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AIエージェント作りは哲学だ

去年から今年にかけて、私はずっと何かを追いかけていた。

有料のウェビナーに申し込む。講師が画面に出したプロンプトを、そのまま写す。すると私の画面にも、同じようなものが出てくる。それが嬉しかった。しばらくのあいだ、私はそれで満足していた。

新しいAIが出たと聞けば触りに行き、便利だという投稿は保存した。覚えたころには次のものが出ていた。追いつけないのは勉強不足だと思っていた。実際そうだったのかもしれない。ただ、走っても前の人の背中が遠くなる感じだけがあって、あるとき立ち止まって思った。私は、何に追いつこうとしているのだったか。

順番が違う、と気づくのに一年かかった。道具の名前を百個覚えても、その道具に何をさせたいかは出てこない。そろそろ本質のほうを学ばないと、たぶん一生この列の後ろにいる。

そう思って本質とやらを覗きに行って、拍子抜けした。そこにあったのは、身構えていたような難しい理屈ではなかった。役割をはっきりさせること。やっていいことと、やってはいけないことを先に決めること。判断が要る場面では止まって聞くこと。間違えたときに隠さないこと。任せきりにせず、最後は自分が責任を取ること。

人を雇うときの話ではないか。

そこからだった。私はAIを、人として扱うことにした。擬人化して可愛がるという意味ではない。新しく入った人にするのと同じ手続きを、機械にもするという意味だ。仕事の範囲を書き、やってはいけないことを書き、困ったら誰に聞くかを書く。就業規則を作り、職務記述書を作った。書きながら、これは会社を作っているのだと気づいた。

すると、別々だと思っていたものが順につながりはじめた。

安全の話は、権限の話だった。誰に何をどこまで許すか。それは機械の設定ではなく、人事の判断だ。効率の話は、段取りの話だった。誰が何を持ち、どこで手渡すか。そうやってほどいていくと、最後はいつも同じ問いの前に立たされる。取り返しのつかないことを、誰の手でやるか。

私はその答えを「人間の手で」と決めた。決めたというより、そうとしか思えなかった。技術的に正しいからではない。私がそういう人間だからだ。

エージェントを作る作業は、結局、機械に自分の考えを書き取らせる作業だった。何を大事にし、何を許さず、迷ったときどちらへ倒れるか。それを文章にしないと、そもそも動いてくれない。技術の話をしているつもりで、私はずっと自分の話をしていた。

白状すると、私は今もIT音痴である。用語は半分も分からない。設定をひとつ変えるたびに、これで合っているのか不安になる。

けれど、もう怖くない。分からないのは道具の使い方であって、道具に何をさせるかを決めるのは、最初から私の仕事だ。使い方なら聞けばいい。聞く相手は、うちに二十三人いる。

楽しくて仕方がない。プロンプトを書き写して満足していた人間が、いまは自分の会社の就業規則を書いて、動かしている。順番は、遅れて分かることもある。

※この会社に「入口検疫係」を雇った日の話は、前作「入口検疫係を雇った日」に書きました。


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