【メモ】天国の母へ
母が鬼籍に入ったのは、僕が四十になる前だった。
十年以上患っていた癌が全身転移し、最後は緩和措置を受けながら、深夜の病室で息を引き取った。何度かレーザー治療を受け、容体が安定して自宅で過ごしていた時間も長かった。三度目の手術のあと、父が倒れたこともあり、自身の体調管理と父の見舞いの二足の草鞋を履きつぶした。
当時、僕は東京へ転勤になり、家族と関東に居を移していた。両親のことが心配ではあったが、慣れない新天地での仕事と、日に日に育ってゆく我が子のことで、手も頭もいっぱいだった。年に一度の帰省で、やせ細りながらも梅干を漬ける母の姿に、安堵と寂しさを同時に感じたものだった。
母は──昭和の女だった。
子供が寝込んでも雀荘に行く、今でいうモラハラな父と長年連れ添い、その最期も看取った。味噌や漬物は全て自前で作り、ご近所さんに配り歩いた。僕ら兄弟を大学に通わせるため「生まれたときから貯め始めた」と二通の通帳を自慢げに見せてくれた。自分の葬式の手配も、支払いも──生前にすべて済ませていた。
最期のひと月は一度も家に帰ることはできなかったが、自宅は驚くほど片付いていた。僕ら兄弟のものは綺麗に仕分けられ、思い出を持ち帰ろうと思えばすぐにできるよう準備されていた。母のもので不要なものは捨てられていたが、僕らが懐かしむであろうと思うものはちゃんと残っていた。
幼いころ何度も聴かされたレコード。
トレードマークだったボロボロの割烹着。
兄弟がプレゼントした数々の品……。
主を失った一軒家に、笑い声が戻ることはなかったが、僕ら兄弟が枯れるまで感傷に浸ることは許された。
小学校のとき、事故に遭って入院した僕は「おかあさんも泊まって」と駄々をこねた。母は困った顔をしていたが、週に二回ほど病室に泊ってくれた。いま思うと、父と幼い兄を二人きりにする恐怖も当然あったはずだ。
高校生のとき、定期代を使い込んで「買ったけど落とした」と嘘を吐いた。母は黙ってもう一度渡してくれたが、絶対にバレていた。そのお金も決して余っていたお金じゃないことはわかる。
あれだけ長いこと同じ家に住み、顔を合わせ、食卓を共にしてきた母。リビングに下りれば、そこにいつでも居る気がしていた。「やっと起きたん。腹へっとらんね?」と話しかけてくれると思っていた。母の梅干も死ぬまで食べれる気がしていたけど、大量にあったストックがもうすぐ無くなってしまう。
関東に出て、母の他界まで三年。
年に三日しか顔を合わせてなかった。
合計九日。
僕は転勤してから、十日足らずしか母の顔を見ていなかった。もっとちゃんと見ておけばよかった。もっと会いに帰ればよかった。
自分の訃報の宛先を葬儀屋に依頼していたあなた。僕はそんなに強くなれないよ。
僕の娘の成人式にって貯金してくれてたことも、死んでから知った。早く言ってよ、お礼言いそびれたじゃないか。
かあさん。
親になってやっとわかったよ。
子供への愛って
無条件で、無制限だね。
あなたからもらった愛は
半分も返せなかった。
返せなくてあまった分は
最近生意気な娘にあげるよ。
いいよね? かあさん。
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