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【メモ】恋愛形而上学?

『恋は勘違いによって生まれ
 早とちりによって愛に昇華す』

 21世紀初頭に活躍した哲学者、ケスノラート・イロエの言葉だ。

 彼は恋愛哲学に傾倒する傍らで、自らも恋多き男であった。その実を結んだかどうかは別にして、季節を問わず恋の花を咲かせ続けていたという。

 容姿端麗な女性と同じクラスになれば「運命だ」、落とした筆記具を拾ってもらえば「付き合うしかない」と周囲に言い放った。多くの者は彼を馬鹿にした。だが、彼自身だけは、為せば成るという言葉を信じ続けた。

 繋がってもいない縁を、先端だけを見た優しさを信じ、彼は何度も意中の女性にぶつかり続けたという。それはそれは、毎度見るに堪えない惨状だったとのこと。

 当時を知る者は言う。

「恋は盲目とはよく言ったものだ。二段も三段も上にいる相手なのに、足元の壁にぶつかり続けていたのだから。だがそれが、ときにダルマ落としのように足元を崩すのだから、恋とは実に面白い」

 勘違いした彼の恋は、そのほとんどが実を結ぶことなく枯れた。だが、千にひとつ、万にひとつ叶ったものもあるらしい。その一つが、半年ぶつかり続けた高根の花だった。その前の花は二日で枯れた。

「君以上の女性はいない。それに、俺以上に君を好きな奴もいない」

 その言葉に根負けした女性は、「しょうがない。付き合ってあげる」と彼の手を取った。熱意にあてられていたのかもしれない。情熱という病に侵されていた二人。ドラマチックな展開に、二人の恋は燃えに燃えた。まるで人生最高のパートナーを得たかのように。

 だがしかし、たかが十七の若造と娘。二ケ月も経つと、互いが別の「最高のパートナー」を見つけてしまう。ああ、これが最後の恋だと燃えたのは、たんなる早とちりだ。のちにこの出来事は『博多二ケ月革命』として、福岡の哲学者のあいだだけで語り継がれている。

 このように、恋とはどちらかの勘違いで生まれる。はたまた不可思議に噛み合った二つの勘違いの場合もある。そして勘違いが確信の域まで先走ったときに、愛へと脱皮するのだ。それが永遠だと信じてやまない早とちりによって。

 彼の人生を表す名言がもう一つある。

『恋は落ちるのではない
 理由を探しに身を投げるのだ』

 あたりかまわず恋をしていた彼は、もはや、なぜ好きなのかを考える余裕などなかった。気づいたら好きになっているのだ。その理由などない。いや、わからない。

 好きかも――。そう思った瞬間。彼は「なぜ?」を探して、その恋という深い穴に身を投げていた。深さもわからない。そこに底があるのかさえ。それでも彼は真っ暗な穴に頭から飛び込んだ。ただ、雨粒が川へ落ちるように。理性はいつも、少し遅れて追いかけてきた。

「私のどこを好きになったの?」

 彼を一番困らせた質問がこれだった。

 顔……? 優しさ? ちがう。そんなもんじゃない。容姿や性格など、ひとことで言えるものじゃなかった。もっと深くて、もっと曖昧なもの。直感や運命だなんて言葉を使うと、途端に陳腐になってしまう。そんなものだった。

 困った彼は、いつも「うーん、全部」と言った。

 これが愛を壊すことも少なくなかった。だが、彼自身、よくわからなかった。深い穴に飛び込んでみても、たいていは底が見えなかった。落ちている途中で、恋はいつの間にか愛へ名前を変えていた。それでも理由なき「好き」は生まれる。人間とは、そういう生き物なのだ。

 そうして、ケスノラート・イロエは今日も生きている。

 理由を探しながら――。


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