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【短編】市長は小学五年生!――犬月市、十一歳の革命

いつもより長めの短編となっております。
創作大賞への助走? 準備運動です。
本作についても、エピソードを肉付けし
応募するかも知れません😅

 朝の空気は、古い教室の黒板みたいだった。まだ誰にも何も書かれていないのに、これから始まる面倒ごとの気配だけは薄くこびりついている。四月の犬月市いぬつきしは晴れていても少し鈍い。駅前のロータリーには高齢者向けの無料巡回バスが停まり、商店街のスピーカーからは三十年前の流行歌が流れていた。町全体が、慎重という名のブレーキを踏みっぱなしにしているような場所だった。

 犬月第三小学校五年二組の虎ノ門安奈とらのもんあんなは、その朝、牛乳を一口飲んでから言った。

「私、市長になる」

 母はトーストを落としかけ、父は味噌汁をむせた。弟だけが平然とウインナーを食べていた。小学校二年生は、世界の大半をまだ冗談として受け取れる年齢だ。

「何になるって?」

「犬月市長」

「社長じゃなくて?」

「市長」

 安奈は繰り返した。繰り返す必要がある言葉というのは、たいてい相手の頭に届いていない。あるいは、届いたが認めたくないかのどちらかだ。

 父は新聞を脇に置いた。地方紙の一面には、昨日可決された条例改正の記事が載っている。犬月市長選における被選挙権の年齢制限撤廃。全国初。少子高齢化と政治参加の固定化を打ち破るための実験的政策。もっともらしい見出しの横で、識者コメントが半笑いみたいな温度を帯びていた。

「新聞を読んだからって、そういうこと言い出したのか」

「違うよ。前から思ってた。大人に任せたままだと、ずっと同じ景色なんだもん」

 その言い方が妙に大人びていて、母はかえって眉をひそめた。

「安奈、選挙って遊びじゃないのよ」

「うん。だから出る」

 トーストの焦げ目みたいに、沈黙がテーブルに広がった。

 学校へ向かう道すがら、安奈はランドセルの肩紐を引き上げた。昨日までと同じ道のはずなのに、少しだけ地面の反発が違って感じられる。秘密を一つ持っているだけで、人は数センチ高く歩けるのかもしれない。

 校門の前では、いつもと同じように用務員の長谷川が竹ぼうきを動かしていた。七十をとうに越えているが、背筋だけはやたらとまっすぐだ。朝の挨拶にも独特の圧がある。

「おはようございます」

「おう、おはよう。今日も地球は回っとるな」

 長谷川の言うことは、だいたい規模が大きい。校庭の掃き掃除をしながら宇宙の話をするような人だった。

 安奈は少し立ち止まった。

「長谷川さん、もし小学生が市長になったら変ですか」

 竹ぼうきが止まった。

「変かどうかで言えば、変だろうな」

「やっぱり」

「でもな」

 長谷川は舞い上がった桜の花びらを見た。

「変ってのは、昨日までの基準だ。明日になれば普通になることもある」

 その言葉は、ランドセルの奥にするりと入った。教科書の隙間に忍ばせた手紙みたいに、あとで何度も読み返したくなる種類の言葉だった。

 五年二組の教室は、いつも少しだけ騒がしい。静かな子も、うるさい子も、まとめて一つの水槽に入れたみたいな空間だ。安奈が「市長になる」と打ち明けたのは、一時間目と二時間目の間の短い休み時間だった。最初に言ったのは、窓際の席の真壁壮太まかべそうたにだけだったのに、教室という場所は秘密の保存に向いていない。

「え、マジで?」

「うん」

「市長って、あの市長?」

「他にどの市長があるの」

 壮太は笑ってから、笑うのをやめた。安奈の目が本気だったからだ。五年生にも、そのくらいの見分けはつく。

「でもさ、選挙ってポスターとか演説とか、めっちゃ大変じゃん」

「うん。だから手伝って」

 壮太は少し考え、わざとらしく腕を組んだ。

「しょうがねえな。副市長くらいならやってもいい」

「勝手に決めないで」

 そのやり取りを聞いていた女子が吹き出し、さらに隣の列まで伝染した。気づけば教室の半分近くがこっちを向いていた。

「虎ノ門、市長やるの?」

「やる」

「なんで?」

「公園の遊具、すぐ使用禁止にするから。図書館は午後五時で閉まるし。夏祭りの予算は削るのに、謎の記念像にはお金出すし。子どものいる未来とか言いながら、子どもの今日には全然お金使ってないから」

 教室が静まった。担任の佐伯先生が来たのかと思うくらい、急に空気が整列した。

 それから、誰かが小さく拍手した。

 最初は一人ぶんの、遠慮がちな拍手だった。それが二人、三人と増えて、やがて雨みたいな音になる。照れくさくて、少し乱暴で、でも嘘ではない拍手だった。

「いいじゃん」

「俺、ポスター描く」

「演説の原稿、国語得意な私が見る」

「TikTokやろうぜ」

「市の選挙でTikTokってありなの?」

「知らんけど」

 教室というのは、ときどき世界でいちばん早く未来を信じる場所になる。まだ選挙の仕組みも完全には分かっていない子どもたちが、分からないまま前に進もうとする。その無謀さは、たぶん自転車の補助輪を外す瞬間に少し似ていた。


 放課後、安奈は市役所へ行った。母は最初こそ反対したが、本人が本気だと知ると、半分あきれた顔で付き添ってくれた。市役所はガラス張りで、明るくて、妙に冷たい。人のための建物というより、手続きのための建物に見える。廊下を歩くたび、靴音が薄くはね返ってきた。

 選挙管理委員会の窓口にいた女性職員は、安奈の顔と母の顔と、また安奈の顔を見た。笑うべきか、真面目でいるべきか、感情の置き場に困っている顔だった。

「立候補のご相談、ですか」

「はい」

「ご本人が?」

「はい」

 女性職員は条例集を確認し、隣の席の男性職員を呼び、その男性職員はさらに奥の上司らしい人物を呼んだ。人が一人増えるごとに、話の重さが増していく。豆腐に少しずつ重しを載せるみたいに。

 やがて、眼鏡の奥で疲れた目をした中年の男が出てきた。名札には「財前ざいぜん」とある。選挙管理委員会事務局長。肩書きは硬いが、声は意外に柔らかかった。

「虎ノ門さん。制度上は可能です。ただし、供託や推薦人、事務手続き、公開討論会など、いろいろあります。思っているより大変ですよ」

「思ってるより大変なのは、だいたい何でもそうです」

 安奈が言うと、財前は目を丸くしたあと、少しだけ笑った。

「なるほど。では、その大変さを一つずつ越えていきましょうか」

 選挙戦が始まると、犬月市は少しだけざわついた。地方都市のニュースは、普段なら道路工事か花壇の植え替えくらいしか目立たない。それが「小学五年生、市長選に立候補」である。全国ネットのワイドショーまでやって来た。大人たちは面白がり、心配し、鼻で笑い、時々まじめに褒めた。どの感情にも、完全な善意と完全な悪意は混ざっていなかった。大人の感情はだいたい煮込みすぎたシチューみたいなもので、何が入っているのか途中からよく分からなくなる。

 対立候補は三人いた。現職の沢渡さわたり市長。六十八歳。再選四回。演説のうまさは職人の域で、どの言葉も使い込まれた道具みたいに手に馴染んでいた。次に、市議会で長く活動してきた七十一歳の元県議、鴨居かもい。最後に、四十二歳の起業家、小洒落た言葉で改革を語る秋月あきづき。誰もが安奈のことを話題にはしたが、本気の相手として見ている者はいないようだった。

 最初の街頭演説は駅前だった。小さな踏み台の上に立った安奈は、マイクの高さが合わず、係員に二度直してもらった。風が少し強い日で、配られたチラシが数枚、足元で暴れた。見物人の数はそれなりに多い。好奇心は、どんな選挙ポスターより人を集める。

 安奈は深呼吸した。胸の中で、心臓が新品のスニーカーみたいにまだ硬い音を立てている。

「こんにちは。虎ノ門安奈です」

 声が少しだけ裏返った。何人かが微笑んだ。それが嘲笑ではないと分かったので、安奈は続けた。

「私は十一歳です。だから、政治のことを全部知っているわけじゃありません。税金の難しい仕組みも、議会の慣例も、たぶん大人の皆さんの方がたくさん知っています。でも、知らないから見えることもあります」

 そこで一度、駅前を見た。ベビーカーを押す母親。ベンチに座る老人。スマホを見ながら通り過ぎる高校生。塾の鞄を背負った小学生。犬月市はそこに確かにあって、それぞれ別の速度で呼吸していた。

「犬月市は、子どもに優しいふりが上手です。未来のためって言葉もたくさん聞きます。でも未来って、いつも明日以降の話にされる。今日学校が終わっても遊ぶ場所が少ないこと。図書館が早く閉まること。部活の体育館が古くて危ないこと。親が仕事で忙しくて、放課後の居場所がないこと。そういう今日の不便を、ずっと先の未来という言葉でごまかしてる」

 ざわめきが止まった。マイクの向こうで、何人かの大人が顔を上げた。

「私は子どもです。でも、子どもだから、市のことを自分に関係ないとは思えません。大人になるまで待っていたら、たぶん今の嫌なところを忘れてしまうから。だから今、言いに来ました」

 その瞬間、駅前を抜ける風が少し変わった。湿った雑音がどこかへ流れ、言葉だけが前に出る。そんな感覚があった。

 演説が終わると、記者が群がった。

「安奈さん、当選したら最初に何をしますか」

「市役所の偉い人たちの椅子を少し硬くします」

 一瞬の沈黙のあと、笑いが起きた。

「それは冗談ですか?」

「半分だけ。座り心地が良すぎると、変える必要を忘れるから」

 夕方のニュースでそこだけ切り取られた。犬月市役所の椅子問題。SNSでは面白がる声も、怒る声もあったが、安奈の支持率は少し上がった。人はときどき、正論そのものより、正論に付いた小さな棘に反応する。

 もちろん、選挙は綺麗なものばかりではなかった。

 学校の帰り道、見知らぬ男が近づいてきて言った。

「お嬢ちゃん、政治ってのはそんな甘くないんだよ」

 ネクタイの曲がった男だった。選挙スタッフでも記者でもなさそうだが、大人独特の“わかった顔”だけは完璧だった。

「知ってます」

「分かってない。理想だけじゃ市は回らない」

「じゃあ、理想なしでは何で回すんですか」

 男は口を開きかけて、閉じた。自動ドアみたいな会話だった。開くが、その先に人がいない。

 またある日は、現職の沢渡陣営が「子どもを政治利用するのはいかがなものか」という趣旨の発言をした。直接名前は出さないが、犬月市民なら誰に向けた矢かわかる。テレビのコメンテーターは、もっともらしい顔で「周囲の大人の責任」を語った。

 母はそれを見て、珍しく怒った。

「周囲の大人って何よ。本人が一番本気なのに」

 そのとき安奈は、母のことを少し見直した。家で口うるさい大人と、外で子どもを守る大人は、ときどき別人みたいに見える。

 公開討論会の日、市民ホールは満席だった。壇上の机に並んだ名札の中で、「虎ノ門安奈」だけが少し場違いに見える。けれど場違いというのは、見慣れていないというだけの話でもある。

 司会者が財政、福祉、防災、産業振興について順に質問を投げる。沢渡は手堅く答え、鴨居は経験を語り、秋月は横文字をちりばめた。安奈の番になると、客席には好奇心と心配が混ざった視線が集まる。

「高齢者福祉と子育て支援の予算配分について、どう考えますか」

 意地の悪い質問だ、と安奈は思った。どちらかを選ばせれば、必ず誰かが傷つくように設計された問いだ。大人はこういう質問を発明するのが上手い。

 安奈はマイクを持ち直した。

「選びません」

 会場がざわつく。

「高齢者も子どもも、どっちも市民だから。対立させること自体が変だと思います。私のおばあちゃんは足が悪いです。弟はまだ一人で遠くへ行けません。二人とも、安心して外に出られる町が必要です。段差のない道は、おばあちゃんのためでもあり、ベビーカーのためでもあります。公園のベンチが増えれば、お年寄りも子ども連れも助かります。世代同士を奪い合わせるみたいなやり方が、もう古いんじゃないですか」

 客席の後ろの方で、誰かが大きく頷いた。

「あと」

 安奈は少しだけ笑った。

「年を取るのは、だいたい全員の予定に入ってるので」

 その一言で、張りつめていた空気が緩んだ。笑いが起こり、拍手が続いた。沢渡市長だけが無表情だった。

 討論会のあと、控室の廊下で沢渡本人とすれ違った。近くで見ると、テレビよりずっと小柄な男だった。長く権力を持っている人間は、背中に見えない家具みたいなものを背負っている。威厳というより、動かしづらさの気配だ。

「君は賢いね」

 沢渡は言った。

「ありがとうございます」

「でも、市政は学級会じゃない」

「知ってます」

「理想を語るのは簡単だ」

 安奈は少し考えたあと、答えた。

「諦める方が簡単です」

 沢渡の眉が、ほんの少しだけ動いた。勝ったとか負けたとかではない。古い鍵穴に、新しい鍵の形が一瞬だけ触れた。そんな感じだった。


 選挙戦の終盤、犬月市には小さな風が何本も吹き始めていた。商店街の店主がポスター掲示を申し出た。高校生たちが自主的に応援動画を作った。保育園の送り迎えをしている親たちが、立ち話のついでに政策を語るようになった。面白半分で始まったはずの話題は、少しずつ本物になっていく。本物になるというのは、笑い話で済まなくなることだ。

 投票日前日。最後の演説をしたのは、犬月第三小学校のすぐ近くの公園だった。ブランコは錆びて、片方は使用禁止のテープが貼られている。滑り台の塗装も剥げていた。遊具の老朽化。何度も市議会で議題に上がり、何度も先送りにされた場所だ。

 夕暮れが、鉄棒の影を長く引っ張っていた。

「私は、市長になったら急に完璧にはなれません」

 安奈は言った。

「大人みたいに難しい言葉も、まだそんなに知りません。失敗もすると思います。でも、それを理由に何もしないよりは、失敗しながらでも前に進む市の方がいい」

 公園の外には、いつのまにか大勢の人が集まっていた。子どもたち。保護者。仕事帰りの人。制服の高校生。犬の散歩中の老人。夕方の町が、そのまま立ち止まって聞いているようだった。

「犬月市を、年を取った町だと思いたくありません。昔を大事にするのはいいことです。でも、昔に座り込んだままじゃ前に進めない。懐かしいって言葉は、ときどき便利すぎます。今つらいことを見ないで済むから」

 少しだけ風が吹いた。髪が頬にかかる。

「私は子どもです。だから、未来の話をするのが仕事です。でも未来って、遠くにある旗じゃなくて、明日の放課後のことだと思う。明日、ここで安心して遊べるか。明日、図書館に行けるか。明日、おじいちゃんが一人で病院に行けるか。そういう明日を作るのが、市長の仕事だと思っています」

 安奈は最後に、いつもより少しだけゆっくり言った。

「犬月市を、若くしたいわけじゃありません。ちゃんと生きている町にしたいんです」

 拍手は、すぐには起きなかった。数秒の静けさがあって、それから波みたいに押し寄せた。大きくて、長くて、どこか泣きそうな拍手だった。

 投票日の夜、開票速報は市民会館で待った。安奈は眠かった。そもそも小学生はこの時間、だいたい歯を磨いて布団に入っている。けれど今夜だけは特別だった。体育館のように広い会場で、報道陣のライトが白く熱い。数字の入ったボードが壁際に立てかけられ、人々のざわめきが絶えず揺れている。

 最初の速報で、沢渡が優勢と出た。

 次で、差が縮まった。

 三度目の速報で、秋月を抜いて二位。

 四度目で、沢渡とほぼ横並び。

 会場の空気は炭酸水みたいだった。何か起きそうな気配が、無数の細かい泡になって弾けている。

 そして確定が出た。

 虎ノ門安奈、当選。

 一瞬、何も聞こえなかった。音が全部遠くへ押しやられたみたいに、世界が無音になった。次の瞬間、歓声が上がる。母が泣き、父が何度も眼鏡を外して拭き、壮太が副市長ポーズとかいう意味不明なガッツポーズをしていた。

 安奈は壇上に上がり、マイクの前に立った。フラッシュが何度も光る。まぶしくて、世界が少しだけ断続的になる。

「えっと」

 会場が静まる。

「まだ実感は、あまりありません」

 笑いが起こる。

「でも、たぶんそれでいいんだと思います。実感がありすぎると、人は偉くなった気がしてしまうので」

 また笑いと拍手。

「私は一人で勝ったわけじゃありません。クラスのみんなも、家族も、応援してくれた市民の人たちも、たぶん私に“期待”したというより、“変わるかもしれない”って思ってくれたんだと思います」

 安奈は言葉を選んだ。言葉は石けん玉に少し似ている。強く握ると割れるし、軽すぎても空に逃げる。

「だから私は、奇跡になりたくありません。一回だけの面白い出来事で終わりたくない。子どもが市長になったことより、犬月市がちゃんと変わったことを、あとで思い出してほしいです」

 その夜、犬月市のあちこちで遅くまで明かりがついていた。スナックでも、団地の台所でも、コンビニの駐車場でも、人はその話をした。肯定も否定も、驚きも不安もひっくるめて、町が自分のことを話題にしている。長い眠りのあとで寝返りを打ったみたいに。

 数日後、初登庁の日。

 市役所前には人が集まり、報道陣のカメラが並んだ。安奈は少し大きめのジャケットを着ていた。子どもの肩にはまだ役職が馴染まない。けれど、馴染まないからこそ見えるものがある。

 庁舎の入口で、財前が待っていた。

「おはようございます、市長」

 その呼び方に、安奈は少しだけむずがゆくなった。

「おはようございます」

 エレベーターで上がり、市長室へ向かう。廊下の窓から見える犬月市は、いつも通りの朝だった。車が走り、人が歩き、遠くの川が光っている。革命の翌日も、町は普通に朝を迎える。それが少しうれしかった。

 市長室のドアを開けると、大きな机と、柔らかそうな椅子があった。いかにも偉い人の部屋、という感じがした。前の市長たちの写真が整然と並び、重厚な時計が音もなく時を刻んでいる。部屋全体が「ここでは急に動くな」と言っているみたいだった。

 安奈は椅子の前に立ったまま、しばらく座らなかった。

「どうされましたか」

 財前が訊く。

「椅子、ちょっと座り心地良すぎませんか」

 財前は噴き出しそうになり、なんとかこらえた。

「変更も検討できます」

「本当に?」

「ご命令なら」

 安奈は窓の方へ歩いた。ガラスの向こうに、学校の屋上が小さく見える。あの教室で拍手してくれたみんなも、今ごろ算数か理科の授業を受けているはずだった。世界はちゃんとつながっている。市長室と五年二組のあいだにも、見えない廊下みたいなものがある。

 安奈は振り返った。

「最初の仕事、決めました」

「何でしょう」

「この部屋のドア、少し開けておきたいです」

 財前は瞬きをした。

「常時、ですか」

「うん。閉まってると、中で何を考えてるか分からなくなるから」

 財前は少し考え、静かに頷いた。

「前例はありませんが」

「じゃあ、ちょうどいいです」

 ドアが少し開いた。たったそれだけで、市長室の空気は変わった。廊下の気配が薄く流れ込み、外の足音がかすかに聞こえる。閉じた箱だった部屋に、町の呼吸が入ってくる。

 机の上には、市の課題が山のように積まれていた。財政、福祉、防災、老朽化した公共施設、人口減少。どれも簡単ではない。むしろ、子どもの手には余るものばかりだろう。けれど安奈は、その山を見て少しだけ笑った。

 遠すぎる未来なんて、まだ分からない。

 でも、今日の放課後を変えることなら、きっとここから始められる。

 窓の外では、春の風が市役所の旗を鳴らしていた。古い町の上を、新しい風が通っていく音にしては、ずいぶんと軽やかだった。

(了)


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