【短編】燕三条を過ぎて
県境の大きな川を渡る頃には、窓の外はすっかり闇に呑まれ、冬の日の容赦のない短さを物語っていた。車両の明かりが落とされることはない。しかし、夜の帳に包まれたグリーン車は、もともとの間接照明のせいもあって、どこか現実離れしたラウンジのような雰囲気を醸し出していた。
「……失礼」
私は用を足そうと、通路側の女性に断りを入れ席を立った。
「どうぞ」
それまでずっとうつむき、肩ほどの髪で顔を隠していた女性だった。彼女はわずかに膝を引き、小さく微笑んで私を見上げた。 そのアルカイックな微笑に、どこか見覚えがあるような気がしたが、私を急かす切実な用件は、そこに足を留めることを許さなかった。
前を歩く男性が一人。彼は私と同じ目的地を持っていたようで、滑り込むようにして狭い化粧室の先客となった。しばしの空白を与えられた私は、微かに震えるデッキの自動ドアの前で佇み、先ほどの彼女のことを思い出そうとしていた。
数多の記憶の砂粒を手ですくおうとしながら、そのうちの一粒が眩しく光り輝き、私を手招きしていることには、最初から気付いていたのだ。
◇
髪の長い少女だった。
彼女は腰丈ほどもある黒髪を、いつも肩甲骨の辺りで結んでいた。同じ中学からの進学者が少なかったこともあって、私と彼女は、高校へ向かう朝の電車の中でいつしか言葉を交わすようになり、よく並んで揺られていた。
なぜか前歯の足りない教師のことや、前夜に見たテレビドラマの話。そんなたわいもない会話を、手の中でビー玉を転がすように慈しみ、私たちは目を合わせては笑った。
口元だけが自然に弛緩した笑み。それでいて表情のどこにも無理のない美しい笑顔。彼女からその笑みを引き出すことだけが、灰色で退屈な高校生活のなかで、私の唯一の目的であり、救いだった。
その笑顔を独り占めしたいと思うのは、時間の問題だった。
私は夏のある日、帰りの電車のなかで彼女に「好きだ」と告げた。失うものがないとは思ってなかったが、勝算がなかったわけでもない。環境がかろうじて繋いでいる関係に、これ以上甘んじていることも、自分なりに許せなかった。
そして私は、あの日、失った。
次の日から朝の電車で彼女を見かけることはなかった。学校でその姿を遠目に留めることくらいは許されたが、それだけだった。下校時は、彼女の隣に友人が付き添うこととなった。それが女生徒だったことだけが救いだった。
卒業の日。誰からも制服のボタンを求められることのなかった私は、足早に校舎を去ろうとしていた。色彩のない生活から、一刻も早く逃げ出したかった。胸につけられた赤い花をもぎ取ると、ゴミ箱へ叩きつけて昇降口から飛び出した。
すれ違ったのは、彼女だった。
忘れ物でもしたのか、あるいは誰かとの待ち合わせだったのかはわからない。 すれ違いざま、校舎へと歩を進める彼女は、私に向けて小さく「またね」と言った。たしかにーーそう言ったのだ。
◇
アナウンスが燕三条駅の名を告げたとき、化粧室のドアが内側から乱暴に開かれた。ベルトの金具をかちゃかちゃと鳴らしながら去っていく男性は、おそらく次の駅で降りるのだろう。私は、自動で閉じかけようとするドアを肘で押し開け、狭い部屋へと身体を滑り込ませた。
それからの三分。私はたったひとつのことを考えていた。隣の座席にいる女性が、本当にあの彼女なのか。それとも、ただの他人の空似なのか。
あの腰丈の黒髪は失われていたとしても、私がかつて恋した、あの唯一の微笑みだけは、どうしても見間違えようのないものに思えてならなかった。
発車メロディーと共に再び滑り出した車両のデッキ。客席へと足早に戻る私の目的は、あの日の言葉の真意を確かめることではなかった。失った色彩を取り戻そうだなんて思ってはいないし、もはや重ね塗りできるほどの人生を持ち合わせてもいない。それは彼女だって同じはずだ。
ただ、もう一度見たかった。
間接照明が照らす静かな車両。スマホの画面の光が、蛍のように点々と灯る暗がりのなかに、もはや彼女の姿を見つけることはできなかった。私の隣席はすでに主の温度を失っており、そこにはあのアルカイックな微笑みの、微かな残香すら残されてはいなかった。
自席に腰を下ろすと、ようやく肺の奥の空気が抜けた。車窓にあの日の思い出を映そうにも、くたびれた自分の顔を見るばかりだった。
これでよかったのだ。
折り畳んだ背広を膝にかけ、ゆっくりと目を閉じた。
(了)
