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【短編】ぬるいコーヒーと正しい速度

 病院からの電話は、昼休みの終わりに鳴った。営業車の中でおにぎりを食い、ぬるいお茶を流し込んでいた。表示された番号を見た瞬間に、嫌な予感だけがはっきりした。

「容体が急変しました。できるだけ早くお越しください」

 短い言葉だった。短いぶん、余白が広い。返事をしたはずだが覚えていない。気づけば車を出していた。一般道を走る。ナビの青い線だけが、妙に落ち着いている。

 アクセルを踏む。前の車が遅く感じる。赤信号が長い。右折車線に並ぶ列が、やけに伸びて見える。普段ならどうでもいい数分が、その日は壁みたいに立っていた。時計の針だけが、こちらを置いて進んでいく。

 母は丈夫じゃないくせに、丈夫なふりだけはうまかった。熱があっても台所に立ち、「平気」と笑う。鍋の蓋を開ける手が少し震えていたことを、俺は知っている。あの笑い方を、俺は信用していなかった。

 入院したと聞いたとき、ようやく任せられると思った。医者や看護師に囲まれて、少しは誰かに預けられる。だが、任せるというのは、手放すことに似ている。人は預けた瞬間から、どこかで覚悟を始めているのかもしれない。

 バックミラーに白が映る。赤色灯が回る。

「前の車、左に寄せて停車してください」

 いまじゃない、と思った。それでも寄せるしかない。エンジンは切らなかった。白バイの男がヘルメットを外す。顔を見て、一瞬だけ言葉を失う。

 久志だった。

 高校の同級生。三年のとき同じクラスで、文化祭で一緒に段ボールを運んだことだけ覚えている。それ以来、会っていない。

「……修一?」

「ああ」

 久志はすぐに仕事の顔に戻った。

「かなり出てたぞ」

「病院なんだよ。母親が危ない。急変したって。頼む、今だけ見逃してくれ」

 久志は黙る。風が抜ける。向こうの車は、何事もなく流れていく。さっきまで自分がいた流れに、もう戻れない気がした。

「規則だから」

「スマン」

 硬い声だった。高校の頃の、雑に笑う感じは残っていない。免許証を出す手が震える。怒鳴ることもできたはずだが、しなかった。規則は俺を待たないし、破っても時間は戻らない。

 説明を受け、署名をする。自分の名前が他人みたいに見えた。久志は最後まで崩さない。ただ書類を返すとき、一瞬だけ目を伏せた。

「急げ」

 想い出にある声で、それだけ言った。

 車を出す。さっきより速度を落とした。もう、間に合わない形が見え始めていた。信号は相変わらず赤に変わるし、前の車は同じ速さで進む。世界は、何も変わらない速度で動いている。

 病院は静かだった。看護師が会釈をする。ああ、と思う。説明より先に分かる。

 母はもう息をしていなかった。

 顔は穏やかだった。眠りと違うのは、明日がないことだけだ。たったそれだけの差が、越えられない。

 何かを言った気がするが、残っていない。医者が時間を告げ、必要なことが進む。父は椅子に座ったまま動かなかった。誰もが正しい順番で動いていた。俺だけが、どこにも辿り着けなかった。

 ひと段落して、海へ向かった。実家へ戻るには早く、病院にいるには遅い、余りの時間だった。

 堤防の脇に車を止める。自販機でコーヒーを買う。温かい方を押したのに、少しぬるい。プルタブを開ける。金属の音が小さく鳴る。

 海は曇っている。青なのか灰色なのか、はっきりしない。波だけが繰り返す。

 久志は正しかった。見逃さなかった。俺も急いだ。病院は連絡をくれた。母はその時刻に死んだ。誰も間違っていない。だから、やりきれない。

 コーヒーを一口飲む。苦い。母が昔、「甘い薬みたい」と言っていたのを思い出す。あれは病院の帰りだったかもしれない。

 風が窓から入る。ダッシュボードの紙がわずかに揺れる。

 缶を傾ける。ぬるいコーヒーが喉を通る。間に合わなかったことも、恨みきれないことも、そのまま落ちていく。

 遠くで、波の音がひとつだけ重なった。

(了)


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