで、意味が変わることもある。
だから、書くって、伝える方法で道具だなって思う。
だけど、それだけじゃないことに気づいてもいる。
書き始めた時には、わからなかった本当の自分の気持ちに気づくことがある。
むしろ、そっちの方が大きいかもしれない。
書くは、伝えること、気づくこと。
書いた先は、手放す。
手放した瞬間から、自分だけのものではなくなる。
それは、怖いことでもあり、楽しみでもある。
母から赤ペンを入れられていた私。
今は、自分で赤ペンをいれている。
実際は、ペンなんか持っちゃいないけど「もっと、伝わるにはどうしたらいい」「こっちの表現の方が近いかな」
そんな風に、書くことが日常になった。
だけど、なぜ書いているのか、分かっていない。
書くと気持ちがすっきりする、自分の本当の気持ちに気づく、伝えたいことを届ける。
どれも私が書く理由。
時々、分からなくなるし、書けないって頭を抱えることもある。
だけど、わからないまま、書く。
わからないから書いている。
母の赤ペンが入った面倒くさいと思ったあの日から、今も書くは続いているのかも。
おはぎさんとけいこさんの哲学対話に参加しました。
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