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【短編】色のない月 (第二回すべて失われる者たち文芸賞)

 午前中からずっと騒音を立てていた隣室の引っ越しは、夕方前にようやくトラックを送り出した。昨晩遅くまでPCにしがみついていた僕は、生活音とは違うそれをずっと疎ましく感じていたため、ふうと息を吐いて横になった。家具の軋む音、乱暴なドアの開閉、男たちの声。いまはそれが緩やかな自然のものに置き換わっている。窓から入る風にカーテンがサラサラとこすれ、うしろでは街路樹の葉が優しい会話を届けてくる。

 ピン、ポーン。

 ようやくまどろみに至ろうかというときに響いた無機質な音は、ふたたび僕を現実へと引き戻す。無視してもよかったが、携帯が手元にないことに気づいた僕は、立ち上がるついでと渋々玄関を開けた。ーーと、隣人の男がそこに立っていた。

「段ボールに詰め忘れちゃってさ、もらってくんない?」
 そういって差し出してきたのは古びた一枚のレコードだった。
 絶句している僕に男は続けた。
「プレーヤー持ってるでしょ。聞こえてくる音、聞いてたらわかるよ」
「持ってはいるけど……」
「サンキュー。じゃあ、お世話になりました」
 円盤を押し付けられ呆気にとられている僕を尻目に、男は階段をカンカンと降りていってしまった。

 断る隙すら与えない男の強引さに感心すら覚えつつ、僕はレコードを下駄箱の上に置いてベッドへと体を放った。先ほどまでの風は止み、街路樹の代わりに小鳥たちが会話を始める。ああ、携帯はキッチンに置かれたままだ。ふいに考えさせる出来事に遭遇し、本来の目的を果たせずベッドに戻った僕は、なかばやけくそに「Hey Siri! 二時間後に起こして!」と叫んだ。

 夢を見た。
 まだこの部屋に歯ブラシが二本並んでいた頃の夢だ。赤い方を使うのは、よく笑う同い年の子だった。彼女とは駅へ向かう先の喫茶店で出会った。きっかけは三島由紀夫の小説。若い女の子がカバーもつけずに読んでいたから思わず凝視してしまった。そして目が合い、気が合い、付き合い始めた。「愛の相手と相合傘を、あいも変わらずアイスを食べて」そんな韻踏み歌を二人で歌いながら歩いた。ーー僕が彼女を裏切るまでは。

 夢の終わりに感じた息苦しさは、うつ伏せのせいだった。涙を漏らしながら目覚めるでもない僕は、とっくに碌でもない人間だったから。もし彼女が出ていった夜に戻れるのなら、もうちょっと上手くやれる。僕が上等な人間になるわけではないけど、少なくともあんなに傷つけることはなかった。起きがけに火をつけた煙草はその灰を伸ばし、静かな部屋に火薬のブシュッという音を鳴らす。

「赤ちゃんができた」

 ボレロのレコードが流れる部屋で彼女はたしかにそう言った。が、そこから連想される未来は、そのときの僕には何も見えなかった。ふたりきりの未来さえも用意されてなかったその部屋で、彼女はしばし沈黙と闘っていた。作品を書き上げるためPCにしがみついていた僕は、きっと普通ではなかった。中身のない僕のうしろで、繰り返すスネアドラムの音だけを聞いていた彼女。

 タン、タタタ、タン、タタタ、タンタン。

 タン、タタタ、タン、タタタ、タンタン。

 同じリズムの中で、少しずつ何かが変わっていった。軋んで、叩かれて、欠けていった僕ら。ボレロは、世界が壊れていく音だった。永遠の愛なんて嘘だ。愛だって必要なときとそうではないときがある。でも、たとえ後者だったとしても、僕はそのとき必要としなければならなかった。

 「よかったね」
 他人事のように僕の口から出た言葉に、彼女は声を出さずに部屋を出た。窓ガラス越しにずっと顔は見えていたのに。僕は、伏せた目も、噛み締めた唇も、ボレロにかき混ぜて溶かした。一緒に、壊した。

 三度吸ったかどうか、手元まで火が迫る煙草を揉み消す。結局あの作品は箸にも棒にもかからなかった。心を乱されたなんて言わない。あれから書いた章は今までのどれよりも上手く書けた。常軌を逸していた僕の目には、そう見えた。フィルターの焦げた匂いがして顔をしかめる。ああ、あのときせめてこんな顔でもしておけばよかった。それならまだ、まともな人間でいられたかもしれないのに。

 胸につかえたもどかしさを取り払うため、僕はあの隣人のレコードを取り出した。袋から出したそれはクラシックでもなんでもない。ニック・ドレイクの『Pink Moon』だった。プレイヤーに置いて針を落とし、二本目の煙草に火をつける。カーテンは真下に落ちたまま、小鳥たちの会話もいつのまにか止んでいる。途中まで聞いたが、結局針を止めた。これじゃあ前の彼女ほども作品に血を落とさない。クラシックの方がよっぽど役にたつ。

 ピン、ポーン。

 僕はドアの前で口角をしっかり上げて準備をする。ようやく次の作品に取り掛かれそうだ。今度の子は黄色が好きだと言っていた。


 了(1,985字)


 この作品は、花澤薫様の文学賞「第二回すべて失われる者たち文芸賞」に応募させていただいています。


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