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ははのあじ

母のコロッケの味。決して忘れたくない思い出の味。

ゆでてつぶしたほくほくのジャガイモ。
みじん切りした玉ねぎとひき肉を炒めて、塩とコショウで味付け。
油の中でコロッケがぷくぷくと音を立て、玉ねぎとひき肉の甘い匂いが台所に満ちる。
揚げたて、あっつあつのコロッケにかじりつく。
サクッと衣が音を立てるとたちまち真っ白い湯気が立ち上る。
口の中でホフホフ言いながら、何度食べても慣れ親しんだ味にほっとする。

ジャガイモと玉ねぎ、ひき肉だけなのに、母のコロッケは他とは違う。
子どもの頃から、母の隣で一緒に作ってきた。
ある時はジャガイモをつぶす係。
トントントントンと、軽快なリズムで玉ねぎを刻む母の真似をしたくて、小学生の私は、玉ねぎのみじん切り係を買ってでた。
玉ねぎが目に沁みて、台所で涙をながしたっけ。
目に沁みない方法を探して、パンを口にくわえたまま切ったり、水泳用のゴーグルをつけて台所に立ち、場違いな姿に母と大笑いした。

高校卒業後、実家を離れた。
帰省の連絡をすると、「なに食べたい?」と聞かれ、妹も私も答えはいつも「コロッケ」だった。
結婚し、子どもが生まれてからも、それは変わらない。

母のコロッケの魅力は、妹の旦那さんをも虜にし、実家に来ると「コロッケありますか」と聞くほど。
それは、のちに孫たちにまで受け継がれていった。
実家に帰ると家族全員がたくさん食べられるようにと、何十個も作って待っていてくれた。
お皿に山のように積まれた「コロッケ」は、あっという間に、みんなのお腹へ。

いつもそばで見ていたのに、自分で作ると母の味とは何かが違う。
「お母さんのコロッケとなんか違うんだよね」と言うと、
母は決まって『ははのあじ』と笑うだけだった。


料理はただ食べるだけのものじゃなく、作った人の思いがこもっているものなのかな。
母のコロッケを食べると、不思議と力が抜けて、
「ちゃんとしなきゃ」を脱いで、「ただ娘でいていい」と思えた。

病気で体調が悪くなっても、私達に美味しい物を食べさせたいと、母は台所に立っていた。
手伝うと言っても、いつも「あんたたちは外で頑張っているんだから、家にいる時くらい、ゆっくりしてなさい」と、ひとりバタバタと動きまわっていた。

病気がどんどん悪くなり、横になって過ごすことが増えてきた。
私が代わると言っても「大丈夫、大丈夫。ご飯くらい作れるから」と、亡くなる2週間前まで台所に立った。

母との関係はいいことばかりじゃなかった。
若くして私を産んだ母は、小さい頃から躾にはとても厳しかった。
世間から若さを理由に「躾ができていない」と、思われないように、
食事中の箸の持ち方、姿勢など何度も何度も注意された。
出かけるまえに服装をチェックされたりもした。
「外で恥をかかないように」と言われるたび、子どもの私は窮屈で仕方がなかった。

学生時代の私は、母の言いなりになりたくない、枠にはまった生活をしたくないと随分と反抗し、母との衝突が絶えなかった。

私自身、子を持ち、母となったことで、当時の母の気持ちが分かることが増えた。
母が私の将来を案じ、同時に母からの期待が込められていたことを。

厳しく叱られた日の夕飯も、コロッケだった。
口をきかないまま食べても、揚げたてのコロッケは、いつも通り美味しかった。

家族の思い出の真ん中には、母の料理がある。

母の葬儀の席で、葬儀屋さんを交えて母の思い出を語り合った。
料理が好きだったこと。本当は外に出て働きたかったこと。
それでも、子どもたちに寂しい思いをさせたくないと、家庭を守ってきたこと。
「お母さんの料理で一番は何ですか」と聞かれ、
すぐに思い浮かんだのは、やっぱり「コロッケ」だった。

葬儀の令状には、家族と母の思い出として、母のコロッケが家族みんなの大好物の一文を入れてくださった。
葬儀などの仕出し料理ばかりが続くため、葬儀の担当さんが、地元で美味しいと評判のコロッケを買ってきてくれた。
美味しいお店のコロッケなのに、どうしても喉を落ちていかない。母の味には叶わない、そしてもう二度と母のコロッケは食べられない現実がのどにつかえて涙があふれた。

母を亡くした後も、何度もコロッケを作っている。
どうしても同じようにはいかない。

母のコロッケは、ただ美味しいだけではなかった。
あの家で、私は「娘」に戻れていたのだと思う。

今でも、家族が集まると「おばあちゃんのコロッケ美味しかったよね」と、子どもたちが話す。

母のコロッケの味を忘れないよう、思い出して作っては、みじん切りの玉ねぎに鼻の奥がツンとする。



#創作大賞2026 #エッセイ部門


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