見出し画像

父の日を、ちょっとだけ借ります。

父の日にかこつけて、父の話をしようと思う。
はじめに。私は、父のことが大嫌いだった。
正確に言えば「嫌いになった」が正しいのかもしれない。

父は根っからの九州男児で、今話題になっている「さす九」というフレーズにぴったりのロールモデルだった。

幼い頃はそんなこと分かっていなかったから、母の世話焼に対して何もしない父が普通だったけれど、成長するにつれて、うちの父は他の家庭に比べて何もしないダメな父親なのではないか?と疑うようになっていった。

昭和〜平成の時代にはよくある話かもしれない。父は家事も育児も一切せず、ただ仕事だけをして、「一家の大黒柱だ」と威張る殿様だった。私は母のことが好きであったから、母に可哀想な思いをさせる父は必然と悪になっていったのだった。

父はこんなどうしようもない生態でも、人として悪いわけではない。
私に直接的な被害があったわけでもない。
私が“こんな父親は嫌だ”と思っていただけで、それは他人から見れば「だから何?」という話かもしれない。

仕事をして、子どもが行きたい大学に行かせて、何が悪い父親なのだ、と言われるだろう。私もそう思う。
だけど、これは父の娘に生まれた私だからこそ抱く複雑な想いなのだ。

大学2年生の頃、父方の祖母が危篤という情報が入り、遠く長崎まで会いに行くことになった。ただ、その時は家族みんなの予定が合うわけでもなかったので、私は家族代表で一人で向かうことになった。

正直なところ、父方の祖父、祖母とはあまり親しくした思い出がなかった。それは、私が転勤族の家庭で近くにいなかったということもあるが、父の性格と同じで、祖父も祖母も陽気なキャラクターなわけではなく、子どもに媚びるわけでもなく、ただ淡々としていたので苦手だったというのがある。
ちょっとくらい、孫にデレデレになったらどうなのだ?と思ったが、私の従姉妹たちが同じ家に住んでいたので、私と妹はどちらかというと同じ孫なのによそ者のような気がしていた。

そんな祖母が危篤。祖母に甘えた覚えもあまりないし、私が会いに行っても祖母は嬉しいんだろうか?そんな気持ちもあった。でも家族代表で向かうわけだし、私は長女だし…みたいな炭治郎的な矜持もあり、私は重苦しい気持ちのまま、飛行機へ乗って長崎へ向かった。

空港に着くと、叔母が迎えに来てくれた。田舎あるあるであるが、叔母や従姉妹たちは私の近況を即座に聞いてくる。
「今お付き合いしている人はいるの?」と普通に聞いてくるし、
「いません〜(笑)」と言っても、「またまた〜(笑)本当はいるんでしょ?」と真顔で聞いてくる。こちとら割と大失恋をしたばかりだったので、「いい加減にしてくれよ。」と思いながらも、さりげなく流して話を続ける。20歳で結婚を前提にお付き合いしている人が居ないと分かった親戚一同は、私のことをひどく心配したようだった。

程なくして、幼い頃からよく泊まりに行っていた祖母宅(叔母と従姉妹も住んでいる)へ着いた。「おばあちゃんは離れにいるから会いに行っておいで〜」と言われて、まずは祖母の元へ。祖母と大人になってからもそんなに話したことはなかったので、ちょっと緊張した。だけど、私の任務はこれであるからと、足早に廊下を歩いて奥の離れへ向かった。

祖母は思ったより元気そうだった。びっくりしたのは、その穏やかな表情だった。私の中のイメージだと、いつも毒舌ばかり呟いていて、どちらかというと意地悪なイメージ。ユーモアっていうより、毒舌で笑いをとるタイプだった。そんな祖母がポツリと呟いた。

「よく来てくれたねえ」

たった一言で、身構えていた体の力がすっと抜けた。

そんなセリフを開口一番に言う人ではなかった。人はこんなに変わるものなのかと心底驚いた。そんな祖母の温かみに急に危篤が怖くなって、今更ながら悲しみが襲ってきた。この人の残り少ない人生に、私は良い孫としていられただろうか。そんなことを考えても仕方ないのに。後悔のような気持ちが押し迫ってくる。だからといって、私にはいまからは何もできないけれど、せめてこの一瞬だけでもあなたの孫であるということを、その瞳に焼き付けて欲しくて、しばらくそばにいた。

この祖母との再会が最後の別れとなった。
私はその後、葬儀のために長崎に向かった。
今度は家族総出になった。

お葬式の準備が進む中、斎場での私は特に感傷に浸るわけでもなく、淡々と孫としての務めを果たすべく、その場にいるのみだった。
そんな時、叔母が「あらまあ、ちょっと見てよ」と周囲に声をかけた。
叔母が指差していたのは、祖母の生前の写真のスライドショーだった。
直近のものももちろんあるが、なんと若い頃の写真も織り交ぜてあり、どこから持ち出したのか分からない白黒の写真の中に、間違いなく”私”がいた。

「ねえ、○○(私の名前)にそっくりじゃない???」

私はまた驚いた。本当だ。私にそっくりの祖母の姿がいた。
ずっと、従姉妹の方が似ているよね〜、なんて言われてきたのに。
まさか亡くなってからわかるなんて……私が一番似てたの???

その瞬間に、私は本当にこの人の孫なんだなって実感が湧いてきて、途端に悲しくなった。

よく考えてみれば、毒舌なところも、淡々としているところも祖母譲りであるし、とても綺麗な容姿も部分的に受け継いでいると自負している。

納棺の際に、自分でもびっくりするほど泣いた。
こんなに泣くものなのかと驚いたが涙が止まらなかった。
きっと父も母も「え、そんなにおばあちゃんっ子だったっけ?」って内心思ったと思う。だって自分でもびっくりしているのだから。

この時に、ふと悟ったのだ。
父のことが大嫌いだけど、きっと父が亡くなったら泣くだろうなと。

どうしても憎い、許せない部分がある、それは消えることはないだろうけど、こうして祖母と繋がっていることに涙が溢れるのだとしたら、きっと父にも同じ気持ちを抱くはず。

後悔したくない、だから嫌いから好きにならないと、という気持ちも湧いてきた。でも、そんな簡単なものではない。家族だからこそ、どうでもいいわけじゃないけれど、どうにかできるわけでもない。

私は、その思いに苦しんでいたが、その思いも自分ではあるから、なかったことには出来なくて、今も抱えたままでいる。

そこから幾年も経って、父には孫が出来た。
今は「人ってそんなに変わるものなの?」というツッコミをなしには見られないぐらい、デレデレである。

「おばあちゃん、あなたの息子、孫にデレデレですよ。」

そう、伝えたくなるほどに。

人って変わるんだな…を2回も目の当たりにして、そうか、私も変われるのか、という自信になった。だって身内で起きてるんだもん。十分あり得る。

私は、少しずつではあるけれど父と会話している。
あんなに毛嫌いしていた父が好きな競馬も始めてしまった。
私が競馬が好きだと気づいた父はなんだか嬉しそうだった。
孫や馬の力を借りながら、そして父の大好きなお酒の力を借りながら、
私は少しずつ、父との距離を詰めていこうとしている。

今はまだ「ありがとう」も「感謝してる」も、きっと言えない。
でも、何も書かなかったら、それすらなかったことになってしまいそうで。
だから、ここに書いておこうと思う。

おばあちゃんから生まれて、育って、お母さんに出会って、私が生まれて、行きたい大学にも行かせてもらって、いろいろありがとう。

もし私が、一生言えなかったとしても、ここに書いたからね。

不器用なところも、父に似てしまったのだなとそんなことを思いつつ、
こんなこと、父の日を借りなきゃ言えなかったよ。



——————————

このnoteは【#父の日note企画】にエントリーしています。
みなさんも、ぜひ父の日のnote書いてみてくださいね!

——————————

もう一つの家族

✨engawaのパパ ポンタパパへ👨✨

パパ、いつもありがとう。
noteを始めて、こんな世界もあるんだ〜と思ってうろうろしていて、右も左も分からない中、家族になろうよ〜♪(福山雅治)でnote内に家族を作ってみちゃった、私たち。
みんな手探りの中、お互いの記事を投稿前に読み合って、切磋琢磨して、でも途中でふざけたりして、本当に家族のような存在になっていっているな、って思っています。
ママもねねもパパの温かい優しさに包まれながら、進次郎構文に笑わせてもらい、急なパパのユーモアの嵐にお腹が痛くなり、毎日が楽しいです。
なんでも出来ちゃうパパだから、きっとたまには愚痴も言いたくなるかなあって思うんだけど、そんな時は私たちにこっそり話してね!笑
パパの日きっかけではあるけれど、ポンタパパにありがとうを伝えられて良かったなって思います。いつもスルーしがちなパパの日(笑)ですが、素敵な企画に乗っかれて、今年は最高のパパの日でした。ありがとう〜パパ!!

ママとねねよりパパへのサプラーイズでした🫰🌸🦦✨

いいなと思ったら応援しよう!

にこらこ 応援ありがとうございます🦦💕そんなあなたにいいことがありますように✨