「優しいね」と言われた時に感じる違和感について
私はよく友達や知人から「優しいね」と言われる。でも、自分では決して優しいとは思えず、その言葉にどこか違和感を持ってしまうのだ。
そもそも「優しい」とは何なのだろう。そう言われると嬉しい反面、私の中に「芯がない」と言われているような感覚になる。
それは、私が心のどこかで他人の目を気にし、「どう思われるか」を考えながら行動しているからかもしれない。相手を思っての行動ではなく、ただの八方美人であり、他人軸で生きているだけではないかそんな思いが、違和感の正体だと気づいた。
では、本当の優しさとは何なのか。
保育や子育てに例えて考えるとわかりやすい。子どもたちの要求をすべて受け入れるだけでは、その子自身の成長には繋がらない。大人になるまで甘やかされ続けた子どもは、きっと一人で立ち上がることができず、社会に出てからたくさんの壁にぶつかるだろう。
将来その子が困らないように、気持ちを受け止めつつも、ときには毅然と正しい道へと導いてあげること。それこそが、本当の優しさなのだと感じる。
それは大人同士の関係でも、そして「自分自身」に対してもきっと同じだ。
何でもかんでも自分を甘やかすのが優しさではない。だらだらしてしまう自分、わがままな自分、嘘をついてしまう自分。そんな未熟な自分を拒絶せず、一度は「それも自分だ」と受け入れる。その上で、ときには厳しく自分と向き合い、正しい方向へと導くこと。それこそが、本当の意味で自分を優しく労り、大切にする行動へと繋がるのではないだろうか。
私は今、他人の目を気にしてしまう「偽の優しさ」を克服するために、「人が見ていないところで良いことをする」という挑戦を心がけている。
たとえば、道端や職場で見つけたゴミをそっと拾って捨てること。職場の共有スペースを、次に使う人のためにさりげなく整理整頓しておくこと。誰も見ていないし、誰からも「優しいね」とは言われない。けれど、確実に世界がほんの少し綺麗になり、誰かの心地よさに繋がる行動だ。
最初は「偽善かもしれない」と思ってもいい。毎日積み重ねることで、少しずつ自分のことが好きになり、他者と関わるときにも自然と、自発的な「本当の優しさ」で向き合えるようになってきた。
「他人の目を気にする自分」を否定せず、行動を変えることで自分を育てていく。この選択をしたこと自体が、今の私にとって、本当の意味で優しい自分になるための「優しい導き」なのだと思っている。
