【メモ】粗塩でありたい
帰宅すると、嫁子がスイカを買ってきていた。スーパーで見かける1/4カットの小さいやつを。
「ああ、もうそんな季節か」と独りごち、赤い欠片に粗塩を振る。
僕は食材に直接かけるときは、粗塩を好む。肉や魚に、そのまま食べる野菜にはそれがいいのだ。粒が大きくしっとりしており、塩味のなかにもわずかな旨みを感じる。
幼い頃、家の近くに軽トラでスイカを売りに来る老夫婦がいた。とても大きなスイカで、値段はたしか、ひと玉五百円だった。農家のような装いだったので、多分直接売り歩いていたのだろう。
学校帰りにそれを見かけると、母からお金をもらって、また老夫婦の元へ駆けて行った。家族四人で食べるにも十分な大きさだった。
ある日スイカを買うと、おじいさんが「これをかけてごらん。もっと甘くなるから」と小さな袋をくれた。ほんのり茶色を帯びた、白い結晶の粒だった。いま、この歳で持ち歩いていると、職質で勘違いされるような。
夕食後にスイカを食べる際、それを思い出して母に見せると、「ああ、粗塩だね」と言った。きょとんとする僕に、母は「昔はよく粗塩で食べたものだよ」と教えてくれた。
そのとき食べたスイカの味が忘れられない。今まで食べていたのは何だったのか。そう思うくらい、甘くて、旨みが凝縮された味だったのだ。
スイカの出来が良かったのかもしれない。夕食のカレーライスとの対比で更に甘く感じたのかもしれない。粗塩だけのせいではなかっただろうが、僕は今でもそのスイカが生涯一だと胸を張って言える。
思い出補正を込みにしても。
それから、僕は粗塩にハマった。いや、塩だけじゃない。正確には「混じりっけのあるもの」の魅力に取り憑かれた。
僕は粗塩や岩塩を使い、焼きムラのある陶器でお茶を飲む。話し言葉も、標準語より訛りのある方言の方が好きだ。文字だって、書き手の個性が見える手書きの方が好きだ。
そういうものは、「普通」とされているものよりも一手間かかることが多い。調味料は料理を選ぶから何種類も揃えないといけない。陶器はプラと違って落とせば割れるし、洗うときも気を遣う。
だが、それがいい。
混じりっけのあるものを、一手間かけてそれに適した使い方をして生きていくのも乙なものだ。その時間は、誰かに渡されたものじゃなく、間違いなく自分で選択した時間だ。それを楽しみたい。
僕だって綺麗に精製された人間じゃない。教科書に書いてあるような人生を歩いてきていないし、失敗もたくさんしてここまで来ている。
みんなそうじゃないか。精製塩のように、均一な人間なんてそうそういない。みんな混じりっけある人間だ。複雑な旨みを抱え込んで生きている。
僕は、粗塩でありたい。
そんなことを考えながら、三つに切り分けられたスイカに齧り付く。1/4カットで600円だったらしい。ひと玉分だと2400円だ。
あのときのスイカには、値段も味も勝てない。エアコンのない夏も、一緒に食べた両親もいない。
