【短編】今日の献立
オフィス街に蓄えられた太陽の熱は、陽が落ちても簡単に冷めることはない。たくさんの路地たちは、八時を過ぎてもまだ、呼吸をするように生ぬるい息を吐き出してくる。着込めば何とかなる冬の方が、まだマシというものだ。
今日も夜のコンビニに向かう。会社から徒歩二分というのは有難い。いや、残業がない方が、もちろんありがたいのだが。ちゃんとした夕飯はしばらく食べていない。すっかり胃袋も麻痺してしまった。手料理なんて食べたらびっくりして穴でも開くんじゃないだろうか。
パッケージも見ずに左から二つを取る。今日は鮭と日高昆布か。ブラインドで具材を選ぶ。ささやかな楽しみだ。とはいえ、ひとつ200円弱もするようになった。ひと昔前は100円だったのに。何かと理由を付けて値上げしたものは、決して下がることはない。中身が減ることはあっても。僕の給料に対するおにぎり代の比率は上がる一方だ。
レジの店員は黙って僕の夜食をスキャンする。ショートカットの妙齢の女性。最近、この時間にいることが多い。
「お茶……」
女性がつぶやく。
「あっ!」
いつも買うほうじ茶をカゴに入れ忘れた。今日は眠気覚ましにとミントタブレットを見に行って、そのままレジに来てしまった。
「すみません。取ってきていいですか?」
「大丈夫ですよ。他にお客様も居ませんし。そのままお待ちしてますね」
彼女はハンディー片手に、目を細める。飲料の陳列棚へ、レジから一番遠い場所へ駆けながら、背中に暖かい視線を感じる。ずっと……見られてる。恥ずかしい。いや、でも後ろに列ができているときじゃなくて本当によかった。ほうじ茶を手に取り、帰りは歩きながらレジの笑顔へと向かう。
「ありがとうございます。また来なきゃいけないところでした」
スマホの決済画面を見せながら、ほうじ茶の礼を言う。
「それはそ――」
ペイペイッ!
決済音にかき消された彼女の言葉。聞き返そうとしたが、いつの間にか、後ろにはカゴ一杯の商品を持った客。泣く泣く彼女を譲り、店を後にする。会社に戻る道のりは、なぜか心まで生ぬるかった。
事務所に戻り、おにぎり二つをほうじ茶で流し込んだ僕。昨夜は明太子とツナマヨだったなあ。そんなことを考えながら二時間もキーボードを叩いていたら報告書は書きあがっていた。ミントタブレットは必要なかった。
ビルを出ると、先ほどの熱気はやや収まりを見せていた。だが、湿り気のある風は、首筋の汗を乾かすほどではない。事務所の窓を見上げると、最後の退出者を送り出した部屋は、ようやく眠りについていた。
「おつかれさまです」
地下鉄の階段を下りていると、背中をつんと叩かれる。
振り返ると、あのレジの女性の笑顔。名札を外した彼女は、ゆったりとした薄手のニットにスラックスという、シンプルだが上品な装いだった。レジ越しには分からなかったが、案外背が高い。私服姿なのを見るに、同じく帰宅するところなのだろう。
「ああ、おつかれさまです。今日はありがとうございました」
「いえいえ。いつもあれ買われますもんね」
クスクスと笑う彼女。ほうじ茶マンとかあだ名を付けられていたらどうしよう。だけど、彼女になら不思議と嫌な気はしなかった。丸まっていた背筋を少しずつ真っすぐに伸ばす。
改札までの短い時間、笑顔のままの彼女と歩く。そういえばさっきレジで聞きそびれたあの言葉。そう思った矢先、彼女の方が先手を突いた。
「今日は、鮭でしたっけ?」
「え、ああ。今日は鮭と……そう、昆布。汗かいてたから塩気があって最高でした」
そう言った瞬間、彼女の笑顔が、さらに咲いた気がした。
「いつも左から取られますもんね」
「ああ、ええ。何を手に取るか、ちょっとした運試しみたいなもんです」
近づく改札。慌ててカード入れから定期を取り出す。
「あれ、私のこ――」
ピピーッ!
改札のエラー音に彼女の言葉がかき消される。やってしまった。右手を見るとクレジットカード。後ろの客に頭を下げながら、定期を取り出しタッチする。
「ははは」
改札の先で声を上げて笑う彼女。色んな感情が込み上げてきて、思わず赤面する。恥ずかしさ、申し訳なさ、そして――。
「ちょっと、笑いすぎですよ。それより、いまなんて言ったんですか?」
指先で目頭を拭いながら、肩で息を整える彼女。
向こうへ一歩踏み出しながら、ちょっとだけ期待していた言葉を置いていく。
「あれ、私の献立ですよ」
(了)
