【短編】指先で撫でるだけで
朝の改札。礼儀正しく並んだ改札機のスリットに、川のように人が流れ込んでゆく。その水の一滴となって進んでゆく私もまた、大きな流れの一部に過ぎない。
前の人に追い付かぬよう、後ろの人にぶつかられぬよう、ただ進む。
ーーピン、ポーン。
ひとつ前の一滴が流れを止める。タッチミスか、残高不足か。足を止めた私の背中に舌打ちがぶつけられる。
私じゃないのにな。
困ったような顔で会釈して列を離れる男性のために、私は少し右へ体を避ける。すると今度は右の流れを妨げたようで「邪魔だよ!」と怒鳴られる。
しょうがないのに。
スリットを抜け、両手が自由になったところでバッグに左手を突っ込む。指先に着古したウールのようなしっとりとした感触。長年連れ添って毛並みはすっかり寝てしまった小さなクマのぬいぐるみ。
嫌なことがあったとき、私はこっそりクマをひと撫でする。悲しみも苛立ちも、クマが吸い取って優しく慰めてくれる。悪い感情を小さな体に溜め込んで、ちょっとずつ足元に落としていってくれるから。
会社に着いてほっと一息。タイムカードをタッチした瞬間、課長から「早河さーん」とお呼びがかかる。まだ席にも辿り着いてないのに。自分のために準備した始業前の15分は消えてなくなりそうだ。早起きは三文の得じゃなかった?
「ごめん、朝礼前に役員と急な打ち合わせが入っちゃって。資料のコピーを五部だけ頼んでいい?」
五部……だけ? 課長の手にある分厚い資料は30ページはありそうだ。全部で150枚の複写を待たなきゃいけないし、ホチキスだって総務にある大きいのじゃないと針が通らない。ああ、朝の自由はなくなった。
もう! クマはバッグと一緒に席に置いてきちゃったのに。
それからの一日は、なぜか次々と湧き起こるイレギュラーに支配され、常に15分押しのまま夕方になった。今日やるべきことまで終わらせると、ちょうど定時の15分過ぎ。女子たちは早々にデスクを片付け消えており、周りにはPCとにらめっとして唸り声を上げるオジサンたちだけになっていた。
残業という、望まない緩やかな時間。前に並ぶ人も、後ろから詰めてくる人もいない。もはやゴールは「終わったら」だから、チャイムに追われてデスクを片付ける必要もない。
そんなゆったりとした時間に、私はクマをひと撫でする。それだけで少しだけ呼吸が楽になる。少し温まって柔らかくなったバターのように、私の心の表面に広がって平らにしてくれる。
愛情でも気遣いでもないクマとのキャッチボールを堪能したら、私はデスクを綺麗に拭き上げて退社する。今日もずっと忙しくて、それでいて、何もない日だったな。昨日と一緒だったなあ。
電車では疲れた顔たちの大きな流れに混ざり、駅からはめいめいにシャワーのように散っていく。そんな一粒になって自宅までの坂道を登る。クマと一緒だから大丈夫。
小学生の頃から大切にしているぬいぐるみ。手のひらにすっぽり収まるくらいのピンクのクマ。ふわふわだった毛並みはすっかりつるつるになっちゃったけど、私の心とずっと一緒に歩き続けてくれている。もちろん、これからも。
玄関を開けると革靴が斜めに居座っている。珍しい、平日に来てるなんて。私は脱いだパンプスと一緒に二足を端に並べて部屋に入る。
「ただいま、来てたんだ……」
「おう、おかえり。ごめん、先に飲んじゃってたわ」
彼はソファーに腰を下ろし、ビール缶を目の高さまで持ち上げる。
「いいよ。それよりご飯食べた? お腹空いてるならなんか作ろうか?」
テーブルにバッグを置くと、彼は立ち上がってビールの缶を横に振る。
「ちょうど空になったからさ。外に食べに行こうよ。帰ったばっかで作るのしんどいっしょ」
「わかった。おごりね」
「おっけ」
バッグからスマホと財布を取り出すと、一緒に色褪せたピンクのクマが飛び出してきた。
「うわ! なにその汚いぬいぐるみ」
うっさいなあ。
それ、お前がくれたんだよ。
(了)
