【短編】君の嫌いだったスキ
「歩くの遅いのが嫌いだった」
「笑うと歯茎が見えるの嫌だった」
ついさっき元カレに言われたこと。向かいの席に座っていたアキラ君は、いまは半分残った珈琲だけになっていた。テーブルに置かれた千円札が「元」の部分を意味している。
なにもお手洗いに行ってるあいだに帰らなくていいのに。おかげでこっちは嫌だったことをひとつも伝えられずに終わってしまった。別に、最後に気分が悪くなるようなこと、私は言うつもりはなかったけど。
甘い甘いミルクティー。アキラ君の話を聞いて、私が笑って。向こう側から珈琲の香りがふっと届く。それだけでよかった。だけど本当は「かわいいね」って言われたくて、髪もお化粧も、たくさん頑張った。気付いてくれるのは半分くらいだったけど、それでもよかったのに。
「おしぼり、お持ちしましょうか」
声をかけられて気がついた。泣いてるんだ、私。青いワンピースについた水玉模様。シーテのマスカラでよかった。「泣けるマスカラ」ってキャッチコピー。たとえじゃなくって、本当にそんなシーン自分にやってくるんだ。「お願いします」と泣き笑いで返す。
顔を上げると、店内のカップルたちからの視線が刺さる。スプーンの音まで私を見ている気がした。
トイレから戻ったら恋人が千円札になっていた女。捨てられた女。「かわいそう……」そう言われている気がした。上等じゃん。マスカラは落ちてない。おしぼりで涙を拭いたら、私はこの店で一番綺麗な顔で、背筋を伸ばして店を出てやる。
ややあって、店員がおしぼりと氷の入ったグラスを持ってくる。わかってるなあ、この人。「ありがとうございます」と、いまできる精一杯の笑顔で礼を言う。歯茎が出ないように気をつけながら。
ミルクティーを一口飲んで、目元に店員さんの優しさを押し当てる。おしぼりに包んだ氷が気持ちいい。まぶたの裏には、アキラ君の笑顔。
大股で歩くアキラ君についていくの大変だった。でも、駆け足で追いついて腕に抱きつくの、好きだった。
自分のことばかり話す人だった。でも、たくさん笑わせてくれた。彼がいたから、平日のお仕事も頑張れた。ああ、でもたくさん歯茎見せちゃってたんだろうな。
私も言えばよかった。
「たのしかったよ」
「いままでありがとう」
いまから追いかけたら間に合うかな。言ったところでなにも変わらないし、彼のひどい言葉が引っ込むわけでもないけど。嫌なことばっかりじゃなかったでしょって、それだけ伝えたいな。「好きだったんだよ」って。
……ううん、やっぱりやめた。
そんなの、ただの私の自己満足だ。氷をグラスに戻し、私は深く息を吐き出す。アキラ君の千円札を掴んで立ち上がる。レジで「二人分で」と、その千円札ともう一枚を差し出した。
「珈琲、残しちゃってごめんなさい」
お釣りを受け取り、店員にそう告げて店を出る。
「……てき、です」
背中にかけられた欠片に、振り返る。
「笑顔、素敵です」
ドアをくぐってから、そっとつぶやく。
「でしょ」
(了)
