AIが知らない問いを生きるということ
最近、「仮説を立てて実験する」ということの面白さを、改めて感じている。
それは別に科学実験のような大それたことじゃなくて、自分なりに「なぜ?」とか「こうしたらどうなる?」という問いを持ち、それを日常の中で試してみる。
その中から、自分の思想が少しずつ形になっていく感覚。
僕が大事にしているのは、「構造仮説思考」みたいなものだ。
これは、自分なりの構造(前提と仮説)を立てた上で、世界に問いかけてみるという姿勢でもある。
もちろんそれは間違っているかもしれないし、検証ができないまま終わることもある。
でも、「問い→試行→観察→思考→公開」みたいなループを回していくことで、経験を通じてしか得られない“思想のコア”みたいなものが育っていく気がしている。
そしてたぶん、これからのAI時代には、こうした姿勢こそが面白がられる。
AIは文章化されたもの・既に誰かが書いたものにはめっぽう強い。
逆にいえば、「まだ文章化されていないもの」には無力だ。
誰も言語化していない問い、誰も試していないやり方、言葉にならない感覚。
こういう部分に、自分の思考や経験を通してアクセスしていくことに、これからの人間の役割があると思う。
AIは僕らの思考の壁打ち相手にはなるけれど、その元になる「問い」はやっぱり人間が投げるしかない。
そしてその問いが、誰かの言語をなぞったものではなく、自分なりの経験や文脈から生まれたものであればあるほど、価値が出る。
もっといえば、その仮説や問いを「途中のまま」でもいいから公開していくことが、ひとつの表現になっていくと思う。
結果が出てから、正解がわかってから出すのではなく、「こんなこと考えてる」「試してみた」「うまくいかなかったかも」そんな断片こそが今の時代には共感されるし、再現性のない個人のストーリーとして魅力になる。
僕自身も今、そういう生き方を少しずつ試している。
「問いログ」を残したり、小さな検証をやってみたり、AIと一緒に観察や要約をしたり、そしてそれを記事という形で残したりしている。
日常の中の「問い→実験→考察→共有」をコンテンツにしていくようなライフスタイル。
これがうまくいけば、コンテンツを作ることが「まとめ」ではなく「生き方の記録」になっていく。
そして、そういう姿勢を持った人がどんどん現れてくることで、AIが扱えない“未言語領域”に光が当たり、人間が面白がられる時代がくる。
僕はそう信じているし、今その仮説を、日々試しているところ
