「安定」を選んだはずなのに、なぜ生活は安定しないのか——縮小する日本で「安定の作り方」を考える
日本人は安定志向だ、とよく言われる。
起業して大きく稼ぐ可能性より、毎月決まった給料。
投資で資産を増やす可能性より、銀行預金。
多少収入が低くても、フリーランスより正社員。
こうした選択を見て、
「日本人はリスクを取らないから豊かになれない」
と説明する人もいる。
しかし、僕は少し違うのではないかと思っている。
日本人が特別に臆病だったというより、長い間、
「リスクを取らず会社員として生きること」が、本当に合理的だった。
社会保険、厚生年金、退職金、住宅ローン、企業福利厚生。
人生のさまざまな仕組みが、安定した雇用を中心に組み立てられてきた。
だから多くの人は安定を選んだ。
問題は、そこではない。
問題なのは、
昔と同じ方法で安定を求めても、昔と同じ安定が手に入りにくくなっていることだ。
「安定志向」は悪いことだったのか
たとえば高度経済成長期からバブル期、さらにその後しばらくまで、
「学校を出る→会社に入る→長く働く→老後を迎える」
というモデルにはかなりの合理性があった。
会社が成長していれば、毎年少しずつ給料が上がる。
人口が増えていれば国内市場も大きくなる。
若い労働者が多ければ社会保障制度も支えやすい。
住宅を買っても、人口増加地域なら資産価値を維持できる可能性がある。
こんな社会で、
「一つの会社で真面目に働きます」
という人生戦略は、それほど悪い賭けではなかった。
だから僕は、日本人の安定志向を単なる国民性で片付けるのには違和感がある。
社会そのものが、安定を選ぶ人に有利になるよう作られていた。
その制度に適応した結果として、安定志向が強くなったと考えることもできる。
ところが「何もしないこと」にもリスクが出てきた
現在は、この前提が少しずつ変わっている。
象徴的なのが賃金である。
厚生労働省の毎月勤労統計では、2025年の現金給与総額は増加したものの、物価上昇を考慮した実質賃金は前年比1.3%減となり、4年連続のマイナスだった。つまり額面の給料が増えていても、そのお金で買えるものは必ずしも増えていなかった。
これは、これまでの「安定」という概念を考えるうえでかなり重要だと思う。
会社を辞めていない。
失業もしていない。
給料も振り込まれている。
それでも生活は少しずつ苦しくなる。
急激な失業なら、誰でも危機だと気づく。
しかし、
外食を一回減らす。
旅行をやめる。
服を買う回数を減らす。
サブスクを解約する。
安い食品に変える。
こうした小さな調整が毎年積み重なる場合、人はなかなか「自分は下降している」と認識しない。
昨日と今日ではほとんど変わらないからだ。
しかし5年、10年と積み重なると、生活はかなり変わっている。
つまり、
リスクを取ることだけがリスクなのではなくなった。
何も変えずに同じ場所に居続けることにも、緩やかなリスクが存在する。
ただし「正社員が消滅している」という話でもない
ここは少し丁寧に見たほうがいい。
「日本では正社員がどんどん減り、非正規ばかりになっている」
という説明をよく見かける。
しかし直近の統計だけを見ると、そこまで単純ではない。
総務省の労働力調査では、2025年平均の正規の職員・従業員は3,708万人で、前年より54万人増加している。正規雇用は11年連続の増加だ。
非正規雇用も2,128万人存在するが、役員を除く雇用者に占める割合は36.5%で、前年より0.3ポイント低下している。
したがって、
「安定雇用そのものが消滅している」
という表現は正確ではない。
むしろ問題は、
正社員という肩書きを得ても、それだけで将来の購買力や生活水準まで保証されるわけではなくなったこと
なのだと思う。
正社員という椅子は存在する。
ただ、その椅子に座ったら人生が安泰だった時代とは条件が変わってきた。
人口減少は、かなり動かしにくい前提になった
もう一つ大きいのが人口である。
2025年、日本国内で生まれた日本人の子どもは67万1,236人となり、統計開始以来の過去最少を更新した。合計特殊出生率も1.14まで低下した。厚生労働省の人口動態統計が示している数字である。
もちろん出生率は将来変わる可能性がある。
したがって、
「日本の人口減少は絶対に止まらない」
とまで断定するべきではない。
ただし人口には大きな時間差がある。
仮に来年から出生率が急上昇したとしても、その子どもたちが働き始めるのは約20年後である。
さらに、子どもを産む世代そのものの人数もすでに減っている。
国立社会保障・人口問題研究所の2023年推計では、出生・死亡とも中位のケースで、2020年に1億2,615万人だった総人口は2070年に約8,700万人になると見込まれている。もちろん将来推計なので確定した未来ではないが、少なくとも「人口が再び右肩上がりになること」を前提に制度を考えるのは難しい。
ここから、日本の問題のかなりの部分がつながってくる。
人口減少は「人が減る」だけではない
人口減少というと、
「2050年には何千万人になる」
という巨大な数字で語られる。
しかし僕たちが実際に感じる人口減少は、もっと生活臭のあるものだと思う。
近所の店が閉まる。
バスが減便される。
地方鉄道の維持が難しくなる。
病院が遠くなる。
介護サービスの人手が足りなくなる。
インフラの更新費用を少ない人口で負担する。
つまり、
人口減少とは、人数の問題であると同時に、これまで安価に受け取っていた便益を維持できなくなる問題でもある。
戦後の日本は、基本的に「作る社会」だった。
住宅を作る。
道路を作る。
鉄道を作る。
水道を作る。
学校を作る。
人口が増えるので、先に作っても後から利用者がやってきた。
ところが縮小期には逆になる。
利用者が減る。
採算が悪くなる。
サービスを縮小する。
不便になる。
さらに人が出ていく。
そして利用者がもっと減る。
この循環が起きる。
「作る時代」と「畳む時代」は、かなり違う
ここには少し皮肉がある。
インフラを作るときには、
「国土開発」
「地域振興」
「日本の発展」
という大きな社会的プロジェクトとして扱われる。
しかし維持できなくなると、
「利用者が少ないので仕方ない」
「自治体で負担してください」
「地域住民で考えてください」
という話になりやすい。
言い換えるなら、
作るときのコストは社会化されやすいのに、畳むときのコストは地域や個人に近づいてくる。
人口が増え続ける社会では見えにくかった問題である。
そして、これから日本で重要になるのは、
「人口減少を止められるか」
だけではなく、
縮小に伴う負担を誰が引き受けるのか
という問題なのだと思う。
「日本の質が落ちた」のではなく、本当の価格が見えてきた可能性
もう一つ、縮小社会で起きそうなのがサービスの変化だ。
日本は長い間、
「安いのに高品質」
と言われてきた。
安い飲食店でも丁寧な接客。
時間通りに来る電車。
細かいところまで気を配るサービス。
高品質な工業製品。
しかし、これには当然コストがかかる。
技術革新で吸収できる部分もあるが、
長時間労働、
低賃金、
サービス残業、
下請け企業への価格圧力、
熟練労働者の経験、
人口増加期に整備された既存インフラ、
などによって吸収されていた部分もあった。
だから人手不足になれば、
24時間営業をやめる。
サービスを簡略化する。
値段を上げる。
配送を遅くする。
完全セルフ化する。
という変化が起きるのは、ある意味当然でもある。
これを「日本が劣化した」とだけ見ることもできる。
しかし、
これまで誰かが負担していた見えないコストが、価格として表面化している
と考えることもできる。
高品質・低価格が永遠に続くほうが、本来は不思議なのだ。
そこで「便益はどこへ蓄積するのか」と考えてみる
経済問題を考えていると、
政府が悪い。
企業が悪い。
高齢者が悪い。
若者が悪い。
富裕層が悪い。
外国人が悪い。
と、すぐ犯人探しになりがちだ。
でも、こういう議論はあまり前に進まない。
そこで僕が最近考えているのが、
「その仕組みによって生まれた便益は、最終的にどこへ蓄積するのか」
という見方である。
たとえば企業が効率化する。
人件費を抑える。
利益率が上がる。
その利益は設備投資に使われるかもしれない。
現預金として残るかもしれない。
賃上げに回るかもしれない。
配当や自社株買いに使われるかもしれない。
重要なのは、
「人件費を削った金がそのまま株主に渡った」
と単純化することではない。
実際の企業会計はそんな一直線ではない。
ただ、企業部門に多額の現預金が蓄積されている一方で、近年は株主還元も拡大している。
2025年度のTOPIX構成企業の自社株買い設定額は、4~12月だけで14兆円を超え、年度ベースで過去最高水準となる可能性が指摘されている。
ここで見るべきなのは、
「日本全体が儲かっているか」だけではなく、その利益を受け取る場所と負担を引き受ける場所が同じなのか
ということだと思う。
縮小社会では「動けるもの」が強い
そしてこの視点で見ると、縮小社会の特徴が一つ見えてくる。
労働者はあまり動けない。
会社がある。
家族がいる。
住宅がある。
学校がある。
親の介護がある。
言語の問題もある。
簡単に海外へ移住することはできない。
地方自治体も、その土地から逃げることはできない。
水道管も道路も動かせない。
一方で、資本はかなり動ける。
日本株が魅力的でなければ海外株を買える。
国内市場が縮んでも、海外市場で売る企業がある。
資金は国境を越えられる。
だから縮小社会では、
「動ける資本」と「動けない生活」の差が大きくなりやすい。
これは誰かの陰謀という話ではない。
資本というものが、もともと労働や土地より移動しやすい性質を持っているからだ。
国際的にもこの問題は認識されており、OECD/G20では、多国籍企業の利益に最低15%の実効税率を確保するグローバル・ミニマム課税が進められている。資本や利益が低税率国へ移ることで各国が際限なく法人税競争をするのを抑える仕組みだ。日本でも法制化されている。
つまり、
「資本は逃げられるから課税できない」
というほど単純でもない。
ただ、労働より資本のほうが移動しやすいという非対称性は残る。
ピケティの「r > g」を日本で考えると
ここで思い出すのが、トマ・ピケティの有名な「r > g」という考え方である。
rは資本収益率。
gは経済成長率。
資本から得られる収益率が経済全体の成長率を長期間上回ると、資産を持っている人の富が、労働所得を中心に生きる人より増えやすくなるという議論だ。
もちろん、
「日本は人口が減っている。だから必ずr > gが拡大する」
とまで言うことはできない。
資産価格は下落することもある。
企業利益も減ることがある。
投資には当然リスクがある。
しかし、この考え方には重要なヒントがある。
日本国内の人口が減っていても、資本の投資先まで日本国内に限定されるわけではない。
世界株を買うこともできる。
世界で事業をする会社の株主にもなれる。
一方、日本国内に住んで日本国内の労働市場だけから収入を得ている人は、日本経済の縮小圧力を比較的直接受ける。
だから、
「労働する側」と「資本を持つ側」の両方に少しずつ足を置く
という考え方は、縮小社会では今まで以上に重要になるのではないかと思う。
だからといって「みんな投資しろ」ではない
ここで話を間違えると、
「貧しい人は投資をしなかったから悪い」
という自己責任論になってしまう。
それは違う。
投資するには、まず余剰資金が必要だ。
家賃や食費で収入のほとんどが消える人に、
「S&P500を買えばいい」
と言っても仕方がない。
投資には元本割れもある。
病気や介護などで資産を取り崩す人もいる。
したがって、社会全体としての再分配や社会保障は必要である。
実際、2013年以降に行われた生活扶助基準の引き下げについては、2025年6月、最高裁がその改定を生活保護法に違反し違法と判断した。セーフティネットの水準をどこまで下げられるのかも、縮小社会の分配を考えるうえで重要な問題である。
しかしその一方で、個人の戦術として、
労働収入しか持たない状態から少し離れてみる
ことには意味があると思う。
「安定した会社」を探すことから「安定した構造」を作ることへ
昔の安定は、
「いい会社に入ること」
だった。
しかし、これからの安定は少し違うかもしれない。
たとえば、
給与がある。
少額の金融資産がある。
配当が少しある。
小さな副業収入がある。
自分で作ったコンテンツやソフトウェアから収益がある。
自動化された小さな事業がある。
どれか一つが止まっても、全部がゼロにはならない。
一つ一つの収入が巨大である必要はない。
むしろ、
小さな収入源がいくつかあるほうが、本当の意味では安定している
とも考えられる。
これは起業家になれという話でもない。
会社を辞めろという話でもない。
一発逆転を狙えという話でもない。
反対である。
安定が欲しいからこそ、
一つの会社だけに人生を預けない。
という発想だ。
「カブアンド」のような発想が面白い理由
この文脈で見ると、生活サービスの利用を株式保有につなげようとする「カブアンド」のような仕組みが面白く見えてくる。
重要なのは特定企業の株価が将来上がるかどうかではない。
そこは誰にも分からない。
それよりも、
「消費者はお金を払うだけ」
という関係から、
「消費者も資本を持つ側へ少し移動する」
という発想そのものが興味深い。
資本家と労働者を完全に別の階級として考えるのではなく、
普通に働いている人も、ごく小さな資本所有者になる。
新NISAなども含め、こうした方向はこれから重要になっていくと思う。
ただし、これだけで日本全体の格差や人口減少問題が解決するわけではない。
個人の資産形成と、国家の再分配政策は別のレイヤーの話だからだ。
日本は「詰んでいる」のか
ここまで書くと、
「結局、日本はもう詰んでいるのでは」
と思う人もいるかもしれない。
僕は、半分はそうで、半分は違うと思う。
人口をもう一度急増させ、高度経済成長期のような内需拡大型社会に戻す。
全国どこでも同じ密度の交通網や公共サービスを維持する。
安くて高品質なサービスを人手で大量に提供する。
こうした意味で「昔に戻る」ことは、かなり難しい。
でも、
縮小することと、全員が同じ割合で貧しくなることは同じではない。
人口が減るなら、都市をどう集約するのか。
インフラをどこまで維持するのか。
自動化をどう使うのか。
企業利益を賃金・投資・株主へどう配分するのか。
社会保障の負担をどう分けるのか。
個人がどの程度資本を持てる社会にするのか。
ここにはまだ大量の選択肢がある。
だから、
「日本を再び成長させられるか」
という問いだけではなく、
「縮小しても、人が安心して暮らせる構造をどう作るか」
という問いに変えたほうがいいのだと思う。
おわりに——安定を捨てるのではなく、安定の定義を変える
僕は、安定志向そのものは悪くないと思っている。
むしろ非常によく分かる。
毎月家賃を払わなければならない。
食費も必要だ。
病気にもなる。
老後もある。
そんな人に、
「リスクを取れ」
と言うほうが無責任な場合もある。
ただ、
「リスクを取らなければ安全である」という時代ではなくなってきた。
ということは意識しておいたほうがいい。
かつての安定は、
一つの会社。
一つの給与。
一つのキャリア。
一つの年金。
という一本足の構造だった。
これからの安定は、
給与。
小さな資産。
小さな副収入。
自分で持つ生産手段。
社会保障。
いくつかの仕組みを組み合わせることなのかもしれない。
つまり必要なのは、
「安定を捨ててリスクを取ること」ではない。
そうではなく、
「与えられる安定」から「自分でも組み立てる安定」へ移ること。
会社員をやめる必要はない。
投資家になる必要もない。
起業家になる必要もない。
でも、
会社員でありながら少し投資家でもある。
労働者でありながら、小さな生産手段も持っている。
消費者でありながら、少しだけ所有者でもある。
そんな中間的な生き方は作れる。
人口が増え続ける社会では、一つの大きな船に乗ることが安定だった。
人口が減っていく社会では、
船が傾いたときに備えて、小さな浮力をいくつも持っていることのほうが安定なのかもしれない。
「高収入か、安定か」。
そんな二択自体が、もう古くなりつつある。
これから考えるべきなのは、
どの会社なら一生安泰かではなく、自分の生活を一つの場所に依存させないために、何を少しずつ持てるのか。
縮小する日本での「安定志向」は、そこから再設計していく必要があるのだと思う。
