【短編】うっせえわ アマノ文筆クラブ
最近、音がだめになった。
仕事の疲れが溜まり、頭の奥のゼンマイがゆっくり壊れていくような感覚があった。朝から晩まで電話が鳴り、会議の声が飛び交い、チャットの通知が跳ね続ける。誰かが喋るたび、脳が一枚ずつ剥がされるようで、帰宅する頃には耳の奥が熱を持っていた。
ある晩、玄関のドアを閉めた瞬間だった。
世界の音が急に“近く”なった。隣の洗濯機の回転、上階の足音、エレベーターのワイヤーが震える低い唸り。冷蔵庫の中で空気が押し出されるような小さな破裂音。
それらが全部、耳のすぐ横で鳴っているみたいに鮮明だった。耳を塞いでも無駄だった。音は皮膚から、骨から、内側へ染み込んできた。
翌日、僕は部屋の騒音を片端から潰した。冷蔵庫の電源を抜き、エアコンを止め、換気扇の羽根を押さえ、窓枠に隙間テープを貼り、布団と吸音材を壁に重ねた。
やりすぎだとは思ったが、やらずにいられなかった。
それでも、夜になると隣人のシャワーの音が壁越しに伝わる。ぽたぽたと落ちる水滴の反響が、ビル全体を伝って僕の胸の奥にまで届く。
「……頼むから、静かにしてくれよ」
思わず呟いた声さえ、耳のすぐそばで割れた。自分の声がこんなにも騒がしいとは知らなかった。 数日後、僕は仕事を休んだ。休んだと言うより、“逃げた”が正しい。
部屋の中を布団と防音材で徹底的に埋めた。外界との接点を、ひとつ、またひとつと断ち切るように。スマホも電源を落とし、照明も切り、時計の針の音すら嫌で分解した。
次第に、世界は静かになっていった。救急車のサイレンは届かず、上階の足音も消え、隣人の生活音も薄れていった。ようやく、静寂が訪れた――と、思った。だが、違った。
とくん。
とくん。
とくん。
胸の奥から、規則正しい振動が立ち上がった。
耳でも皮膚でもなく、骨を通って直接響いてくる。
心臓だ。
世界で一番近くにある“騒音”。
息を潜めても、耳を塞いでも、どうにもならない。
静けさを求めれば求めるほど、心臓の音だけが膨張し、増幅し、僕を締めつける。
「……おい」
思わず胸に手を当てた。
指先に伝わる脈が、ひどく生々しい。とくん、とくん、と跳ねるたび、皮膚の裏側がざわついた。
「やめろ……もう黙ってくれよ……」
胸を押さえる。
止まらない騒音に、僕は呼吸を止めて抗う。
とくん……とくん……と静かに跳ねた鼓動。
とくとくとくとく――
次の瞬間にはその勢いを増してゆく。
目の前がチカチカしだし、脳が何度も「吸え!」と命令を叩きつける。意志の力で抑えつけていた声帯が内圧に耐えかねて震えだす。
もはや、苦しい――という思考すら消え、全身の細胞が一つになったかのような錯覚に陥る。たったひとつの呼吸を求めて全身が絶叫しているようだ。
ガハッ!
喉が勝手に空気を掠め取った。
抗ったのは僕じゃなく、身体の方だった。
ひゅうひゅうと鳴る音が、口から出ているのか、心臓から出ているのかすらわからない。
静寂のなかで呟く。
「うっせえわ」
(了)
こちらの作品は甘野様の主催する
下記企画に参加させて頂いております。
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