【短編】修平ちゃん
僕の名前は大谷修平。高校二年生。有名な野球選手と一文字違いというだけで、春になるたびにクラスの誰かが言う。
「おいショウヘイ、ホームラン頼むぞ」
僕はバットなんて握ったことがない。握っているのはいつもシャープペンだ。芯はすぐ折れるし、集中力も長くは続かない。それでも名字と名前の並びだけで、僕は勝手に期待され、勝手にいじられる。
ショウヘイ。
そう呼ばれるたびに、自分がほんの少しだけ、どこかの誰かの影になる気がする。黒板に書かれた文字の隅で、消し残されたチョークの粉みたいに。
けれど、ひとりだけ違う。
「修平ちゃん、おはよ」
幼馴染の美香だ。同じマンションで育ち、同じ小学校に通い、同じ高校の同じクラスになった。偶然にしては出来すぎている距離を、十六年も保ってきた相手。
教室でも廊下でも帰り道でも、彼女だけは頑なに僕を「修平ちゃん」と呼ぶ。みんなが面白がって「ショウヘイ」と囃しても、彼女だけは混ざらない。
ある日の放課後、窓の外で野球部が声を張り上げる中、僕は思いきって聞いた。
「なんでさ。みんなと同じでいいじゃん」
美香は自転車の鍵を指でくるくる回しながら、少しだけ首を傾げる。
「だって、そっちの方が先に好きになったから」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「……なにが?」
「名前」
さらりと言う。
その軽さに反して、僕の心臓はやけに重く跳ねた。
「ショウヘイになる前の修平ちゃんが、わたしは好きなの」
からかわれているのかと思った。
でも彼女の目は、驚くほどまっすぐだった。
「別に、ショウヘイでも僕だろ」
「ううん、ちがうよ」
即答だった。
「修平ちゃんは、図書室で居眠りして、数学は平均点ちょい下で、帰り道に犬に話しかける人。アイスは必ずバニラ」
「細かいな」
「見てるもん」
そう言われて、初めて気づく。僕はずっと、誰かの名前に似ている自分ばかり気にしていた。本物と比べられることを怖がって、小さくまとまっていた。
でも、美香の中には、最初から“僕”がいたらしい。
帰り道、商店街の八百屋の前で立ち止まる。
苺が山積みになっていて、春の匂いがする。
「ねえ修平ちゃん」
「なに」
「名前ってさ、あとから意味がついてくるんだと思う」
「意味?」
「うん。誰かが呼び続けると、その人の色になる」
彼女はそう言って、苺を一パック抱えた。赤がやけに眩しい。
顔を上げると、桜が風にあおられていた。まだ満開でもないのに、気の早い花びらが足元に落ちる。
「もし本物のショウヘイが転校してきたらどうする?」
「どうもしないよ。野球教えてもらう」
「ふふ。でもわたしは、修平ちゃんがいい」
その言葉は、歓声よりも静かで、けれどずっと奥まで届いた。胸の奥に、小さな火が灯る。派手じゃなくていい。大きくなくていい。ただ、消えなければいい。
交差点で信号が変わる。並んだ影が、少しだけ重なった。触れているのかいないのか、わからない距離。その曖昧さが、今は心地いい。
ショウヘイと呼ばれても、以前ほど嫌じゃない気がする。
だって僕には。
僕の名前を、最初に好きになってくれた人がいる。
春はまだ始まったばかりだ。
(了)
