見出し画像

【短編】風のとおる場所で憂う

菅原浩介(28)営業マン

 午前十一時四十五分。駅前の喫茶店を飛び出した僕の耳の奥では、まだあの男の乾いた笑い声が微かに反響していた。

 今月で三度目になる、契約の白紙撤回。僕の差し出した丁寧な提案書は、彼らにとってただの「熱意の空回り」に過ぎなかったらしい。ネクタイが首を絞める縄のように感じられて、僕は歩きながらそれを少しだけ緩めた。

 公園から聞こえる子どもたちの声までが、自分を笑っているように聞こえた。僕は目を逸らし、その場を離れた。

 気づけば、古い住宅街に迷い込んでいた。昼下がりの太陽が、アスファルトの熱をじっとりと吸い上げている。どの家も静かだった。洗濯物はきれいに揺れ、庭木は丁寧に刈り込まれていた。その景色の中に、自分だけが場違いな気がした。

 不意に、ある家の玄関先で足が止まった。白く塗られた小さな木製フェンスの向こう側、手入れの行き届かないプラスチックのプランターに、数輪の鮮やかな赤い花が咲いていた。そのひたむきな赤が、妙に僕の目を刺激した。

 気づいたときには、指先がその一本の茎を乱暴に毟り取っていた。引きちぎられた茎から、青臭い生々しい匂いが立ち上り、僕はハッとしてそれをポケットに押し込み、逃げるようにその場を去った。


桜坂君枝(52)主婦

 君枝は、キッチンの窓でじっと自分の手元を見つめていた。小さなプラスチックのプランターに植えた赤いゼラニウムは、ここ数週間、いくら水をやってもどこか元気がなかった。

 葉の端が茶色く枯れ始め、まるで彼女の心そのものが萎びていくのを映し出しているようだった。街の園芸店で「初心者でも簡単」と言われて選んだはずなのに、どうして上手くいかないのだろう。

 子どものいない静かな暮らしにも、ようやく慣れてきた頃だった。余った時間を埋めるために始めたガーデニングだったが、それさえも彼女に小さな挫折感を植え付けるだけだった。

 周囲の家々が見事な薔薇や瑞々しい緑で溢れているのを見るたび、自分の不器用さが責められているような気がした。ため息をつくと、ガラス窓が白く曇った。

 翌朝、ゴミを出しに玄関を出た君枝は、プランターの前で足を止めた。昨日まで頼りなくも咲いていたはずの、一番大きな赤い花が、茎の途中から不自然に失くなっていた。

 風で落ちた風でもなく、誰かが故意に指で折り取ったような、生々しい断面。最初は恐怖だった。けれど、その折れた茎を見つめているうちに、不思議と肩の力が抜けた。

「もう、いいのかもしれない」

 君枝はそう呟くと、元気のなかったゼラニウムの株を思い切ってすべて引き抜いた。土を大きなスコップで何度も耕し、古い根を丁寧に取り除いていく。不思議と涙は出なかった。

 彼女はその足で、今まで入ったことのなかった路地裏の古い生花店へと向かい、見たこともない薄紫色の小さな花の苗を買った。風に揺れるその繊細な花びらは、どこか遠い国の星のようだった。



 一週間が経ち、僕の心からはあの日の衝動的な怒りは消え失せていた。代わりに残ったのは、ポケットの隅でカサカサに乾いてしまった、あの赤い花びらの残骸と、泥棒のような罪悪感だった。営業回りの途中、気づけば足は再びあの住宅街へと向かっていた。僕は一体、何を確かめようとしているのだろう。

 あの白いフェンスの家に辿り着いたとき、僕は自分の目を疑った。あの時、僕が傷つけたはずのプランターには、全く違う薄紫色の花が、溢れんばかりに咲き誇っていた。

 土は黒々と湿り、生き生きとした葉が午後の光を弾いている。僕の犯した身勝手な過ちは、すでにその場所から完全に拭い去られているように見えた。

 その時、玄関のドアが静かに開き、エプロン姿の女性が出てきた。手には小さなジョウロを持っている。彼女は僕の姿に気づくと、不審に思う風でもなく、ただ小さく会釈をした。

 僕は逃げ出すこともできず、手に持っていた紙袋を強く握りしめた。紙袋には花の苗が入っていた。なぜ買ったのか、自分でもうまく説明できなかった。

「……綺麗ですね」

 僕は声を絞り出した。彼女はジョウロを持ったまま、不思議そうな目で僕を見つめている。僕はただ、この静かな庭の片隅で、自分の不格好な心と向き合うしかなかった。

「……前の、赤い花も素敵でしたけど」

 差し出した紙袋の隙間から、僕が買ってきた新しい苗の青い葉が覗いている。彼女はそれを見つめ、それから僕の顔を見て、優しく笑った。

「ありがとうございます。でも、あの赤い花は少し、ここで窮屈そうにしていたから」

 彼女はジョウロを足元に置き、プランターの薄紫色の花にそっと触れた。

「新しくお迎えしたんです。この子たちは、風がよく通る場所が好きなみたい」

 その言葉が、僕の胸の奥の固く冷たい塊をじんわりと溶かしていくようだった。彼女が僕の「過ち」を知っているのか、それともただの偶然なのかは分からなかった。けれど、その優しい声には僕を責める響きはどこにもなかった。

「もしよかったら、その袋の苗、ここに一緒に植えていかれますか?」

 彼女の言葉に、僕は小さく頷いた。ジョウロから落ちた水が、新しい土をゆっくり黒く染めていった。僕はその色を、しばらく見つめていた。


(了)


いいなと思ったら応援しよう!