【メモ】キミを座敷牢から解放する
行き当たり場当たりは面白い。いわゆる出たとこ勝負で、右へ左へ話をぶらす。僕のエッセイはそんな感じだ。
ふと思いついたこと、心に引っかかっていた棘を抜いたもの。そんなところからエッセイの書き出しは始まる。着地点なんて決めていない。書いているうちに一般論や周知の事実に行き着き、そこで更なる論理を広げてジャンプさせるだけ。
ジャンプといっても高尚なテクニックを繰り出すわけじゃない。極論や屁理屈に繋げてみると、意外と一人語りが面白い方向に進んでいく。そうなったらこっちのもの。飛躍した屁理屈を空中で捕まえて、小さな笑いか、ちょっといい話に着地させるだけだ。これで意外とエッセイ風になるものだ。
こうやって書いてみると、僕のエッセイの書き方自体は、大変稚拙なものである。題材さえ見つけてしまえば誰にでも書けてしまう。主張なく、着地点なく書き始めることは、はたしてどうなのかと思う。だが、書きながら”説”が出来ていくのもいいではないか。
連想ゲームを繰り返しているようなものなので、意外と頭から尻まで読むと、細く繋がっているものだ。だから僕のエッセイに流れる一貫性は、結果的に作られたストーリーだ。
ここまででお気づきの方も多いと思うが、このエッセイのオチも考えていない。書いているうちに勝手にオチるだろうと期待しているだけだ。
このようなことを繰り返して半年近く。オチなかったエッセイも多数ある。なんなら半分以上は書き上げていない。途中でこの論理展開は無理があるだろう、と気付いてしまってお蔵入りである。
noteの下書きエリアに、MacBookのメモ帳に、たくさんのボツ原稿が眠っている。彼らは、僕がまた偶然開いて、たまたま良いロジックを思いつかない限り、二度と日の目を見ることはない。見せてはいけない。
思いついた!
これは大昔に実際に行われたという、座敷牢への監禁と似ている。そこに発想を飛躍させよう。メタ的で申し訳ないがそういうことにしよう。
ゴホン、ゴホン……では、いくよ。
僕のボツ原稿は、座敷牢に入れた親族である。さまざまな理由から表に出せない、族外に見られては困る存在だ。未完成で、未成熟だから。勝手に表に出て行かないように、客人の目にも触れないように。心とデジタルの座敷牢に閉じ込めているんだ。
でも死なないように、飯と睡眠だけは十分に摂らせる。誤りであっても僕が生み出した存在だ。餓死させるようなことをしては申し訳ない。
場合によっては、僕の努力によって、時代の変化によって、日の目を見ることがあるかもしれない。その日がくることを、彼らは待ち侘びているかもしれない。ーーそうでないかもしれないが。
そんなわけで、僕の座敷牢には前半だけ、冒頭だけ書いてある欠片がたくさん監禁されている。
このエッセイも、前半部分だけで眠っていた存在だ。
今日、運良く僕の目に再び止まり、続きを書かれたものだ。
おめでとう、『キミ』は解放だ。
